大 乗 の 旅 ----W

 

  ”なぜ、働らかなけれがならないか?”と言う事を宗教観を通して、考えようとし、宗教の歴史(200年以降のヒンズー教・イスラム教・神道   )を調べました。今回で宗教の歴史は最終章です。 永いあいだお付き合い下さった、皆さん、有難う御座います。

      ---担当:経済学部経営学科2年 由美---

案 内 人

私の名は弥勒
私の悩み”一切衆生をどの様に救う事が出来るか”
お釈迦様はこう悟されました。
”弥勒よ、仏は、耳で聴いたり本で読んだりして学んだだけの声聞(しょうもん)では無く、永い間、多くの人から多く事を学び、あらゆる努力を尽くしそれらの多くの事を実践し、 どんな困難に対しても勇猛心をもって克服して、ひたすら突き進んで行った結果、ついにその智慧がすべて の人に仰がれるようになったものなのです。そうやって仏は、かつてない程の奥深い真実を悟り、その真実を、 相手に応じた適宜な説き方で説き聞かせるのですが、人々には、その奥にある真意がなかなか通じないものなのです。”

”弥勒よ 、わたしが仏の悟りを得てから今日まで、いろいろな過去の実例をあげたり、いろいろな譬え話 をしたりして教えを説き広め、その場に応じた適切な方法で人々を導いて、もろもろの執着心から解放させてきました。 なぜそんな事ができたのかといいますと、仏というのは、適切な方法で人を導く力と、すべてを見抜く智慧とを、身に具えているからなのです。”

弥勒よ。仏とは、相手と場合に応じていろいろと説き方を変えながら巧みに諸の教えを説き、しかも常に柔らかくくだいた言葉で言って聞かすので、人々も悦んで教えを聞いてくれるわけなのです。

弥勒よ。まとめて言うならば、想像を絶する程に大きくて、未だ誰も達した事のない法を、仏は全て成就しているわけなのです。 ・・・・・・いや、止めておきましょう。

弥勒よ。こんな事を口で説明しても仕方がないでしょう。なぜならば、仏が成就した法というのは、最高にして類を見ないもので、とても頭では理解できないようなものであるからです。ただ仏と仏の間でのみ、この世のすべての物事の真実の様を見極め尽くした最高の法が理解できるものなのです。

つまり、すべての物事について、このような特徴があり、このような性質をもち、このような実体をしており、このような能力が具わっていて、このような作用をし、そして、このような原因があって、このような条件が揃えば、このような結果を生じて、このような影響を後に残す、ということであり、この最初から最後までの九つの事項はすべて一貫した平等なものである、ということを完全に見極めたのです。」


■宗教の歴史W

★紀元4世紀〜;古代インド

ヒンズー教
インドやネパールの民族宗教である。インド教とも呼ばれるが、現在のインドは世俗的な国家であり、国教はない。 ヴェーダ聖典・カースト制度等、多くの特徴をバラモン教から引き継いだ多神教であり、輪廻や解脱といった独特な概念が特徴的である。 三神一体(トリムルティ)とよばれる近世の教義では、中心となる3神(ブラフマー ・ヴィシュヌ ・シヴァ )は一体をなすとされる。

ヒンドゥー教は多くの意味でバラモン教を受け継いでいて、ヴェーダ文献群と、その最後尾に位置するウパニシャッド群は、 現代でも多くのインド人に愛読されている。

ヒンドゥー教の展開のなかで、カースト制度が強く指摘される。カーストは基本的な分類が四つあるが、その中には非常に細かい定義が あり非常に多くのカーストがある。カーストは身分や職業を規定する。カーストは親から受け継がれるだけで、生まれたあとにカーストを変えることはできない。

ヒンズー教のあゆみ
4世紀頃
古代インドにおいて、ヴェーダの宗教であるバラモン教と民間宗教が融合することにより成立。バラモン教時代を含めてヒンドゥー教を指す場合もある。 ヒンドゥー教にはバラモン教の全てが含まれているが、ヒンドゥー教の成立に伴って、バラモン教では重要であったものがそうでなくなったり、その逆が起きたりなど大きく変化している。

ヴェーダの時代に重要な三つの神であった「インドラ、アグニ(火の神)、ヴァルナ」から、ヴェーダでは脇役に過ぎなかった「ブラフマー、ヴィシュヌ、シヴァ」へと重要な神が変わり、 特にヴィシュヌやシヴァは民間宗教の神を取り込んでいき多様な面を持つようになった。

5世紀頃
仏教がインドでは大きな勢力を持っており、仏教に対抗するために反仏教側により新しい宗教が構成されたと見ることができる。

ヒンズー教の詳細はフリー百科事典参照の事

 

 

★紀元610年〜;サウジアラビア

 

  イスラム教
  イスラム教は、アッラーフが唯一の神であることを信じ、神が最後の預言者たるムハンマド・イブン・アブドゥッラーフを通じて人々に下したとされるクルアーン(コーラン)の教え   を信じ従う一神教である。

  ユダヤ教やキリスト教と同様にアブラハムの宗教の系譜に連なるとされる唯一神教で、偶像崇拝を徹底的に排除し、   神への奉仕を重んじ、信徒同士の相互扶助関係や一体感を重んじる点に大きな特色がある。

  イスラム教の信仰の根幹は
  六信と五行、すなわち、6つの信仰箇条と、5つの信仰行為から成り立っている。
  六信は、次の6つである。
  1.神(アッラーフ)2. 天使(マラーイカ)3. 啓典(クトゥブ)4. 使徒(ルスル)5. 来世(アーヒラ)6. 定命(カダル)

  イスラム教に帰依する者(イスラム教徒)は、
  アッラーフが唯一の神であることと、その招命を受けて預言者となったムハンマドが真正なる神の使徒であることを固く信ずる。
  必ず証人の前で「アッラーフのほかに神はなし」「ムハンマドは神の使徒なり」の2句からなる信仰告白(シャハーダ)を行うこととされている。
  ムスリムが取るべき信仰行為として定められた五行(五柱ともいう)は
  1.信仰告白(シャハーダ)2.礼拝(サラー)3.喜捨(ザカート)4.断食(サウム)5.巡礼(ハッジ)6.聖戦(ジハード)を6つめの柱   として加えようという意見もあるが、伝統的には上の5つである。

  イスラム教は、キリスト教におけるように、宗教的に俗人から聖別され、教義や信仰をもっぱらにして生活し、共同体を教え導く権能   を有する「聖職者」は否定されており、すべてのムスリムが平等に参加する水平で単一の組織からなっている。これが他宗教に見られない特徴とされていが、   六信や五行に代表されるような信仰箇条や信仰行為の実践にあたって、ムスリムを教え導く職能をもった人々としてウラマー(イスラム知識人)が存在する。
 
  イスラム教のあゆみ
  西暦610年頃
  ラマダーン月に、ムハンマドはマッカ(メッカ)郊外で天使ジブリールより唯一神(アッラーフ)の啓示を受けた。   最初、彼が人々に伝えた啓示の教えはマッカで迫害されたため、621年、ムハンマドはヤスリブ(のちのマディーナ(メディナ))に逃れる(ヒジュラ)。   ヤスリブにムスリムのウンマ(イスラム共同体)を建設したムハンマドは周辺のアラブ人たちを次第に支配下に収め、630年ついにマッカを占領した。   その翌々年にムハンマドはマディーナで死ぬが、後を継ぐイスラム共同体の指導者として預言者の代理人(カリフ)が定められた。

  4代の正統カリフの指導
  イスラム帝国と呼びうる大帝国へと成長していった。結果、ムハンマドの後継者のリーダーシップの下、イスラム教は急速に拡大し、現在に至るイスラム勢力範囲の確立にも繋がった。   また、シーア派と、それ以外のスンナ派が分離した。

  8世紀半ば
  ウマイヤ家のカリフ統は、よりムハンマドの家系に近いアッバース家に倒され、アッバース朝が成立する。   アッバース朝はアラブ人以外でイスラムの教えを受け入れた者をムスリムとしてアラブ人と同等に扱う政策をとったため、   ここにイスラム共同体の国家はアラブ帝国から信仰を中核とするイスラム帝国に転換したとされている。アッバース朝のもとで、   それまで征服者のアラブ人の間だけにほとんど留まっていたイスラム教の信仰はペルシア人などの他民族に広まっていった。

  イスラム教の詳細はフリー百科事典参照の事

 

 

■日本の宗教

 

★紀元720年〜現在;日本

 

神道(しんとう)

 

  日本の民俗的な信仰体系であり、日本固有の多神教の宗教である。
  日本列島に住む民族の間に自然発生的に生まれ育った伝統的な民俗信仰・自然信仰を基盤とし、豪族層による中央や地方の政治体制と関連しながら徐々に成立した。   神道には明確な教義や教典がなく、『古事記』『日本書紀』『古語拾遺』『宣命』などといった「神典」と称される古典を規範とする。   森羅万象に神が宿ると考え、天津神・国津神や祖霊を祀り、祭祀を重視する。浄明正直(浄く明るく正しく直く)を徳目とする。他宗教と比べて、現世主義的であり、性善説的であり、祀られるもの(神)と祀るもの(信奉者)との間の連体意識が強い、   などといった特徴が見られる。

  神道は皇室神道・神社神道・教派神道(神道十三派)・民間神道に分類できる。
  今日、単に「神道」といった場合には神社神道を指す。日本での「神道」という言葉の初見は、『日本書紀』の用明天皇の条にある「天皇信佛法尊神道」(天皇、仏法を信じ、神道を尊びたまふ)である。 すなわち、外来の宗教である仏教と対になる、日本固有の信仰を指したものであることがわかる。もっとも、日本固有の信仰に「神道」の語を宛てたのは、日本に仏教を伝えた中国の人々であるとする説もある。 中国では、信仰は四段階に進化すると考えられ、仏教は一番進んだ「聖道」に達していると信じられていた。一番下の段階が「鬼道」で、魏志倭人伝の中にもこの語が出てくる。次の段階が「神道」である。すなわち、 「神道」という語は、鬼道よりは進んでいるが、まだまだ劣っているという蔑称であった。しかし、日本ではこの「神道」という言葉に独自の解釈が加えられて行った。すなわち、神を信仰する道、「神ながらの道」である。

神道のあゆみ
8世紀に制定された律令制度のもとでは、
行政機関としての太政官(だいじょうかん)とは別に、祭祀をつかさどる神祇官がおかれた。 唐の祠令(しれい)、唐律などにならってつくられた神祇令(りょう)には、天皇がみずから中心儀式をとりおこなう鎮魂祭・大嘗祭、諸神をまつる相嘗(あいにえ)祭、 すべての官人を神祇官にあつめておこなう祈年祭・月次(つきなみ)祭、伊勢神宮の祭りである神衣(かんみそ)祭・神嘗(かんなめ)祭、ほかの神社の鎮花祭・大忌(おおいみ)祭・風神祭・三枝(さいぐさ)祭、 宮城を守護するための鎮火祭・道饗(みちあえ)祭という年19回おこなわれる13種類の祭り、天皇即位にあたっての行事、そして年2回の大祓(おおはらえ)など、日本独自の儀式が規定されている。

770年(宝亀元)女帝が没し、
道鏡も左遷されると、神祇儀礼から仏教を排除しようという神道の自覚がおこる。この神仏隔離(しんぶつかくり)は、とくに朝廷と伊勢神宮に強く意識され、制度化されていった。

平安時代にはいると、
神仏習合儀礼によって怨霊(おんりょう)や疫神をしずめる御霊会(ごりょうえ)がはじめられた。また、石清水(いわしみず)八幡宮(→八幡信仰)、祇園社(→八坂神社)、 北野天満宮(→天神信仰:天満宮)など社僧が支配する宮寺(みやでら)制の神社があらわれたり、霊山で修行活動をおこなう修験道が発達したりした。

8世紀末になると、
神は仏と同体と考えられ、本地である仏が日本の人々を救済するために仮に神に姿をかえてあらわれたとする本地垂迹(ほんじすいじゃく)説が発生し、のちの神仏習合理論の基礎となった。
平安末期には、
伊勢の本地が大日如来、白山の本地が十一面観音(→観音)などのように、ほとんどの神社の祭神の本地に仏や菩薩があてはめられていった。
11世紀ごろから
つかわれだした「権現」の号は、「仏が権(かり)に神として現れる」という意味である。
         神道のあゆみは神道参照の事
         神道の詳細はフリー百科事典参照の事

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