徳行品/無量義経
--------徳 行 品 偏-------





私達の様な悩みの多い女の子でも
この経を読むことで本当の幸せを見つける事が出来ます。その為に、 私達は自分たちなりに無量義経を訳して掲載する事にしました。 これを読んで皆さんの幸せづくりのお手伝いが出来れば、幸いです。 皆さん、是非読んで見て下さい。

担当:商学部3年 中 綾乃


参 照


見ずらいサイトで、
ごめんネ!(´ДÅ)ょゎょゎ

下記のホームページに全訳が掲載しています。




フリー百科事典
『ウィキペディア』
法華経


参考サイト

仙学研究舎

中国史

中国史地図





語句の説明
・グーグル辞書で調べる事が 出来るようしてある。
・特殊な語句は分かる範囲で、 説明する。
( ゜д゜)ノ ョロ!!


・法王子
仏の教化をたすける最上首の菩薩の事

・無為(むい)
自然のままに任せて、 手を加えない事→道家思想の無為

・顛倒(てんとう)
常楽我浄の事を言う

・善根(ぜんこん)
信・慚・愧・無貪・無瞋・無癡・勤・(軽)安・不放逸・行捨・不害の 十一種類の心を言う

・有(ゆう)
三界六道を25種に分けたもの

・願力
衆生(しゅじょう)を救おうとする仏・菩薩(ぼさつ)の 誓願の力


---編 集 録---

佐村河内のゴーストライター問題、STAP細胞、4月消費税8%など、何かと騒がしい時を過ごしました。 特に、消費税UPでは、化粧品などの必要で日持ちする物を買いにあちこち歩き回りました。

こんにちは、皆さん
元気でしょうか?4月から消費税UPに伴ない学費も上がるのかと心配しましたが、どうやら、学費はそのままと言うことなので、 ホット胸を撫で下ろしました。

また、新学期が始まると、新入生歓迎大会が始まるので、私達も忙しくなりそうです。 では、話を中国史に戻しましょう。

綾乃;
普(西普)は、なぜ滅んだのですか?」
鈴音;
「そうですね。280年、魏帝曹奐から禅譲を受けた司馬炎が呉を倒し、再び国を統一すると、 普朝を築いて初代皇帝に成ると、軍隊の縮小や占田・課田制を実施して、体制を平時に戻したのですが、急に政治への興味を失い、 女色に溺れて行った。

また、国外では270年頃から鮮卑の禿髪部族・拓跋 部・ 慕容部に脅かされる様になった。279年、禿髪部族に涼州を奪われた為、禿髪部族を制圧して涼州を奪還したが、 81年には鮮卑慕容部族に遼西郡を脅かされ始めた。

83年、斉王司馬攸が後継者問題で死去する。86年、慕容部族が夫余王を 殺害した為、賈沈に追討令を下して慕容部族を普に帰順させ、69年には慕容部族の族長・ 慕容カイを鮮卑都督に任命した。

90年、武帝の司馬炎が崩御して暗愚の司馬衷が恵帝 に即位すると、91年に外戚の楊駿が権力を握り始めた為、 賈后らはクーデターを起こして楊駿・皇太后らを排除した。これより、 八王の乱と呼ばれる内乱が勃発して、国内は混乱する事になる。

恵帝の補佐として司馬亮衛カンが権力を握り始めると、賈后らは 司馬イを使って、二人を殺害させた。更に、 張 華の策により、司馬イを殺害して賈后が権力を握った。

96年、斉万年の乱と飢饉が3年間続いた為、司馬晃・司馬泰が死去して政権が揺らぐと、99年、賈后は皇太子の 司馬イツを廃立し、その母を殺した。300年、 司馬イツを撲殺した為、司馬倫司馬ケイらが、クーデターを起して賈后らを殺害した。

その後、司馬倫が相国と成り、皇太孫に司馬蔵が、皇后に羊献容が立てられた。301年、譲位を受けた司馬倫が恵帝を太上皇して幽閉した為、 司馬ケイによって司馬倫が殺され、再び恵帝が即位して司馬ケイが政権を独り占めする。

02年、不満を抱いた司馬乂司馬エイ・司馬ギョウらがクーデターを起して司馬ケイを誅殺すると、 司馬ガイが輔政の任に就いたが、司馬エイ・司馬ギョウらと対立し始めた。03年、二人は羊玄之らの討伐を名目に洛陽を攻撃した。

11月、司馬乂は司馬越に捕らえられて司馬ギョウに引き渡した。 04年、司馬乂が処刑されると、羊皇后と皇太子が廃位して 司馬エイが皇太弟と成った。この為、恵帝は司馬エイ討伐命の詔を出した。

7月、これに応じて司馬越と司馬熾が挙兵するも大敗し、洛陽は司馬ギョウに牛耳られた。8月、司馬エイが王浚討伐を開始した為、 王浚司馬騰と共にギョウを占領した。 その後、司馬エイは匈奴の族長:劉淵に二人を討たせる為に帰郷させた。

10月、李雄や劉淵らが西普から独立して 成漢と前趙を建国した。12月には司馬熾を皇太弟にした。 06年、司馬エイ・司馬ギョウが司馬越に敗れて処刑された。

11月、恵帝が崩御した為、司馬熾を懐帝に即位させると、 漸く八王の乱が終結したが、一方異民族による永嘉の乱が起こる年でもあった。発端は、西晋に対して起こした劉柏根の反乱に、 王弥も挙兵し、遂には劉淵を前趙の皇帝にした。

07年、石勒劉曜 ・王弥らが劉淵に加わると、劉淵は司馬騰・劉コン・鮮卑拓跋部を制圧し、 08年に前趙の光文帝に即位した。09年に洛陽を攻めて西普軍に大敗し、翌年に崩御してしまう。

10年、劉和が即位すると、呼延攸と共に異母兄弟を排除し始めて 劉聡に殺害された。1ヶ月後、劉聡が皇帝に成った。 11年、西普では懐帝と司馬越の対立が深まり、司馬越討伐命の詔が出されて越が項城で病死する。

6月、混乱した西普に石勒・劉曜・王弥らが洛陽を陥落させて懐帝を平陽に連行し、313年に処刑されて西普は滅亡した。 4月、甥の司馬ギョウが長安で愍帝に即位するが、 劉曜に攻められて敗北する。16年、永嘉の乱が終わると、共に西晋も滅亡して 五胡十六国時代を迎える。

17年の暮れに愍帝が殺されると、18年の3月に司馬睿が江南に東晋を建国した。 6月に前趙の劉聡が崩御し、劉粲が4代皇帝に即位すると、翌月には キン準がクーデターを起し、皇帝と皇太子を殺害して漢天王と成った。

10月、劉曜が第5代前趙皇帝に即位、石勒と共にキン準を討った。19年、劉曜と石勒が対立し、石勒が後趙を建国して初代皇帝に成った為、華北は 西の前趙、東の後趙に分裂すると、前趙は前涼や 前仇池に勢力を伸ばして後趙に対抗し、28年に洛陽を奪還する為、前趙は後趙討伐を開始した。

しかし、劉曜が石虎に破れて処刑され、 29年、皇太子の劉キも殺害されて前趙は完全に消滅した。 330年、石勒が趙皇帝に即位して華北を統一しました。」

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◆徳行品/無量義経

ここからは徳行品/無量義経です。
この無量義経は法華経序品の中で、すべての仏が支持する教訓であり、菩薩たち覚えるべき教えである。

この場面で描かれている事は、マガダ国の首都にある耆闍崛山山麓で多くの者が集まって、 お釈迦様の説法を聞いている様子が描かれている。

そこには、お釈迦様と、偉大な弟子たち、仏教を支持する神々、王や国民、他の世界から来た菩薩たちの 様子が描かれている。そして、大荘厳菩薩がお釈迦様を褒める所が記されている。

●翻 訳 1

我は、この様に聞きました。(如是我聞)
昔、しばらく間、お釈迦様(仏)はマガダ国の首都・王舎城にある耆闍崛山の山中に身を置き、 仲間の偉大な比丘たち、一万二千人と共に暮らしていた。

更に、偉大な菩薩たち8万人と、八部衆の天・龍・夜叉・カンダツバ ・アシュラ・カルラ・キンナラ・マゴラカや、大勢の四衆の比丘・比丘尼・優婆塞 ・優婆夷らも、一緒に居た。

また更に、大転輪王・小転輪王・金輪王 ・銀輪王と呼ばれる伝説の帝王たち(輪王)や、 国王・王子・大臣・農民(国民)・兵士(国士)・女人(国女)・大富豪(大長者)や、 それらの親族らを含む百千万の数の者が居て、自ら仏を取り囲んで仏を拝礼していた。

更に、仏の所に歩み寄り、仏足に自分の額を付けて拝礼したり、幾度も仏の周りを巡ったり、良い香りを焚いて花びらを散りばめたりと、 様々な供養を終えると、仏から退いて傍らに座る菩薩達の一団が居た。

それら、菩薩たちの名を、法王子の文殊師利、法王子の大威徳蔵、法王子の無憂蔵、法王子の大弁蔵
弥勒菩薩、導首菩薩、薬王菩薩、薬上菩薩、華幢菩薩
華光幢菩薩、陀羅尼自在王菩薩、観世音菩薩、大勢至菩薩、常精進菩薩
法印首菩薩、宝積菩薩、宝杖菩薩、越三界菩薩、びまつばら菩薩
香象菩薩、大香象菩薩、師子吼王菩薩、師子遊戯世菩薩、師子奮迅菩薩
師子精進菩薩、勇鋭力菩薩、師子威猛伏菩薩、荘厳菩薩、大荘厳菩薩と言い、 また、彼らも菩薩摩訶薩八万人と一緒に居たのである。

この菩薩たちは、皆、お釈迦様が説いた教えを身に付けて(法身)、真実を探求する菩薩(大士)たちである。そして、 戒(過ちを起こさせない行動)・定(妄想に心が捕われず、心が定まっている事)・慧(物事を見極めて道理を把握する事) ・解脱(苦界から離れる事)、解脱知見(自分が解脱出来た事を実感する事)を成就した者達である。

その心は雑念を取り払った穏やかな状態(寂)に有って、 常に一つの事だけに集中出来る心境(三昧)に有って、どの様な境遇でも、穏やかに過ごせ(恬安憺怕)、 欲をかく事もなければ、他人に成果を求める事もしない。(無為無欲)

その為、再び逆さまな考えを持って心を乱す事(転倒乱想)も、迷い悩む事も無くなる。更に、心が澄んで落ち着く事で(静寂清澄)、 宇宙の道理を悟る事を志すのである。(志玄虚漠)

この状態を保ち続け、途方も無い永い時間(億百千劫)が過ぎても動く事がなければ、真実に辿り着ける無数の入口(法門)が、 しばらく、目の前に現れる。

不思議な智慧を得て、あらゆる法(存在意義)に深く通じ、変わらないものと、変わり行くもの(性相)の実態を深く考えて理解した上で、 存在価値の有無・物の長所短所をはっきりと示して、誰にでも判る様に説明出来る様になる。(明現顕白)

また、人々の根性欲(能力・性格・欲望)を良く知り、 仏教徒がすべき作法(陀羅尼)や、 巧みな話術(無礙弁才)を以って、仏の説いた教えに興味を沸かせ、更に色々と教えを説いて人々の根性を従順にした。

まず先に、行水(微H)をして欲望の塵を身体から出し、更に涅槃の門を開き、解脱の風で身を扇いで、 世間に嫉妬する怒りの熱を冷まし、清らかで涼しい境地(法)へ至る。

次に、意味深い十二因縁の法雨を降らして、 無知(無明)・老・病・死等に注がれた。それは、激しい勢いで燃え上がる太陽の日差しが、様々な苦をもたらしている時、 広い地域に大雨が降る様に、これ以上ない大乗の教えを注いたのである。

そして、様々な生き方をしている人々(衆生諸有)の良心(善根)に染込ませ、幸運を掴める才能をもたらす功徳と言う田んぼに、 善の種を万遍に撒き、すべての種から真実を探求する心(菩提)の萌を発芽させた。

更に、長年の智慧や時々説かれる方便を少しずつ説いて徐々に増やして行く事は大乗教の大切な仕事であり、 素早く人々に阿耨多羅三貎三菩提(普遍な仏の悟り)を 得させる事である。

そして、煩悩が消えて喜びが満ち溢れた不思議な真実に永遠に住み着き、他人の苦しみを除こうとする気持ちに満ち溢れ(大悲)、 人々を苦しみから救い出そうとする。

そして、これは様々な生き物にとって真の友人(善知識)に成ったり、善の心を育てる素晴らしい田んぼ(大良福田)に成ったり、 頼みもしないのに勝手に面倒を見てくれる恩師に成ったりする。

また、これは様々な生き物にとって心が休まる安心な所(楽処)、或いは救われる所(救処)、或いは守べき所(護処)、 仏を信じて法に頼る所(依止処)に成るものである。

また、それぞれの所に生き物(衆生)を導く、偉大な指導者を置くのである。その者は、物が見えない者には目を作り、 音・匂い・味が分からない者には、それが分かる耳・鼻・舌を作ってやるのである。

つまり、執着によって破壊されて欠落した諸根(眼耳鼻舌身意)を身に付けさせては、勝手な考えをする傲慢な者や不安を感じては荒れ狂う者たちに あるがままに現実を見つめさせて、常に真実を求める心(正念) を起こさせるのである。

或いは、船頭を置くかもしれない。しかも優秀な船頭である。船に大勢の人々を載せ、生死の河を渡って、 涅槃の岸に運ぶからである。 或いは、医者を置くかもしれない。しかも優秀な医者である。病気も薬の薬効も知りきった上で、 病気に合った薬を人に与えて飲ませるからである。

或いは、調教師を置くかもしれない。しかも優秀な調教師である。人々に好き勝手な事をさせない。例えば、象や馬の背に乗る者に、 逆らう象や馬がいないと同じ様に、又は勇猛なライオンが威嚇して多くの猛獣を従わせる様に、

そして、苦難に負けて最悪な状況に気落ちしたとしても、菩薩が修行する数々の 波羅蜜 を、いつでも、どこでも自由に行う。やがて、如来の境地に達すると、心の動揺が無くなり、意志が固まる。

また、誓願を立てる事で安心して修行出来き、 仏国を広める事で心身の穢れを清め、そう遠く無い未来に於いて阿耨多羅三貎三菩提を得られる。

これら、大勢の菩薩摩訶薩(覚りを求める偉大な者)たち、すべての者に、この様な不思議な能力(徳)が備わっている。

その比丘の名前は、知恵の舎利弗、神通力の目連、被供養の須菩提、大迦旃延、彌多羅尼の子の富楼那、阿若きょうちんにょ

天眼の阿那律、持律の優婆離、侍者の阿難、お釈迦様の息子の羅ゴラ、スンダラー難陀、舎利子の弟:離波多、

劫賓那(コンピラ)、薄拘羅(ヴァックラ)、阿周陀、莎伽陀(しゃがた)、頭陀の大迦葉、ウルヴェーラ迦葉、ナディー迦葉、ガヤー迦葉などと、 述べた。

この様な出家信者(比丘)たちが、一万二千人居た。皆が供養を受けるに相応しい聖者(阿羅漢)で、様々な煩悩(結漏)を滅し尽くして、 何かを束縛する事も、執着する事も無い、 本当の解脱を成し遂げた者である。

その時に
大荘厳菩薩・摩訶薩たちは、すべての人々が座り終わって落ち着いた所を見計らうと、大衆の中から立ち上がり、八万の菩薩摩訶薩と共に、 仏の所に赴いた。

そして、仏の足に額を付けて拝礼した後、菩薩摩訶薩たちは仏の周りを幾重にも囲み、天の花を降らし、天の香を焚き、 天の衣、天の瓔珞、天の高価な宝珠などが、空の上から舞い落ち、四方に雲の様に集められると、仏に献上された。

天の台所にある食器は、様々な味がする美味しい天の食べ物で満ちあふれている。そして、それらの色を見たり、 香りを嗅いだりするだけで自然と満足した。

天の槍に旗や天蓋や珍しい道具を所々に結び付けて、天のパレードである伎楽を催し、仏を喜ばした。そして、 仏の前に歩み寄り、片膝を付いて手を合わせながら、一生懸命、仲間たちと声を揃えながら、詩(偈)を歌って仏を褒め称えた。




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