南無妙法蓮華経
----如 来 神 力 品 偏----

 

  このhpは、私たち『女子大生』が仏教を中心にして、あらゆる人種の
  思想をテーマに取り上げたものです。皆さん、気軽に尋ねて来て下さいネ!。
   
  

   担当:東洋哲学学科2年 伊藤 美樹


参 照


見ずらいサイトで、
ごめんネ!(´ДÅ)ょゎょゎ

下記のホームページに全訳が掲載しています。




フリー百科事典
『ウィキペディア』
法華経


参考サイト



兵法三十六計

儒教の歴史

兵法書



語句の説明
・グーグル辞書で調べる事が出来るようしてある。
・特殊な語句は分かる範囲で、説明する。
( ゚д゚)ノ ョロ!!


・受持(じゅじ)
戒を受ける事を意味する
→四波羅夷法、十三僧残法、不定法、捨堕法、波逸提、 波羅提提舎尼法、学法、七滅諍法、以上300戒

・無量光
十二光の一つで、無限の智慧の例え

・教菩薩法(きょうぼさっぽう)
菩薩を教化する教えという意味

・仏所護念(ぶっしょごねん)
仏が常に守っている事の意味

・法輪(ほうりん)
仏教の教義の事で、煩悩を打ち砕く事より、当時インドの武器チャクラムに例えて法輪とした。

・舌相(ぜっそう)
仏の三十二相の一であり、説法の例えを意味する。

・謦咳 (けいがい)
尊敬する人の話を身近に聞く意味

・弾指(だんし)
指を鳴らす事(指パッチン)で、喜びの表現や浄化する合図として使われた。


---編 集 録---


あぜ道に
ススキを探す 秋の空
春を探して やまびこに乗る

<解釈>

この短歌はシルバーウィークで、皆と良い出会いを求めて仙台に行った時に読んだ歌です。 旅行先では、どこも人ごみだらけ、人と話をしている暇さえなかった。



今日は、皆さん
お元気でしょうか?。今回で短歌は止めたいと思います。理由としてはあまり良い歌が出来ないからです。 でも、それも気分次第です。

ともかく、今はそんな気分ではありません。内定が決まらないので、のん気に和歌など読んでいる暇がある かとの事です。「大雪に桜を愛でる人はなし」どそうです。では前回の話の続きをどうぞ

美樹;
「戦国時代に中国哲学が根付いたのですか」
鈴音;
「いいえ、違います。戦国時代、つまりは晋が韓・魏・趙の三国に分かれた頃から、 魏が周王朝から諸侯に認められて、初代文侯の時は積極的に人材を求め、李克・呉起(兵家)などを登用して 中山国の都を陥落させて、戦国時代で最初の覇者となったのです。

三代の恵王の時代に成ると、 諸侯の間でも、の称号が使わられる様になる。 その後、魏は趙を攻めるが、斉の孫臏(そんぴん)によって 阻止されて衰退の一途を辿ると、広大な未開発地帯を持つ斉や秦などが勢力を伸ばして、魏は覇権の座から滑り落ちた。

かつて覇権を握っていた南の楚も、法家思想 によって大国化された秦に滅ぼされ、一時的に国は趙・秦・斉の三県で 覇権を争う事に成るのですが、胡服騎射を取り入れ 最強の軍隊を作ったの武霊王が死ぬと趙も脱落し、秦に 奪われたのです。

こうして、旧晋の領地を治めた秦と、 を配下した斉との二国時代を迎えたのです。この頃、斉は様々なジャンルの学者を招いて稷下(しょくか)の学 と呼ばれる学問所を作ったのです。

そして、その稷下の学からは孟子を初めとして、陰陽五行説の鄒衍(すうえん)道家田駢(でんべん) 、道家を基本とする法家の愼到(しんとう)、及び 最後の塾長で、韓非李斯 の師である荀子などを輩出したのです。

そして、紀元前284年に燕国の武将;楽毅(がくぎ)を大将とする燕・趙・韓・魏・楚の5カ国連合軍と斉が 戦い、斉は大敗して莒と即墨以外の全ての邑は占領されたのです。

しかし、その後に斉の武将田単により、 復活するのですが以前の斉より国力は遥かに劣っていた為に、秦の一国支配と成ったのです。

そして、の名将・白起を使って諸国に苛烈な攻撃を加え、紀元前260年には長平の戦い で趙に大勝し、更に紀元前256年に東周を滅ぼす。

そして、荘襄王の子、正が即位すると、始皇帝 と名乗り、法家の李斯を丞相(じょうしょう)に任命して、 更に法治主義・権力集中を進めると共に、王翦・王賁親子や李信に命じて紀元前230年に韓を滅ぼし、

紀元前228年に趙、紀元前225年に魏、紀元前223年に楚、紀元前222年に燕、そして紀元前221年に斉を滅ぼし、戦国時代が終わり、 中国史上初めての統一王朝が誕生する。」

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◆如 来 神 力 品(にょらいじんりきほん)

ここからは如来神力品(にょらいじんりきほん)です。
この場面は従地涌出品で述べられた地涌の菩薩たちがが、お釈迦様に仏が入滅した後の世で、受持、読、 誦、解説、書写などの五種を修行する者(五種法師)と成って、 この法華経を広める事を述べる。

すると、お釈迦様は大神力を示され、菩提樹に座っている諸仏たちを見る事が出来た。その諸仏たちも、またお釈迦様と 同じ大神力を示していた。

そして、お釈迦様は地涌の菩薩たちを率いている四菩薩にこの法華経の教えには、如来が悟ったあらゆる真理、 如来が衆生済度の為に用いる自在な力、如来の無限の智慧、如来に成る為の道などが記されている事を示し、更に 五種の修行をする所には仏塔を建てる事が描かれている。

如来神力品が表している事は、あらゆる教えや諸仏には上下の区別が無く、すべては一つ教え(因+縁→果=空)から 紐解かれたものである事を述べている

●翻 訳 

その時に
千世界を極く小さな塵にした数と等しい数の菩薩・摩訶薩が居た。これらの者たちは以前、地より湧き出した 者たちである。

これらの者、皆が仏の前で、一心に手を合わせながら、仏の顔(尊顔)を敬って見ていました(瞻仰)。 そして、仏に明らかに述べたのです。

”世尊よ、
我れら等は仏が去さられた後、世尊の分身である仏たちが居る国土や仏が悟りを開いた所で、必ずや、 多くの人にこの経を説くであろう。

なぜならば、我れらも、また自分の手で、この様に六根を清浄出来る偉大な真実の法を得て、 戒法を授かり(受持)・これを忘れない様に 声に出して唱え(読誦)、時には人の為に説明したり(解説)、または別の紙に教えを写したり(書写)して、 この教えを供養したいと願っていたのである。”

その時に
世尊は文殊師利を始とする百千万億人の限り無い数の者で、娑婆世界に昔から住んでいた菩薩摩訶薩、及び多くの比丘(出家者) ・比丘尼(女性出家者)・優婆塞(在家信士)・優婆夷(在家信女)・天・竜・夜叉(やしゃ)・乾闥婆(かんだつば)

・阿修羅(あしゅら)・迦楼羅(かるら)・緊那羅(ぎんなら)・摩睺羅伽(まごらか)・人・非人(奴隷) など、すべての者の前で大神力を見せたのである。

広く長い舌を出して、上の梵天世界(上梵世)まで 舌を伸ばしながら、すべての毛穴から数え切れないほど沢山の色の光りを放ち、隅から隅まであらゆる方角に 存在するあらゆる世界(十方世界)を照らした。

更に、それぞれの宝樹(菩提樹)の下にある師子座 (仏が座る所)の上に居る諸仏も、またまた同じ様に広く長い舌を出し、永久に尽きる事のない光(無量光)を 放していたのである。

お釈迦様と宝樹の下の諸仏たちが神力を表した時は百千年を満たした。そして、神力を現した後は元に姿に帰って、 長い舌を終うと、暫く咳をして指を鳴らされた。

この二つの音は残す事無くあらゆる方向にある仏たちの世界に行き渡り、大地は全て六種に震動した。 その世界の中の衆生(しゅじょう)、 天・竜・夜叉(やしゃ)・乾闥婆(けんだつば)・阿修羅(あしゅら)・迦楼羅(かるら)・緊那羅(きんなら)

・ 摩侯羅迦(まごらか)・人・非人(奴隷)等の者は仏の神力によって、皆がこの娑婆世界に生えている百千万億と言う、 計り知れない数多くの宝樹の下の師子座の上に座っている諸仏を見、

更に、釈迦牟尼仏(お釈迦様)が多宝如来と共に宝塔の中にあって、師子座に座っている姿を見る事が出来るだろう。 また、百千万億と言う、計り知れない数多くの菩薩摩訶薩、及び多くの四衆が釈迦牟尼仏(お釈迦様) を謹んで敬いながら、仏の回りを取り囲む姿を見るだあろう。

そして、これを見終えると、皆が大いに喜び、今までに経験した事の無い喜びを得る。それと同時に、多くの天人が 雲ひとつ無い青空(虚空)の中から大声を出して述べた。

”この百千万億年と言う無限の時を重ね、億阿僧祇と言う途方も無い数多くの世が過ぎ去り、 娑婆(しゃば)と言う名の国が現れた。

この娑婆の中に仏と言う者がいて、名を釈迦牟尼と名乗っている。今、多くの菩薩摩訶薩(ぼさつまかさつ)の為に、 大乗経の妙法蓮華・教菩薩法・仏所護念と名付けた法を説いている。

汝らは、必ずや深くこれを信じ(深心)、喜んで感謝するのである(随喜)。そして、更に釈迦牟尼仏を礼拝して、 これを供養するのである。”

彼の衆生(涌出菩薩の事)たちは、晴天(虚空)の中の声を聞き終えると、手を合わせて娑婆世界に向って、この様な言葉を述べた。

”南無釈迦牟尼仏(なむ、釈迦むにぶつ)、南無釈迦牟尼仏(お釈迦様に帰依します)”と。

すると数々の花・香・首飾りや腕輪(瓔珞)・旗や日傘(幡蓋)、及び沢山の王冠や勲章・珍しい宝・優れた工芸品など、 あらゆる物が一緒に成って遥か遠くの娑婆世界に散りばめられた。

そして、その散りばめられた数多くの物があらゆる方向から集まって来る姿は、例えば雲が集まって出来る様なものであた。 これらが急に変わって垂れ幕(宝帳)と成って、隅から隅まで、この世間に存在する仏たちの上を覆った。

その時、あらゆる方向にあるすべての世界を何の障害も無く知り尽くす事が出来き(通達無碍)、 一人の仏によって救済される一仏国土の様に成ったのである。

その時に、仏は大地から湧き出た菩薩たちを率いる上行等の四菩薩 とその仲間の菩薩たちに告げられた。

”様々な仏たちの神力(神通力)は、 この様に計り知れないほど大きく、様々な力が備わっていて、とても不思議(無量無辺不可思議)である。

もし、我れがこの神力をもって、永遠と思えるほど多くの年月、百・千・万・億と言う計り知れない年月に渡ってこの教えが説き伝えられる事を他者に託す為に(嘱累)、 この経の功徳(善行する事で得られる優れた特性)を説いたとしても、説き明かす事は出来ないのである。

要点を摘んでこれを言うならば、如来が保持している教え(法)のすべて、如来が身に付けている自在な神通力のすべて、如来が滅多に 明かす事のない秘密の蔵のすべて、如来が持つ神秘的な事柄のすべてを、この経の中で示して、明らかに説いているのである。

この事により、汝らは如来がこの世から去った後の世において、必ずや一心に戒を授かり(受持)・仏の言葉をそらんじ(読誦)・教えを人に説き(解説) ・書写し、この経が書き記した様(四諦八正道と戒)に修行するのである。

自分が居る場所(国土)にこの経巻があって、もし、この教えを深く心に受け止めて(受持)・声に出してこれを読み(読誦)、或いは 人に教え(解説)、または書写して、この経巻が説いている通りに修行するなら、

例え、それが園の中であろうと、林の中であろうと、樹下であろうと、僧坊であろうと、在家の家(白衣の舎)であろうと 、殿堂に有っても、山谷・荒野に有っても、この中に塔を建てて供養するのである。

なぜなら、必ずやその理由を知る出あろうが、この場所はすべて道場であるからだ。諸仏はこの様な所において、 これ以上無い悟り(阿耨多羅三藐三菩提)を得。更に諸仏はこの様な所において法輪を転じ、また更に諸仏この様な所において 般涅槃(はつねはん)をしたのである。”

その時に、世尊は、再び、この意味を伝え様と思って、歌を用いて分る様に述べた。

”救世者である諸仏は常に大神通力をもって、衆生を満足させて悦ばそうとして、尽きる事のない神秘的な力をあらわす。 舌(舌相)は梵天にまで達し、体から無数の光り(智慧の例え)を放ち、 仏道を求める者の為にこの珍しい現象を現わしたのである。

諸仏が説法する声(謦咳)や喜ぶ声(弾指)が、 隅から隅まで、あらる方向の国土に響き、すべての地を六種に振動させた(六道の事)。

仏がこの世から去った後に、良くこの経の教えを憶えて、守り通した事より、諸仏は、皆が喜んで尽きる事のない 神通力を現したのである。

この経が人によって伝えられる事を委ねる(嘱累)為に、教えを聞いて守ろうとする者を褒め称え様として、 尽きる事のない月日(無量劫)をもってしたとしても、称え尽くす事は不可能である。

この人の功徳(善行によって得られた才能)は、数え切れないほど多くして(無辺)、終わる事はない。 あらゆる方向に広がる空間(虚空)の果て(辺際)を得る事が出来ないのと同じである。

良く、この経の教えを憶えて守ろうとする者は、つまり、この者はすでに我れを見、更に多宝仏、及び 様々な分身の仏を見、また更に、我れが今日まで教え導いて来た多くの菩薩を見るであろう。

良く、この経の教えを憶えて守ろうとする者は、我れ及び分身の諸仏、世を去った多宝仏などのすべての仏を皆喜ばし、 更に十方の現在の、並びに過去 ・未来の仏たちを見る事が出来、また供養して、仏たちを喜ばす事が出来たのである。

諸仏が道場に座って得られた所の秘密の教えを、良くこの経の教えを憶えて守ろうとする者はそう遠くない未来において 、必ず得られるだろう。

良くこの経の教えを憶えて守ろうとする者は、すべての物の存在(諸法)の正しい所(義)を名前や短い言葉で、 自在に説明して困る事が無いのは(楽説無窮尽)、空の中に吹く風がすべての障害を物ともぜずに吹くのと同じである。

如来が世を去った後、仏が様々な所で説かれた言葉(経)の訳(因縁)及び背景を知って、その正しい道理(義)に随って、 現実をあるがままに説くのである。

太陽や月の輝く光(日月の光明)が、あらゆる暗闇(幽冥)を取り除く様に、この者も世間に教えを広めて、 衆生の闇を消滅させ、過去から未来の限り無い菩薩の教えをもって、最終的にこの唯一の教え (一乗)に留まらせるのである。

この理由から智恵ある者はこの功徳(優れた人間性)よって得られる利益を聞いて、我がこの世から 去った後の世で、この経の教えを聞いて心に留め置くのである。そして、この者は仏道を歩みながら、 決定して疑いを持っては成らないのである。




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