大 乗 の 旅 ----V

 

  ”なぜ、働らかなけれがならないか?”と言う事を宗教観を通して、考えようとし、宗教の歴史(バラモン教 〜 仏教)を調べました。やっと紀元前後の宗教まできました。   今回はそれ以降の宗教(ジャイナ教・キリスト教〜)です。

      ---担当:経済学部経営学科2年 由美---

案 内 人

私の名は弥勒
この世(色)は全ての物が移ろうやすく、自由自在に物事が生じたり、滅したりする様を見て、お釈迦は私にこう悟されました。
”弥勒よ、色は空である。すなわち空は色なり、よって空と色は違うものでない。 五うん(色・受・想・ 行・識)もそうである。すべての法は空である。相(区別)なく、生ずることなく、滅することなく、 汚れる物でなく、清いものでなく、損耗する物でなく、増す物でない。”
"弥勒よ、実態の無い色の中にあるならば、色はなく、受はなく、想はなく、行はなく、識はなく、眼・耳・鼻・舌・身・意 はない。色・音・臭・味・触・法はない、すべては意識界はない。無明(まよい)もない、無明の尽きる事もない。 すべては老いと死亡も無く、老いと死亡も尽きる事もなく、苦(生きる)・集(つみ、とが)・滅(賢くなる事)・道(つとめ) もなく、知識もなく、利得もない。取得すべきものがないからである。諸菩薩の有する般若波羅蜜多の行に順応すればその者は 心の迷いが無くて過す。
迷いが無いので、彼は恐れるものを持たず、偏見を超越して、究極の知恵を持っている。三世に現れた諸々のブッタたちは 般若波羅蜜多の行に順応したので、憂いるもののない正しい知恵を悟ったのである。 それ故に次の様に了解する事が出来るであろう。般若波羅蜜多行は威力ある真言となり、広き知識の真言となり、 憂いるもののない真言となり、すべての苦悩を取り除くものとなる。誠に、しかも違う事無く、般若波羅蜜多行中に 在りて説かれたたる真言あり。それを伝うならば、
生きろ、生きろ、前えを向いて、生きろ、正しく生きろ、どうか達成できます様に

●解説
上の様な悟りを解いたのはその当時バラモン教の教えがあった為、その教えを正す為。 つまり、この世は神によって作られていないし、神に仕える事より良い身分に生まれ変わる事はないし、卑しい身分だからと言いて 悪事だけをするとは限らない、罪人が死んだら六道(地獄)に落ちて苦しむ事がない。 すなわち、すべての人間は因果の法則に従って生きているに過ぎない。人が死んだら、何も感じない、肉体は食物連鎖の法則に 従うだけ、体は苦以外のものは伝えないが、苦は相対的なもので、絶対的なものでない、自分が苦と感じると苦で、楽と感じると楽である。 また、どういった事が真実かを見極める事は体験しながら、学ぶことが大切

色---眼に見える世界つまり、現実の世界

空---生まれた物は死ぬ、作った物は壊れる、自分がやった行為(因)に対して結果が出る、栄えたものは滅ぶ。と言うように絶えず 一つの状態では有り続けないし、元の状態に復元しょうとする性質の事、つまり物理の作用・反作用的な関係

五うん---人のことで、人の全ての事を5つつに分けることが出来る。
1.色---体
2.受---視覚・聴覚・味覚・触覚・臭覚などの刺激を受ける事
3.想---妄想・空想・嫉妬など思う事
4.行---言動
5.識---認識。つまり、良し悪し好き嫌いなどを感じる事

法---教え、つまり色は空である事


■宗教の歴史V

★紀元前600年〜現代;古代インド

ジャイナ教
バラモン教の反発から、仏教とほぼ同時代のマハーヴィーラを祖師と仰ぎ、特にアヒンサー(不殺生)の誓戒を厳守するなどその徹底した苦行・禁欲主義をもって知られるインドの宗教。

ジャイナ教の教え
宗教生活の基本的心得を、「三つの宝」(トリ・ラトナ、tri-ratna)と称して重んじる。
(1)正しい信仰、(2)正しい知識、(3)正しい行い、である。解脱を目的として行われる

宗教生活上で重要なのは
(3)の正しい行い、つまり戒律に従って正しい実践生活を送ることである。
修行生活に関する規定は多くあるが、基本は出家者のための五つの大誓戒;
(1)生きものを傷つけないこと(アヒンサー)、(2)虚偽のことばを口にしないこと、 (3)他人のものを取らないこと、(4)性的行為をいっさい行わないこと、 (5)何ものも所有しないこと(無所有)である。

在家者は同項目の五つの小誓戒(アヌヴラタ、aNuvrata)を守る。
他宗教と比べて特徴的なのは(5)の無所有(アパリグラハ、aparigraha)であり、とくに裸行派の伝統に強く生きている。


アヒンサーを守るための最良の方法は「断食」であり、もっとも理想的な死はサッレーカナー(sallekhanaa)、「断食を続行して死にいたる」ことである。 マハーヴィーラも断食の末に死んだとされ、古来、段階的な修行を終えたジャイナ出家者・信者のみがこの「断食死」を許された。

だがジャイナ教徒にとってのアヒンサー(不殺生)は、身体的行為のみならず、言語的行為、心理的行為の3つを合わせたものとして理解されなければならない。 人を傷つけることばを発することや、人には気づかれなくとも心の中で他者を傷つけるようなことを思うことさえも、ジャイナ教徒は「殺生」と考えるのである。 これこそが、アヒンサーの厳しさである。

ジャイナ教のあゆみ
1世紀ころに、白衣派と裸行派の分裂が起こった。
相違点は、白衣派が僧尼の着衣を認めるのに対し、裸行派はそれを無所有の教えに反するとして、裸行の遵守を説く。また裸行派は裸行のできない女性の解脱を認めない。 また白衣派は行乞に際して鉢の携帯を認めるが、裸行派ではこれも認めない。

仏教と異なりインド以外の地にはほとんど伝わらなかったが、その国内に深く根を下ろして、およそ2500年の長い期間に わたりインド文化の諸方面に影響を与え続け、今日もなおわずかだが無視できない信徒数を保っている。

 

★紀元1世紀〜現在;古代イスラエル

 

 キリスト教
 キリスト教(きりすときょう)は、ナザレのイエスを救世主キリスト(メシア)と信じ、神や使徒たちの言行(聖書)を聖典とし信じ従う伝統的宗教。

 カトリック教義では、神には、同一の本質をもちつつも互いに混同し得ない、区別された三つの位格(父なる神と子なる神(キリスト)と聖霊なる神)がある(三位一体)とする。  なお、上記と異なる神の概念を有する教派もある。たとえば三位一体を否定する教派(エホバの証人やユニテリアンなど)がある。

 こうした教派を「キリスト教」とみなすかどうかは多く議論の的となっている。人間は罪をおかす存在であるが、(神にして)人であるイエス・キリストの死は  これを贖い、イエスをキリストと信じるものは罪の赦しを得て(赦しを受けても償いの義務を免れるわけではないが)永遠の生命に入る、という信仰がキリスト教の根幹をなしている。

 #キリスト教の根本教義
 1.ニカイア・コンスタンティノポリス信条;
 現在のキリスト教のほとんどの教派が共有する
 2.使徒信条;
 ニカイア・コンスタンティノポリス信条と同じ内容を含むがやや簡略で、西方教会で広く用いられる
 これら信条は教会内に存在した異端を否定するために成立し、現在も洗礼式や礼拝で信仰告白のために用いられる。

 #キリスト教のあゆみ
 ア)初期は、
 イエス自身ユダヤ教と分離する意識はなかったと想定している。イエスはキリスト教の基盤を用意した人物である。イエスの死後、  その復活を目撃したとされる使徒の下に集った共同体が教会の始まりと推定される。教会の伝承は、自らの始点をエルサレム教会での「聖霊降臨」におく。

 また、初期の教団がどの時点でユダヤ教と独立な宗教としての「キリスト教」の自覚をもった時点について、多くエルサレム神殿崩壊の後と推定する説がある。  当時はイエス自身の活動も含めて、ユダヤ教の一派とみなされていたと推定され、この見地から、当時の教会を「ユダヤ教ナザレ派」と呼ぶこともある。

 この最初期にすでに複数のキリスト教集団が存在していたことが、パウロ書簡などから確認できる。そこで指導的立場にあったのは、イエスの直接の弟子と親族  を指導者として形成されたエルサレム教会であった。
 
 イ)紀元60年代のヤコブの処刑、
 続くペトロやパウロの刑死、さらに第一次ユダヤ戦争(66-70年)の結果としてエルサレム神殿が崩壊した後で、(現在のユダヤ教主流派に近い)  ファリサイ派がヤムニア会議で(旧約)聖書正典を決定するプロセスにおいて、ギリシア語の七十人訳聖書を主要テキストとしたキリスト教と完全に袂をわかつことになった。  ここにおいてユダヤ教とキリスト教の信条の相違は決定的となる。これ以降「キリスト教」としての歴史が始まったといえる。

 ウ)ユダヤ戦争以後は、
 キリスト教内のユダヤ教徒は多くが離脱し、またエルサレム教会の権威が失墜する中で、ギリシア語圏のユダヤ人や非ユダヤ人が新たな担い手となった。  それがどのような過程を経て、4世紀頃に見られる古代教会組織に至るかの詳細は史料不足のため不明である。現在の教会組織と役職および称号が固定するのは6世紀である。

 #主なキリスト教の教派
 東地中海沿岸や東欧諸国などに広まる東方正教会
 ローマ教皇を中心とするカトリック教会
 カトリックに対する宗教改革から発生したプロテスタント
 431年のエフェソス公会議で異端宣告されたイラクのアッシリア教会(ネストリウス派)
 その分枝であるインドのトマス派教会(マラバル派)
 451年のカルケドン公会議で異端宣告されたキリスト単性論に属するエジプトのコプト正教会
 その姉妹教会エチオピア正教会
 シリアのシリア正教会(ヤコブ派)
 元小アジア現在はコーカサス地方のアルメニア使徒教会などの東方諸教会

あゆみの詳細はフリー百科事典 ウィキペディアのキリスト教を参照して下さい。

★紀元前〜;中国に興り、東アジア各国

儒教
東周春秋時代、魯の孔子によって体系化され、堯・舜、文武周公の古えを理想の時代として祖述し、仁義の道を実践し、 上下秩序の弁別を唱えた。その教団は諸子百家の一家となって儒家となり、その儒家思想が漢代、国家の教学として認定 されたことによって成立した。 始祖の孔子にちなんで、孔教・孔子教とも呼ぶ。また、その思想的側面から名教・礼教ともいう。

儒教のあゆみ
儒(じゅ)の起源については胡適が論文「説儒」(1924年)で「殷の遺民で礼を教える士」として以来、様々な説がなされてきたが、 近年は冠婚葬祭、特に葬送儀礼を専門とした集団であったとするのが一般化してきている。 そこには死後の世界と交通する「巫祝」(シャーマン)が関係してくる。そこで、東洋学者の白川静は、 紀元前、アジア一帯に流布していたシャーマニズムを儒の母体と考え、そのシャーマニズムから祖先崇拝の要素を取り出して礼教化し、 仁愛の理念をもって、当時、身分制秩序崩壊の社会混乱によって解体していた古代社会の道徳的・宗教的再編を試みたのが孔子であると主張している。

孔丘(孔子)は実力主義が横行し身分制秩序が解体されつつあった周末、魯国に生まれ、周初への復古を理想として身分制秩序の再編と仁道政治を掲げた。 孔子の弟子たちは孔子の思想を奉じて教団を作り、戦国時代、儒家となって諸子百家の一家をなした。孔子と弟子たちの語録は『論語』にまとめられた。

儒教の詳細はフリー百科事典儒教を参照して下さい。

★2世紀〜;中国

道教
中国三大宗教(三教といい、儒教、仏教、道教を指す)の一つである。道家、道学ともいう
道教の発生は、
中国古来の巫術もしくは鬼道の教を基盤としている。その上に、墨家の上帝鬼神の思想信仰、 儒教の神道と祭礼の哲学、老荘道家の「玄」と「真」の形而上学、さらに中国仏教の業報輪廻 と解脱ないしは衆生済度の教理儀礼などを重層的・複合的に取り入れてできあがった物であろう。 隋・唐・五代の時期に宗教教団としての組織と儀礼と神学教理とを一応完成するにいたった。

道教のあゆみ
道教の教団の制度は2世紀頃の張角の太平道(黄巾の乱)、さらに張陵の五斗米道(天師道)の教団制度が基本にあるのではないか、と言われている。

更に中国に入ってきた仏教の教団制度
との類似も指摘されている(特にその出家制度)西晋末の葛洪(かっこう)は、「抱朴子(ほうぼくし)」を著し、仙人となるための修行法を説いた。

北魏の寇謙之(こうけんし)は、新天師道をおこした。 5世紀頃(劉宋)の江南で活躍した道士、陸修静(りくしゅうせい 406年 - 477年)はさまざまな流れのあった道教 をまとめあげる事に大きな寄与をした、と言われている。

金・元の時代に、北方で全真教に代表される新道教が成立した。また南方には、五斗米道の流れをくむ正一教が教勢を張っていた。

道教の詳細はフリー百科事典道教を参照して下さい。

★210年〜275年;イラン高原・メソポタミア(現在のイラク)

マニ教
マニ教はマニを開祖とする宗教。ユダヤ教、ゾロアスター教、キリスト教、グノーシス主義などの流れを汲む。 かつてはスペイン・北アフリカから中国にかけて、ユーラシア大陸で広く信仰された世界宗教だったが、現在では消滅したとされる。 中世の中国では、摩尼教と呼ばれた。

ユダヤ教、ゾロアスター教、キリスト教、グノーシス主義、さらに仏教、道教からも影響を受けている。 ユダヤ教の預言者の系譜を継承し、ゾロアスター・仏陀・イエスは預言者の後継と解釈し、マニ自らも天使から啓示を受けた預言者であり、 印璽を授かったと称した。

パウロの福音主義に影響を受けて戒律主義を否定する一方で、グノーシス主義の影響から智慧と認識を重視した。 さらにはゾロアスター教の影響から、善悪二元論の立場をとった。

マニ教の根幹
グノーシス主義に基づいた禁欲主義であり、肉体を悪とみなす一方で、霊魂を善の住処とした。 また、マニ教では、人間は闇によって汚れているものの、智恵によって内部の光を認識することができるとする。 ここにはキリスト教の原罪やグノーシス主義の影響がみられる。そして、人間の肉体は闇に汚されていると考えた一方で、 光は地上に飛び散ったために、植物は光を有しているとみなした。 そのため、斎戒・菜食主義を重視する。また結婚(性交)は子孫を宿すことであり、悪である肉体の創造に繋がるので忌避された。

西方伝道においてはイエス・キリストの福音を、東方への布教には仏陀の悟りを前面にするなど、各地域毎に布教目的で柔軟に変相したため、 東西に発展した世界宗教となった反面、教義・経典が混乱気味となった。 マニ教は近世に至るまで命脈を保ったものの、各地で既存宗教の異端として迫害されたり、逆に他の宗教に吸収されるなどして、 マニ教自身としての独自性を一貫して保てずに消滅してしまった側面がある。

マニ教のあゆみ
マニの両親はユダヤ教新興教団に属しており、マニも幼少の頃からユダヤ教の影響を受けた。 その後、ゾロアスター教やキリスト教、グノーシス主義の影響を受けて、ユダヤ教から独立した宗教を樹立した。 24才の時に啓示をうけ、開教したとされる。

ペルシャ・バビロニア・インド・中央アジア地方で伝道の旅を続けたものの、当初は信者を獲得するに至らなかった。 マニがサーサーン朝のシャープール1世に重用されると、ペルシャを中心に信者を増やしたが、その後ササン朝がゾロアスター教を国教と定めるとともに迫害された。

マニ自身は、ゾロアスター教のマギに陥れられて殉教した。(一説によると獄死した。)世界宗教の教祖としては珍しく、マニ自身は自ら経典を書き残したが、マニ著筆の経典は散失している。

ゾロアスター教による迫害・攻撃もあったが、信者はペルシャ国外で拡大・増加し、ローマがキリスト教を国教とする前は、マニ教はローマ帝国全域にまで拡大していた。 また、アジアにも拡大し、ウイグルではマニ教が国教となった。

唐においては694年に伝来して「摩尼教」と称し、景教(ネストリウス派キリスト教)・ゾロアスター教と共に、三夷教と呼ばれた。843年に唐の武帝によって禁止されたが、 その後もマニ教は「明教」とも呼ばれ、仏教や道教の一派として流布し続けた。

呪術的要素を強めたために、取り締まりに手を焼く権力者からは「魔教」とまで言われた。水滸伝がその活躍の舞台とする、宋の方臘の乱は、マニ教徒によるものとする説もある。 宗教に寛容な元においては、明教は福建省の泉州と浙江省の温州を中心に信者を広げていた。

明教と弥勒信仰が習合した白蓮教は、元末に紅巾の乱を起こし、朱元璋が建てた明の国号は明教に由来したものだと言われているが、明代に明教は厳しく弾圧され、15世紀には姿を消した。 しかし、中国においてマニ教・明教の系譜は、白蓮教や義和団を通じて19世紀末まで受け継がれていった。