仏説観普賢菩薩行法経



ここから法華経を離れて、より具体的に仏教の教え(戒律)を示しています。訪れた皆さんの参考になれば幸いです。

担当:人文学科3年 林 香織


参 照


見ずらいサイトで、
ごめんネ!(´ДÅ)ょゎょゎ

下記のホームページに全訳が掲載しています。




フリー百科事典
『ウィキペディア』
法華経


参考サイト

仙学研究舎

中国史

中国史地図





語句の説明
・グーグル辞書で調べる事が 出来るようしてある。
・特殊な語句は分かる範囲で、 説明する。
( ゜д゜)ノ ョロ!!


・偈(げ)
和歌のような散文

・念力(ねんりき)
三十七道品に書かれた五力の一つで、一つの目標に向かって進む力。

・観(かん)
物を見て意味や本質を知る事

・菩薩戒(ぼさつかい)
大乗の信者に与えられる戒律(三聚浄戒、十重禁戒、四十八軽戒)の事

・業障(ごしょう)
煩悩障・業障・報障の三障の一つ、 業障とは五逆・十悪等の悪業によって生じる障害

・六重の法
不殺生・不偸盗・不邪淫・不妄語・不飲酒・人の誤ちをいいふらさない

・八重の法
六重の法+二法(自分の罪を隠さない・他人の欠点を責めない)

・六念処
信心する上で繰り返し心で念じるべき6つの法→ 念仏・念法・念僧・念戒・念施・念天


---編 集 録---

月日が流れるのは、早いもので、馬の年に成ってしまった。 今年は、年明けから知事選で正月もゆっくり、過ごせなかった気がする。なぜだろう

今日は、皆さん お元気でしょうか?私達は元気です。正月に、部活の皆さんと、鎌倉へ初詣に行って参りました。 帰り道に、ちょこっとお花摘みをしてしまいました。(お嬢様だから) さて、話を中国史に戻しましよう。

香織;
「三国時代っていつ頃?」
鈴音;
「そうですね。少帝の即位辺りからでしょうか?。その後、外戚の何進派と十常侍ら宦官が激しく対立して、 何進が暗殺された為、袁紹らが挙兵して宦官らを一掃している隙に、少帝と弟・劉協が宦官に連れ去られた。

そして、何進が呼び寄せた董卓に救われると、董卓が 朝廷で権力を振るい、少帝を退けて弟・劉協を献帝として袁紹ら と対立する様に成り、やがて、陽人の戦いで董卓軍が袁紹の孫堅軍に破れ始めた。

董卓勢が弱体化すると、呂布が董卓を暗殺して王允と共に政権を握ったが、 次第に二人の仲が悪化した為、再び旧董卓派の李カク・郭らに政権を奪われると、王允は殺され、呂布は長安から叩き出されると、 献帝の下で李カク政権が始める。

しかし、李カクと郭の内紛が勃発した為、献帝は曹操の下に避難した。帝の庇護者と成った曹操は李カクらを滅ぼして 政権を奪還すると、曹操は豫州東部と徐州を平定して、河北を支配する袁紹と並ぶ二大勢力と成った。

そして、官渡の戦いで袁紹を滅ぼして河北を平定した。更に、曹操は劉表の死を機に、南下して荊州を降そうとしたが、 赤壁の戦いで孫権・劉備連合軍に破れて南征を中止した。その後、荊州 を二人で分け合った。

その後、劉備は劉璋の重臣らに益州牧として呼ばれ、 益州を手に入れて、袁紹と対立する。しかし、曹操が漢中を攻めた為、劉備は一部を孫権に返還して和解した。 更に、孫権は南国の交州を手に入れた。

一方、樊城の戦いは韓遂・馬超らを潼関の戦いで破り、雍州・涼州を平定した後、宗教王国・五斗米道を倒して漢中を手に入れ、 魏王と成ったが、定軍山の戦いで劉備に敗れて漢中を手放すと、劉備は漢中王と成った。

一方、孫権と曹操は揚州北部と徐州を巡って争っていたが、何の進展も見られずにいた。そして、樊城の戦いが勃発すると、 二人は同盟関係結び、関羽軍を滅ぼし、孫権が荊州を手中 に治めると、劉備の対立が深まった。

220年に曹操が死去すると、曹丕は献帝から禅譲を受けて文帝と成った。 そして、漢から魏を建国し、孫権を呉王に封じた。21年、劉備はこれに対抗して蜀漢の皇帝に即位すると、 22年に、関羽の復讐と荊州の奪還を掛けて夷陵の戦いを起こした。

しかし、敗れた劉備は完全に荊州を失う結果と成ったが、孫権も魏から三方攻め(洞口・濡須口・江陵)を受けた。 その後、孫権は魏軍を撃退すると、再び蜀呉同盟を結んで魏から独立し、呉国を建国した。

三国時代の始り
223年、蜀呉同盟を結んだ劉備が死去すると、劉禅を蜀帝に、 諸葛亮を丞相にして南征を行い、25年には雍ガイ高定の反乱を鎮圧した。26年、魏の曹丕が病死して、 曹叡が明皇帝に即位すると、父に殺された母に文昭皇后の位を贈った。

27年、蜀の諸葛亮により北伐が実施される。7年間で5回の 北伐が行われたが、 結果として、武都・陰平の2郡と、張コウの首を取得したが、最後の五丈原の戦い で諸葛亮も戦死する。28年、諸葛亮と内通し、魏に叛いた孟達が、 部下たち裏切られて司馬懿に殺された。

29年、石亭の戦い で魏の曹休軍に勝利すると、孫権は呉の皇帝に即位した。234年には、五丈原の戦いに参戦して荊州と合肥を攻めるが、 満寵軍に苦戦して撤退する。また、諸葛恪らが山越の討伐を開始し、三年後に降伏させた。

35年、魏の韓龍が鮮卑族の軻比能を暗殺した。 38年、遼東の公孫氏が遼隧の戦い で魏の司馬懿に滅ぼされて遼東半島も魏の領土と成った。

39年、明皇帝が死去し、曹芳 が最後の魏帝に即位すると、曹爽 と司馬懿が補佐し、対立を深めて行った。41年、呉の呂壱の横暴により、 孫権と重臣達の間で溝が出来た為、孫権は大規模な北伐を敢行して失敗した。

43年、呉の皇太子・孫登が死去して孫和を太子にした事で、家臣団が二分する 二宮事件が起き、 7年後に七男の孫亮を太子する事で、 孫権は事件の収集を図ったが、呉は衰退し始めた。

44年、曹爽が蜀漢征伐を実行したが、王平軍に敗れた。 一方、司馬懿は険悪に成った高句麗をカン丘倹 に討伐させ、息子の司馬師はクーデターを起し、 49年に曹爽と一族を処刑した。

51年、王リョウがクーデターを起こして、 曹彪を即位させようしたが、司馬懿に阻止されて処刑された。 その後、司馬懿が死去して司馬師が魏の全権を握った。

52年、呉の孫権が死去すると、魏の胡遵・諸葛誕らが、 呉の東興を侵撃した為、諸葛恪が魏軍を追い払った。 53年、諸葛恪が北伐を敢行して合肥を攻めて大敗すると、急に人望を失う。やがて、恪は横暴に成ると、クーデターが起きて 孫峻に殺害された。

同年、蜀の費イが魏の郭循に暗殺された為、後任の姜維が北伐を敢行し、 夏侯覇・李簡らと共に魏の徐質・王経らを破って大勝利を得たが、 56年の段谷の戦い でトウ艾に敗れると、撤退を開始した。

54年、司馬師が夏侯玄・李豊・ 張緝等のクーデターを鎮圧し、更に曹芳を廃位して 曹髦を魏帝に据えると、55年に寿春でカン丘倹・文欽の乱が勃発し、 諸葛誕・胡遵・トウ艾らが鎮圧すると、許昌で司馬師が急死した。

その後、文欽は寿春攻略に来た呉の孫峻軍に合流して 奪還を試みるも、先に諸葛誕が占領していた為に撤退した。56年、北伐中に孫峻が急死して 孫チンが継承すると、 呂拠が反対して 滕胤と共にクーデターを起こして鎮圧される。更に、孫憲が孫チン暗殺事件を起こした。

57年、司馬昭が実権握ると、 寿春で諸葛誕の乱が起き、孫チンは文欽・ 全端らを派遣して魏軍と戦うと、呉国内で数々の反乱が起きて政権が混乱し、呉帝孫亮と孫チンが対立する。

58年、魏軍に寿春が陥落すると、孫亮が劉承らと共に孫チンの暗殺を図った為に廃立され、 孫休を呉帝にした。 12月、孫休の命により張布丁奉らが孫チンを誅殺した。 一方、蜀でも姜維が諸葛誕の乱に乗じて北伐を敢行して批難される。

260年、皇帝曹髦がクーデターを起こして賈充配下の成済に刺殺されると、最後の魏帝に 曹奐を即位させた。

62年、姜維は諸葛瞻董厥・黄皓らに訴えられ、 閻宇を大将軍にする。 やがて、蜀は混乱して魏に攻められ、63年の綿竹の戦いで諸葛瞻がトウ艾に敗れると、蜀帝劉禅が魏に降伏した。

64年、孫休が死去した為、孫皓を呉帝に即位させると、 晋王に成った司馬昭から降伏勧告された為、 65年に魏へ使者を送ったが、司馬昭は死去して司馬炎が晋王に成っていた為、帰された。

12月、司馬炎は魏の元帝;曹奐から禅譲されて、 国を魏から晋に改めた。一方、呉は建業から武昌へ遷都すると、孫皓の悪政により国内が乱れ始め、279年には晋が呉に侵攻し、 80年には孫皓が降参して呉が滅びると、三国時代が終焉した。」

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◆ 仏説観普賢菩薩行法経

ここからは仏説観普賢菩薩行法経です。
この場面で描かれている事は、六根清浄を明かした後、誰の指導を受けなくても、 仏と同じ阿耨多羅三藐三菩提を得る為の5つの懺悔が記されている。

●翻 訳 7(最後)

この様に、教えを歌(偈)で解き明かした後、釈迦様は阿難に告げた。
「汝は、今、六根が犯して来た罪を懺悔し、普賢菩薩の存在が観じられる法を保持したまま、 偏りなく、あらゆる所に住んでいる神々や世間の人々(世人)の為に、細かく物事を考えて法を説くのである。

我が姿を消した後の世に於いて我が弟子を望む沢山の者達が、仮に方等経典(大乗教の経典)を授かり、声に出してそれを読み、 人に解る様に説明したいならば、静かな洞穴(塚間)、或いは人里から離れた荒野(阿練若処)の木の下で 大乗の経典を声に出して読み、一心に大乗教の主旨(空)を考えよ。

もし、それを思う気持ち(念力)が強ければ、我が身及び、多宝仏塔・あらゆる所にいる無数の分身諸仏・普賢菩薩・文殊師利菩薩 ・薬王菩薩・薬上菩薩を見る事が出来るであろう。

更に、教え(法)を謹んで敬うのであれば、諸仏が様々な珍しい花を持って空中に留まり、毎日修行に励んでいる出家者(行持法者)を 褒め称えて敬うだろう。更に、ひたすら、大乗の方等経を唱えている出家信者に対して、諸仏・菩薩は毎日、供養している。」

更に、お釈迦様は、阿難に告げた。
「我れ、多くの賢者が生きていた頃(賢劫)、その時代の様々な菩薩たちや、あらゆる方向に居る仏たちと共に、 大乗が説く真実の意義を、深く考えて来たのである。

その結果、仏が悟りを得られるまでの永い間(百万億阿僧祇劫)、積み重ねて来た生死の罪(苦に変わる要素)を 取り除く事が出来たのである。そして、この不思議なほど優れた懺悔の法のお陰で、現在、あらゆる方角に居る仏たちも、 仏と成る事が、出来たのである。

もし、素早く、お釈迦様の様に、あらゆる物事を偏り無く見通せる身体(阿耨多羅三藐三菩提)を得たいと望む者。もしくは、自分の目前で あらゆる所の仏や普賢菩薩の姿を見たいと望む者。

必ず、沐浴して身体を清めて汚れのない衣をまとい、良い香りの線香を焚きながら、空き地に身を置き、大乗経典を音読しながら、 大乗の意義を考えよ。」

更に、また仏は阿難に告げた。
「もし、普賢菩薩の姿を見て真実を知りたいと願う者が居たなら、この様な考え(観)を、その者は必ず持つのである。 この思い(観)を抱く者を正観と言い、他の思い(他観)を抱く者を邪観と言う。

我がこの世から姿を消し去った後、すべての我が弟子たちは、我が語り聞かせた様に、自ら犯した罪を仏に告白して 悔改める者は普賢の行を修行している者である事を、必ず悟るのである。そして、その人は、誰からも嫌な顔をされる事も、 悪事の報いを受ける事が無いのである。

また、ある生衆が居るとして、その者が日に6度も決められた時(昼夜六時)、あらゆる方向の仏を礼拝し、大乗の経典を唱え、 最も大切な教えで、奥の深い「空」を考えるならば、指を鳴らす僅かな時間で、仏が現れて悟りを開くまでの永い年月(百万億阿僧祇劫) 、積み重ねて来た生死の罪を消す事が出来る。

この様な意志(行)を持つ者は、誠の仏の弟子であり、菩薩と言える。それは、様々な仏によって仏の弟子が誕生するのである。 それは、あらゆる所に居る仏たちや沢山の菩薩が和尚(戒を授られる僧侶)と成って戒を授けるであろう。

そして、この者は菩薩戒を身に付けた菩薩僧と呼ばれる。それは、授戒の作法(羯磨)を用いなくも、自然と成し遂げられ、 すべての人や天から供養されるであろう。」

その時
修行者がこれを聞いて、もし、菩薩戒を身に付けたい願うのであれば、人気の無い空き地で手を合わせながら、すべての方角の仏を 礼拝し、道理や教えに背いた様々な行為(罪)を懺悔する為、自らの口で責めを負わなければならない罪(過ち)を話すのである。

その後、心を落ち着かせて、あらゆる方角の仏に向かって、この様に述べよ。
『常に、人に尊ばれる沢山の仏たち(諸仏世尊)が、この世に住んでいると言うのに、我れは、過去の五逆十悪業の障害(業障) により、方等経典を信じて心を清くしたけれど、未だに仏と出会う事が出来無い。

今、我は仏に救いを求めて出家する(帰依)。叶う事ならば、釈迦牟尼仏正遍知世尊が我の和尚(和上)と成って戒を授けよ。 大悲者の文殊師利具よ!叶う事ならば、智慧をもって 我れの煩悩を洗い流して清くする様々な菩薩の法を授けよ。

我は思うのである。我を哀れんでくれる弥勒菩薩は、万物に命を吹き込んだ偉大な太陽(慈日)より、勝れていると、 それゆえ、我が菩薩の法(六波羅蜜)を授かる所を聞き届けよ。

あらゆる方角に居る仏たちよ。我の証人として姿を見せよ。また、大菩薩たちは、順番に自分の名前を名乗り、名乗った菩薩(勝大士)から 衆生を慈悲の心で見守り、我れらに手を差し伸べよ。

今日、方等経典を手にして、その教えを守る事が出来たならば、命を亡くして、設けられた地獄に堕ち、数えられ無い数 の苦を受けたとしても、最後まで諸仏の正しい教えを批難する事は無い。

この様な因縁を持ち、この様な功徳の力が有るのだから、釈迦牟尼仏よ。今、我が和尚と成って戒を授けよ。文殊師利は、 我が仏道の師範(阿闍梨)と成れ、来世仏である弥勒よ。願わくは、我れに法を解き明かせよ。

あらゆる方向の仏たちよ。願わくは、我れを学ばして真実を知らしめよ(証知)。徳を持った様々な菩薩たちよ。 願わくは我が友に成れ。今に、我れは奥深くて不思議な大乗経典の教え(妙義)を得て、仏・法・僧に感謝(帰依)する。』と、

これを三度聞かせて、三宝に感謝し終えたならば、次に自ら誓いを立てよ。「必ず六重の法(戒律)を受取り、次に純粋な気持ちで仏道の修行 (梵行)に励み、すべての衆生を救う心(曠済の心)を起して、必ず八重の法も受取る。」と、

この様な誓いを立て終えた後、静かな空き地へ行き、名のある様々な香を焚き、美しい花を散りばめて、すべての仏たち・ それに従う多くの菩薩・数々の大乗経典を供養するのである。その時に、この様に述べよ。

『我れ、今日、ここに於いて菩提心を得る事が出来た。この功徳に依り、別け隔て無く、あらゆるものを迷いの世界から救う。』

この言葉を語り終わると、更に、すべての仏たちや、それに従う沢山の菩薩の足下にひざまずき、頭の先を地に付けて礼拝し(頂礼)、 大乗教経典(方等)が示している教義(義)を考えよ。一日でも三七日であっても、

または、出家信者であっても、在家信者であっても、戒を授ける高僧(和上)が居なく、様々な師の僧侶を用いず、 多くの信者の前で授戒の告知を受けなくても(不白羯磨)、

大乗経典を所持して経を唱えるだけで良い。この経典の力によって普賢菩薩が姿を現して助けてくれる。 なぜなら、あらゆる方向の仏たちが、これを釈迦牟尼仏が説いた教え(正法)を記した重要な経(眼目)と思っているからだ。

その為、この法によって自然に如来が持ってる5つの能力(五分法身)を身に付ける事が出来る。 つまり、自らルール(戒)を守り、無心に成って物事を観察し(定)、物事の起こる訳を見抜き(慧)、 あらゆる束縛から離れ(解脱)、迷いの道から抜け出せた事を知る事である(解脱知見)。

そして、真理に到達出来た聖人の仏達(諸仏如来)も、この教えに従って生まれ、来世に於いて仏に成れる事を 大乗経によって予言されたのである。

これゆえ、智者(バラモンの指導者)や声聞(霊能者)たちが、 仏・法・僧などの三宝への帰依の心や、 五戒八戒十戒 式叉摩尼戒具足戒 などの戒を守る心や、様々なマナー(威儀)の邪魔をする。

更に、人は道理に暗い愚痴である為、悪い邪心を目覚めさせて、数多くのルール(戒)やマナー(威儀)に背き、 沢山の罪を犯す様に成る。

もし、罪よってもたらされる苦を消す苦滅の法を望む者が居たならば、出家信者(比丘)に成る為の沙門の法を修行せよ。 必ずや、努めて大乗の方等経典を読み、とても奥深くて一番重要な教え「空法(無自立性)」を考えよ。

そして、すべてのものが互いに依存している事に気付く智慧(空慧)により、心に応じて身体も良くなる。 今まさに知るのである。この者は、徐々に罪から生じた苦しみを、すべて消し去るであろう。

これを、沙門の法戒(仏教修行者の戒律)を守り、正しい行動(礼儀作法)を身に付けた者と呼ばれ、 すべての人や天から供養をされるであろう。

もし、優婆塞(在家信者)が様々な規則(威儀)を破って、様々な悪い事(不善)をしたとする。 それは、仏法の欠点を話し、四衆(比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷)が犯した悪事を暴いて批難する事である。

そして、この様な者は人の物を盗んだり(偸盗)、他人に嫉妬してギャンブル・酒・女に溺れても(婬嫉)、 自らの行いを反省する事(慚愧)はしない。

もし、自らの罪を告白して悔い改めて(懺悔)、様々な罪を無くしたいと望むならば、必ずや努力して方等経典を 声に出して読み、一番大切な教義を思い出すのである。

もし、王様・大臣・バラモン・居士(地主)・長者(仏教支持派の大富豪)・宰官(役人)などの 者達が、飽きる事無く私利私欲を求めれば、最も罪深い五逆罪 を作る。また、大乗の経典(方等経)を誹謗し、苦しみの種・十悪業を身に付けるのである。

この様な大悪の報いは、急な雨に遭う様に、いきなり悪道に突き落とされ、必ずや 阿鼻地獄に落ちて行くと、 言っても過言ではない。

もし、この様な悪事によって生じた障害(業障)を取り除きたいと望むならば、自らを反省する心(慚愧)を 起こして、様々な罪を悔改めよ。」

仏が告げた。
「刹利(王族と武士階級の者)・居士(富裕な商人や農民達)がやるべき懺悔の法とは、どの様なものを言うのか。

刹利・居士の懺悔の法とは、ひたすら偏見の無い心(正心)を保ち、三宝(仏法僧)を批難せず、 出家の邪魔をせず、淫欲を断とうとする人(梵行人)を無理やり引き留める罪を作ってはならない。

そして、必ず仏・法・僧・戒律・布施・天の思いを忘れる事無く、これら 六念を信じて修行せよ。 また、大乗の教えを修める者に感謝して物を差し出した後、足の甲に額を付けて拝礼せよ。

更に、この奥深い経典の一番大切な教理「空」を心に刻み、この法を常に思う者こそが、 刹利・居士が行う懺悔の一番目を修めると名付ける。

二番目の懺悔とは、父母を大切に養い、先生と目上の人を謹んで敬う事である。 これを行う事が第二の懺悔を修めると名付ける。

三番目の懺悔とは、正しい法で国を治め、横暴をふるって人民を屈服させない事である(邪枉)。 これを行う事が第三の懺悔を修めると名付ける。

四番目の懺悔とは、月に6日間の斎日に、様々な寺院の所有地(境内)に赴き、沢山の人に対して”動物を殺して生贄にしないよう” 力の限り、求める事である(不殺生)。この様な不殺生の法を行う事を第四の懺悔を修めると名付ける。

五番目の懺悔とは、ただ単に因果の法則を深く信じ、唯一、真実を解き明かす道を信じ、 仏は滅する事が無い事を知りのである。これが第五の懺悔を修めると名付ける。」

仏は阿難に告げられた。
「もし、我が姿を消した未来世で、先に述べた懺悔の法を学び、修行する者が現れた時、必ずこの事に気付くのである。

この人は慚愧の服(羞恥心)を着ている為、沢山の仏たちから守られたり、助けられたりして、長い時を掛けずに、 必ずや、我と同じ様に阿耨多羅三藐三菩提を得られる。」

この様に話をして真実を解き明かした時、十千の天子は様々な雑念を洗い流して真実を見通せる法眼を得、 弥勒菩薩らの偉大な菩薩や阿難は、仏が説いた教えを聞いて喜び、その教え通りに修行したのである。




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