大 乗 の 旅 ----X

 

  このページでは、仏教の経典600巻の内の南妙法蓮華経と般若心経の解説を私たち女子大生の立場から解説し、より身近な物   にしたいと思います。お釈迦様の教えは元々なぜ、苦しみは生じるか?・苦から逃れるのはどうすれば良いか?と言う事で、坊さんの物ではありません。(ヾ_‐)

      ---担当:経済学部経営学科2年 由美---

案 内 人

私の名は弥勒
お釈迦の悟りは、
背景にはバラモン教の輪廻転生・身分制度が存在し、時代は戦国時代で有った。

そう言った世の中で、色々な教え(ウパニシャッド哲学)学びながらも、人生の無常の現実に苦悩する毎日を過ごした。

出家して6年(一説には7年)の間、苦行を積んだ悩みは尽きる事が無かった。そして、ともに苦行を行っていた5人の沙門と別れ、ガヤー村の菩提樹の下で、49日間の観想に入り、、ついに12月8日の未明に大悟する。

その悟り(阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい))を、ともに苦行を行っていた5人の沙門の仲間に説こうと座を立った。

釈迦は彼らの住むバーラーナシー まで、自らの悟りの正しさを 十二因縁の形で確認しながら歩んだ。

釈迦は、その最初の説法(初転法輪)で、まず非苦非楽の中道を説き、それを八正道であるといい、さらに 四諦を説いたといわれる。

四諦を説いて、その道諦として八正道を説いたのでなく、中道とは八正道であることを説いて、ついで四諦を説いたのである。

このことは、四諦という教義的組織は、八正道を中道と説く立場の教義的な裏づけであることを示している。

釈迦の説法は、直接に人間の実践を主としており、教理は実践を体系付け裏付けるものである

六波羅蜜
1. 檀那波羅蜜(だんなはらみつ)
檀那(Dānaダーナ)は、布施と訳す。財施、無畏施、法施の行。
2.尸羅波羅蜜(しら―)
尸羅(Śīla)は戒と訳す。持戒のこと。
3.羼提波羅蜜(せんだい―)
羼提(Ksyānti)は忍辱と訳す。苦難に耐え忍ぶこと。
4.毘梨耶波羅蜜(びりや―)
毘梨耶(Vīrya)は精進と訳す。身心を精励して六波羅蜜を進修すること。
5.禅那波羅蜜(ぜんな―)
禅那(Dhyāna)は禅定と訳す。真理を思惟して散乱の心を定止すること。四禅、四無色定、九次第定、百八三昧など。
6.般若波羅蜜(はんにゃ―)
般若(prajñāプラジュナー)は智慧と訳す

5見
1.身見=我見+我所見
我見(がけん)
自分は5うんから成っている事を知らず、自己の実在が絶対なものと考えること
我所見
周囲のものは自分の一時的な所有物であるにも関らず自己に所属すると考えること
2.辺見(へんけん)=常見+断見
常見(じょけん)
体有る事により身見を起こし、自分が死んでも何も変わらないことを信じる
断見(だんけん)
体有る事により身見を起こし、自己が死ぬ事ですべてが解決ことを信じる
3.邪見(じゃけん)
因果の道理を否定する、
4.見取見(けんじゆけん)
誤った見解を信じる
5.戒取見(かいじゆけん)
誤った宗教的行為を信じる

・六欲(人の貧欲を起こさせるものを言う)
1.色欲
色や形をもつものに執着すること及び淫欲(男女の性的な欲望)
2.形貌欲
美しい容姿・物のかっこ形に執着すること
3.威儀姿態欲
礼儀正しく態度に執着すること
4.言語音声欲
美辞麗句を好み、耳当たりの良い言葉だけに執着すること
5.細滑欲
人の些細な失敗を喜ぶ事や些細な事に執着すること
6.人想欲
恋いがしたと思う気持ちに執着すること

私たちの悟りは
”とにかく、何でもやってみる。ダメな時は怒られても、教授に聞く”
以上

掲示板

ご意見・ご感想

参考サイト
Oh My Buddha(おう まい ぶっだ)

やさしい法華経物語

無相庵

維摩詰所説経
つばめ堂通信


空海スピチュアル

栄昌山妙法寺
(部分訳)


仏教研究専門サイト
『密厳浄土』
華厳経


阿含経
多聞の聖弟子



■はじめ

普通の人が、仏教と聞いただけで加持祈祷(かじきとう)や読経(どきょう)を思い起こし、次に滝行や断食行 などの荒行や禅行・写経・布施行などを連想するでしょう。

更に、仏教の道場として寺院は葬儀の場として使われている印象が強く、あまり好ましい所としての イメージが有りませんでした。 ところが、最近では若い女性向けに仏教カフェプチ断食寺が出来るように成り、より身近なものに 成って来ています。

そうした中、私たちは大乗仏教の教典である大般若経600巻を訳そうと思ったのですが、とても無理なので それをまとめたものである般若心経に挑戦する事にしました。

けれど、僧侶でなく、男でもない私たちが訳すのは困難なので、般若心経の解説本を見たり、人に聞いたりしながら 妥当な所を掲載する事にしました。

しかし、私たちは除霊や呪術などの迷信を進める訳ではありません。お釈迦様のエピソードを描いたジャータカの 中でも、呪術者に悩まされる話が出てきます。また、仏教では人の苦しみや悩みは悪霊や神の仕業では無く 自己の内面に由来すると言う教えです。では、早速、仏教の解釈に入りましょう。

■仏教の解釈

解釈に入る前に、簡単は経緯を述べて置きましょう。
仏教は紀元前4〜5世紀にお釈迦様によって、開かれた教えです。そして、お釈迦様がこの世を去ると、弟子達に より戒律の確認作業が行なわれました。これを結集(けっしゅ)と呼び、また出家信者の集団をサンガと呼びます。

やがて、お釈迦様の死後100年過ぎ、アショーカ王の頃には戒律をめぐってサンガは分裂を起こすようになりました。 一回目の分裂で大衆部と上座部に分かれ、これを根本分裂と呼びます。

しかし、更に二部は枝末分裂を起こして、いわゆる小乗20部が誕生するアビダルマ仏教時代を迎える。 中でも、上座部系説一切有部・上座部系正量部・大衆部が有力に成っていった。

紀元1世紀頃、在家信者を中心として大乗思想運動が起こり、大乗仏教が生まれた。そして、 150年頃に般若経、法華経を始とする数々の教典が生まれ、龍樹によって、 理論体系化され大乗仏教は大きく発展し、約5世紀頃に唯識学派の無著・世親によって完成を迎える。

その後、様々な経典はシルクロードを通り鳩摩羅什玄奘真諦・不空金剛・霊仙らによって漢訳されて中国に伝わり、 欽明天皇の時、百済から日本に伝来する。

その後、日本では一大仏教国となり、様々な宗教観をもって十三宗五十六派が誕生する。 インドはラージプート時代を迎え、仏教もヒンドゥー教の密儀であるタントラ(技法・実践)と結びついて密教となって、7世紀頃に インドから消える。

この般若心経はお釈迦様の教えを伝えた般若経600巻のエキスを取り出したものだと言われている。また、 この般若心経はたった278文字より構成され、当時、最有力であった「一切有部」が主張していた三世実有法説 (倶舎論)を中観派(中論)の龍樹が否定する為に書いたもの と考えられている。

更に、それら言葉の意味の解説は大智度論にまとめられたとされ、 現に,多くの宗派が大智度論を仏教用語辞典として使用している。 以上

般若心経

観自在菩薩 行深般若波羅蜜多 時照見五蘊 皆空度一切苦厄
観音様は若波羅蜜多(はんにゃはらみつだ)に行きついた(悟った)。五蘊(ごうん)がすべて”空”であり、その事が 一切の苦や厄から人を救う事ができると照らして見た時に、

舎利子 色不異空 空不異色 色即是空 空即是色 色受想行識亦復如是
舎利子よ、色は空と異ならず、空も色とは異ならずや、色は即ち、これ空なり、空も即ち、これ色である。 色・受・想・行・識もまた、この様なものである。

舎利子 是諸法空相 不生 不滅 不垢 不浄 不増 不減 是故空中
舎利子よ、これら諸法は空相であり、生ぜず、滅せず、垢つかず、浄からず、増さず、減らず。これ故に、空の中にある。

無色 無受想行識 無眼耳鼻舌身意 無色音臭味触法 無眼界乃至無意識界
色も無く、受想行識も無く、眼耳鼻舌身意も無く、色音臭味触法も無く、眼界も無く、もしくは意識界までも無く、

無無明亦無無明尽乃至 無老死亦無老死尽 無苦集滅道 無智亦無得巳 以無所得
無明も無く、また無明を尽くす事も無く、あるいは老死も無い、また老死を尽くす事も無い、苦集滅道も無く、知恵も無く、 また、満たされる(得巳)事も無い。以上より、所有するものを得られ事が無い。

故菩提薩埵 依般若波羅蜜多 故心無罣礙 無罣礙故 無有恐怖 遠離一切顛倒 夢想究竟涅槃
故に、菩提薩埵は般若波羅蜜多により心が無罣礙になり、無罣礙である故に、恐怖がある事が無い。 一切の顚倒から遠く離れて、夢想を極めて涅槃に至る。

三世諸佛 依般若波羅蜜多 故得阿耨多羅三藐三菩提 故知般若波羅蜜多 是大神呪
三世諸佛は般若波羅蜜多に依りて、故に阿耨多羅三藐三菩提を得る。般若波羅蜜多を知る為に、是の大神呪がある。

是大明呪 是無上呪 是無等等呪 能除一切苦真實不虚 故説般若波羅蜜多呪 即説呪曰」
これ大明呪なり、これ無上呪なり、これ等呪は無等なり、能く一切の苦を除き、真実であり虚にあらず。般若波羅蜜多の呪を説く為に そして、呪を説いて言う事は

「掲諦 掲諦 波羅掲諦 波羅僧掲諦菩提 薩婆阿」
「ギャティー、ギャティー、ハラソーギャティー、ハラソーギャティーボダイ、ソワカ」

般若心経の和訳

では訳に入りましょう。
ありとあらゆる物をあるがままに見ることが出来る求道者(観音菩薩)が深い瞑想に入り(深)、完全に(波羅) 人を涅槃へと渡す(蜜多)智慧(般若)に至る事(行)が出来たのである。
自分と言うものを構成している五つの塊(五蘊)は、皆、実体が無く、それ故に、全ての苦しみや 災難から逃れられる事を明らかに見極められた時、

この部分は釈迦が菩提樹の下で瞑想している姿を描いている。
#観自在菩薩とは
梵名アヴァローキテーシュヴァラと言い、アヴァ(普く)+ローキテー(見る)+シュヴァラ(自在者)から成る合成語、 それを日本語に置き換えるとこの様に無くなる。
#行深般若波羅蜜多とは
「行」→行為を表す。
「深」→小乗と大乗を区別するためのもの。
「般若」→智慧(四諦八正道の事)の事。
「波羅蜜多」→完全に〜に至ると言う意味。
五蘊とは
人を色・受・想・行・識の五つに分類する事により無我を証明したもの
「色」→初めは人の身体だが、後にすべての物質を意味した。
「受」→六根を通して受ける苦(ストレス)の事
「想」→六境に触れて連想する事
「行」→意志による行動
「識」→六境を判別する事

舎利子(しゃりし)よ。
あらゆる現象は実体が存在する訳ではない(色不異空)。実体が無いと言って物が存在しない訳ではない (空不異色)。すなわち、あらゆる現象には始から実体がないのであり(色即是空)。実体がないから現象 が有り続けられるのだ(空即是色)。また、色・受・想・行・識も、同じ理由で実体が無いと言えるのである。

この場面は前節で人の肉体や心と言った人に関して空、つまり実体がない事を説いたが、更にあらゆる物に ついても、空である事を説明している。
当初は色即是空・空即是色であったが、後に色不異空・空不異色を鳩摩羅什によって付け加えられた。
色不異空・空不異色・色即是空・空即是色→ 色は空と異なる事はない。だからと言って、空も色と異なる事はない。よって、色は空であり、空は色と言える。→ 背理法 または帰謬法(きびゅうほう)を使って、色が空である事を証明している。
#空とは
龍樹が唱えた説で『すべての存在は、縁起 の道理に基づいて成立する為、ある存在が他の存在との関係において成立するのであり、どの様な存在も、他と無関係 にそれ自体、独立した性質のものとして存在することは不可能である。故に、自性がなく空である。』と主張したもの。
お釈迦様が説いたのは『これが有る時、あれが有る。これが無い時、あれも無い』と言う縁起説を唱え「無我」を主張 しながらも、ある一方で輪廻する主体の存在()も認めていた。
これらの矛盾を説いて改めたのが龍樹であった。そして、輪廻するものも空である事を証明したのである。

舎利子(しゃりし)よ。
これら、あらゆるものの存在()は 他に依存する性質(空相)を持つ為、 何ものも新たに生ずる事も、消滅する事も無く(不生不滅)、何ものもそれ自身では美しくも汚いものでも無く(不垢不浄)、 何ものもそれ自身では減らす事も増やす事が出来ないのである(不減不増)。

この場面ではものの存在(法)意義について述べている。その意義とは他に依存的であり、 本来の価値はゼロ(空)で有ると言う事です。
不生不滅・不垢不浄・不減不増は 中論の八不を引用したもので、ものの本当の姿を 述べたものとされ、お釈迦様が唱えた中道を 意味している。
#法とは
ヴェーダ時代では人間生活の秩序→ウパニシャッド時代では最高の真理→仏教では思想から実践を意味する様に成り、 終に真理と存在になった。
法を真理と解釈する場合
法→仏の悟った教えを意味する。
法を存在と解釈する場合
法→存在している個々のもので人が認識した所のものを意味し、 出世間法と世間法がある。

この様に実体がない世界の中にあるのだから、物質的な物(色)も無く、心の動きである感覚(受)やイメージ(想) や意志(行)や記憶(識)も無く、色を認識する六根の眼・耳・鼻・舌・身・意も無く、欲の対象となる六境 の色・音・臭・味・触・法(存在)も無く、六境を区別して閉まって置く六識の眼界から意識界までも無い。
更に、道理に暗くて迷う事(無明)や迷いを尽くして果を生じる事も無ければ、老いて死ぬ事(十二因縁)も無く、 また、老死が無くなる事も無い。苦しみ(苦諦)・苦しみの原因(集諦)・苦しみを滅する方法(滅諦)・ 正す道諦も無ければ、知恵も無く、また求める心を止める事も 無い。よって、自から所有するものは何も無いのである。

この場面では、この世すべてが空性を具えている事を述べている。
その結果、一切有部の説いた全ての法→五蘊・六根・六境・六識・無明から始まり老死で終わる十二因縁・ 四諦(苦・集・滅・道)・智慧(一切智・道種智・一切種智)・108煩→実体であり、輪廻する。
しかし、龍樹はこれを否定する為に、無〜。と言う表現をし、全ての法も実体が無く、輪廻する事が 無い事を示した。

#一切法とは
五蘊・十二処・十八界から成る三科(さんか)を言う。
#十二処とは
六根(眼・耳・鼻・舌・身・意、心の働き)+六境(色・声・香・味・触・法)→十二処 #十八界とは
十二処+六識(眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識)→十八界
唯学派では
更に、末那識阿頼耶識を加えられた。
#無〜とは
無○○はもの存在を否定したものではなく、○○自体で存在することが出来ない事を意味している。例えば死であるが すでに死んだ人に、再び死は訪れない。また、生きている人でも死の意味が分からない人には死がもたらすものの 存在はない(精神的)。よって、生きる意味が分からない事を意味している。
#無明〜老死とは
1.無明(むみょう)→2.行(ぎょう)→3.識(しき)→4.名色(みょうしき)→5.六処(ろくしょ)→6.触(そく)→7.受(じゅ) →8.愛(あい)→9.取(しゅ)→10.有(う)→11.生(しょう)→12.老死(ろうし)の 十二因縁を言っている。
#苦集滅道とは
苦諦・集諦・滅諦・道諦の四諦の法の事を述べている。 /苦諦
人が生きるということは苦であるという真理→四苦八苦
/集諦
その苦の原因は人間の執着にあるという真理→渇愛(執着)により三毒(貪欲、瞋恚、愚痴)を持つ為に苦を生じる。 また、渇愛の因果を十二因縁で示している。
/滅諦
この苦を滅した境地が悟りであるという真理→森羅万象すべての法は因縁(空)より成り立って実体がない。 故に、苦は縁であり、因である心や行いを変える事で苦を滅し、煩悩から解脱して涅槃に渡る事が出来る。
/道諦
その悟りに到達する方法が仏道であるという真理→涅槃に渡る方法として 四念住(処)・四正断・四神足・五根・五力・七覚支・八正道の七科三十七の修行の事
#智とは
一般に世間で真理といわれるものを知ること→行動と結果の因果関係にある 因果応報を知る事で「善因善果」「悪因悪果」ではない。
また、智はの一つでもある。

よって、仏道を求める人々(菩提薩埵)は、
完全な智慧よって、心を妨げているもの が無くなったのである。妨げるものが無い事により、恐れるものが無くなり、すべての顛倒(てんとう)から遠く離れて 妄想を抱く境地を見極め涅槃(悟りの境地) に達する事が出来るのである。

この場面は完全な智慧(般若波羅蜜多)によってもたらされる効果を語っている。つまり、六羅蜜多を実践する 事から道理に通じて迷いが無く成る為、自の欲に執着する事が無くなり、それを失う恐怖も消えて世の無常の 中において穏かな心境をえられる事である。
#菩提薩埵とは
菩提→サンスクリット語のボーディから由来し、意味は人→道→悟り→智に変わって行く。そして、智とは 一切種智を言う。 薩埵→サットバはサンスクリット語で迷い人と言う意味。よって、菩提薩埵は普通の人々であるが、 ここでは仏道を求める人にする。
#般若波羅蜜多とは
前節で完全な智慧と訳したが、ここでもう少し波羅蜜多について詳しく述べる。波羅蜜多には布施・持戒・忍辱・ 精進・禅定・智慧の六波羅蜜があり、 菩薩の位にある者がやらなければならない修行で智慧波羅蜜だけでは涅槃に渡れない。
#顛倒とは
釈迦が出家した時、人々は以下の様にこの世を見ていた。
/無常であるのに常と見る。
/苦に満ちているのに楽と考えていた。
/人間本位の自我は無我であるのに我があると考えていた。
/不浄なものを浄らかだと考えていた。
これらを四顛倒と呼び、否定して、この世は無常・苦・無我・不浄であると説いた。これより、 仏教の根本原理の諸行無常・一切皆苦・諸法無我が生まれ、後に仏や涅槃の境遇を表す言葉として 常楽我浄が生まれた。
#恐怖とは
喜怒哀楽などの感情の一つであり、安全への退避の動機を起こす役目を果たしていて、無智により増幅される。 人にとって一番の恐怖は死や死後の世界であるが、仏教では浄土と 六道思想を作りこれらを軽減している。
#夢相・涅槃とは
夢相(妄想)→煩悩に束縛され、自由のない娑婆世界に住む凡夫の境地。
涅槃→心の安らぎ、心の平和によって得られる楽しい境地

あらゆる世の心ある人々よ。
この完全な智慧によって、菩薩の様に、これ以上無いくらいに真実を正しく知る者と成る事が出来るだろう。 そして、ここに完全な智慧を知るための陀羅尼がある。

この場面は仏道を目指す人への問い掛けを記したものであり、前節では普通の人の心境と悟りを得た人の心境を描いたが この説では人格について述べたものと思われる。
#三世諸仏とは
三世諸仏→読者の問い掛けとして、あらゆる世の心ある人々と訳した。
三世→過去・現在・未来の事で、あらゆる世を示している。
諸仏→ほとけとは一般には悟り(真理)を開いた者やお釈迦様を指すのであるが、それでは意味が通じないので人と訳した。 なぜならば、悟りを開く者は生きている人だけである。
#阿耨多羅三藐三菩提(あのくだらさんみゃくさんぼだい)
阿耨多羅(anuttara)は無上、三藐(samyak)は正しく完全なもの、三菩提(sambodhi)は悟り、つまり最高な完全な悟り と訳すが、ここではもう少し分かり易く約した。
#呪(じつ)とは
真言や陀羅尼(だらに)の事で、仏教で唱えられる一種の呪文。ダーラニーとは「記憶して忘れない」という意味で、 本来は仏教修行者が覚えるべき教えや作法などを指したもの。 →『観音経』

これは大神の真言であり、かつ大明神の真言でもある。故に、これ以上の勝れた真言や、これに匹敵する 真言など有るはずが無い。更に、この真言を唱える事により、良く、苦しみを滅する事が出来るのである。

この場面は般若波羅蜜多(はんにゃはらみつだ)の凄さを表す為に書かれて部分であり、この真言を唱えただけでも、 あらゆる苦しみから逃れられると、述べて読者を引き付けている
#大神とは
アグニ神の事と思われる
#大明神とは
霊験あらたかな神をいう

この事は真実であり、偽りでは無い。故に、完全な智慧の真言を説くのである。そして、すぐに真言が 明らかに述べている所を説くのである。

「ギャティー(生きるのだ)、ギャティー(生きるのだ)、ハラギャテイー(正しく生きるのだ)、ハラソギャティーボダイ (正しく生き続ける事が悟りである。)ソワカ」

この場面はハンニャハラミツダの真言を伝える事で、その意味を間接的に伝えようとしている。また、 この真言は未だに解き明かされていない。
#掲諦(ぎゃてい)
行く・生きると言う意味、ここでは継続を意味している
#波羅(ハーラ)
目的地、一般的には彼岸と言う意味です。此岸が普通の日常で忍土とも、娑婆とも言う、ここでは夢とした
#波羅僧(ハラソウヤ)
目的地に向かうと言う意味。

ーー以 上ーー

■あとがき
般若心経の和訳するに当たり、多くの文献を見たり、多くの人の意見を聞きながら、また自分たちの少ない体験を通し、 般若心経の和訳に臨みました。平成20年12月吉日現時点では上記のように考えていますが、これが正しいとは思いません。 でも、これを皆さんに投げかける事で、本当に般若心経が分かる時が来ると思うからです。

般若心経の和訳を通して、私たちが感じた事とは
人が弱い者であると言う事は、人類がこの世に生まれた有史以来、変わらない事であり、今後もその事は 変わらないと思える事です。

お釈迦様が言う様に、
人は常に自分が他人とは違う存在と思いながら生きている。その為、他人を恨んだり、憎んだりしながら嫉妬の炎 を燃やす。

そして、他人を怒ったり、無視したりして人を傷つけても無智な為に気付かず、相変わらず自分勝手な 振る舞いを行いながらも孤独を嫌う。やがて、欲を貪り、その為にすべてのものを失う病い・老い・死に 恐れを抱いて苦しみを感じて生きて行くのです。

そこで、お釈迦様は考えたのです。どうすればこの様な人の習性から抜け出して人が持つ本来の姿に戻れるのかを。 そして、様々な修行して見つけたのです。すべての生き物は他の生き物を抜きにしては生きられないのと同じ様に、 人も同じである。故に、人は皆、平等で特別な存在など有るはずが無いとして無我を説いた。

更に、苦が生じるのは自分の存在を主張するあまり、他の者の存在を無視している内に、自分の利益に成らない者 を排除しょうとする心を育てる為であり、それに伴なって環境が変わる事に気付き、諸行無常・慈悲を説いた。

また、過去の行い(風習)と感情が繋がって現在に輪廻して新たな行いが生まれ、また新たな苦が生まれ代々繋 がって行く事も解明し、その対策として戒律・智慧を説いた。

今から、2500年前に現在の様な物質文明がないにも関らず、良く人と言うものを分析し、捕らえる事が出来た ものです。現在の悩科学でも、悩の働きについて解明されて来ていますが、仏教の様に人の行動を通して心を改善 しょうとする試みはされていません。

この事を考えて見ただけでも仏教は興味深いものです。仏教はただ単に、キリスト教の様に神に全てを委ねる信仰 ではありません。自分とは何か、あるいは生きている意味とは何かを悟らす教えだと思うのです。

これは私たちの意見なので、詳しい事は仏教に関する本が沢山出ていますのでそれらを参考にして下さい。 必ず、新たな発見があるかもしれません。---------終わり

■生活に役立つ法華経

法華経は大般若経600品とは、別の時代に編纂された物とされました。最初の頃は教団に認められなかったが 在家信者の間に、徐々に広がり法華経もお釈迦様の教えを伝える物の一部として、受け入れ始めました。法華経は 在家信者に用いられた様に、お釈迦様の教えの大切な所だけを抜粋した物で、詳細は大般若経です。

ちなみに般若心経は大般若経のまとめです。お釈迦様が説いた物ではありませんが、重要な事、つまりキーワード が書かれています。これらの事が分かれば、大般若経を読んだのと同じです。と言うのも、これらの言葉の意味が 大般若経に載っているからです。いわば、大般若経は辞書代わりの様な一面もあります。

そして、重要な教えは書いていません。なぜならば、仏教は”縁”にふれて、自分で悟を啓くものだからです。 各々が持ている縁・因・性格・能力・習慣・価値観などが違う為、悟る所が違うからです。

ただ、お釈迦様が説いたのは”一切皆空(因・縁)”そこから先は自分で体験し、知識を深め求める事です。 そして、一つの事に捕らわれない事で、柔軟な心を持つ事が大切である。

また、お釈迦様は自分がこの世に生まれた時、自分が説いた法華経により佛に成る事、それ故に弟子を佛にすると 説いています。また、ある坊さんの説だと、お釈迦様の生まれ変わり証拠は足の裏にほくろがある人だそうです。

★無量義経(三世の諸仏が支持する教えで、菩薩が学ばなければ成らない物)
1)徳行品
  十種類の不思議な功徳を順番に説いた品、つまり十悪を治す事ができる。
  十悪
   殺生(せっしょう);人を殺したり傷つけたりすること。無意味に生き物の生命を奪うこと。
   偸盗(ちゅうとう);盗み。
   邪淫(じゃいん);道ならぬ男女の関係。
   妄語(もうご);嘘をつくこと。
   綺語(きご);上手なことを言って、口先でごまかすこと。
   両舌(りょうぜつ);二枚舌を使うこと。
   悪口(あっく);他人の悪口。
   貪欲(とんよく);むやみに物を欲しがること。
   瞋恚(しんに);むやみに怒るくせ。
   愚痴(ぐち);人間らしい智恵に欠ける言動。

 2)説法品
    工事中

 3)十功徳品
  お釈迦様の教えが無量義(普遍である事)と、無量義経の十個の不思議な功徳の能力が   書かれている。

■南無妙法蓮華経
1)序 品
1.聞きたいと願う者には四諦の法を説く、
ア)苦諦
苦の定義、すべての刺激は苦よって、一切皆苦である。
人の根は鈍くある種の刺激を苦と感じない。
人生で最大の苦は四苦八苦

イ)集諦
苦を集める物
渇愛→三毒→悪業→執着→悩む
ウ)滅諦
涅槃を教える。
涅槃;この世のすべての物は実体がないく、お互いが依存し合っている
   集合体である為、すぐに変化してしまう。その様なものに、いつまでも
   執着する事は愚かしい。

   有意涅槃
   肉体がある為、生理的欲求が捨てられない事

   無意涅槃
   肉体がない為、すべての欲から離れる事

  オ)道諦
   八正道を行う

  2.辟支佛(独学で悟を開いた者)を望む者には十二因縁の法を説く
  ・十二因縁とは
  人の苦の種類を書き出した物で、それらの影響範囲は違う。
  例えば、
  ・老死→生の刹那(=識)から受の位までを言う。
  ・生老死→前の識名色六処触受の五位をさすことになる
  ・有→毎日の生活が生老死に苦を感ぜずにはおれないような生活を送る事
  ・愛→取→自分自身と自分の所有へのとらわれ、これが常に執着
  をもった生活をする”有”に変わる

   愛とは
   有愛とは生きたいと生存に願いをかける心。
   非有愛とは有愛がはばまれる時、生を呪うこと。
   欲愛とは、有愛・非有愛が外部にむかっておこることである。

  3.諸の菩薩の為には六般羅蜜を説く、

3)方便品
九部の法
1.如是相
現在の自分の有り方
2.如是性
自分が知らずに身に付けた習慣
3.如是體
自分の性格
4.如是力
他人から認められる能力
5.如是作
他人に及ぼす言動
6.如是因
1〜5が果の原因になる事
7.如是縁
自分が育った環境(家庭・友達・地域)
8.如是果
過去の自分の行いにより得られる結果
9.如是報
未来の自分の有り方
この十如是がお釈迦様が説いてこられた因縁(縁起)の法則、 つまり、原因があり、縁に出合う事で、それに対する結果が顕れる という真理を詳しく述べられたものであると言われています。

 

以上で法華経の案内は終わりですが、これは仏教を皆さんに勧めているのではありません。 あくまでも、日常生活で、問題が起こった時の解決方法の一つだと思ってください。法華経の詳細は各専門書か、有名なお寺に訪ねて下さい!