南無妙法蓮華経
----嘱 累 品 偏----

 

  このhpは、気楽に私たち、女子が作ったものです。
  作った目的は仏教布教の為ではありません。人間が本来持っている相互扶助の精神を呼び起こす為のものですので、
  皆さん、気軽に尋ねて来て下さいネ!。
   
  

   担当:中哲学科2年 吉村 かな


参 照


見ずらいサイトで、
ごめんネ!(´ДÅ)ょゎょゎ

下記のホームページに全訳が掲載しています。




フリー百科事典
『ウィキペディア』
法華経


参考サイト



プラボットの異端児
短歌入門


儒教の歴史

中国思想史・天



語句の説明
・グーグル辞書で調べる事が出来るようしてある。
・特殊な語句は分かる範囲で、説明する。
( ゚д゚)ノ ョロ!!


・輪廻(りんね)
バラモン教最終期のブラーフマナ 文献文の五火二道説より由来した思想で、前世の行為(業)により来世の生まれる所が 決まると言う事→(因果応報の法則)この考えによりインドではカースト制度が生まれた。

仏教における輪廻
仏教教義では輪廻において主体となるべき我、永遠不変の魂は想定せず(無我)、主体の存在しない、 無我だからこそ輪廻という現象が成り立つとしている

・分身諸仏(しょぶつ)
原始仏教では分身諸仏は居ない、部分仏教で分身諸仏が生み出された。そして、密教で完成され、 東方の阿閤仏、南方の宝生、西方の仏阿弥陀仏、北方の不空成就仏がそうである。


---編 集 録---

今日は、皆さん
お元気でしょうか?。
私たちは、台風一過(10/8)のもと植木やゴミの後片付けで大変でしたが、それ以外は変わった事はありませんので、 ご安心下さい。

最近は、まともなコメントが書けなくて申し訳御座いません。では中国哲学に話を戻しましょう。

かな;
「秦の始皇帝と周王朝ではどこが違うの?」
鈴音;
「そうですね。簡単に言うと、殷代・周代までは邑制国家 でした。邑制国家とは邑(ゆう)と呼ばれた集落同士が互いに同盟関係を結び、様々な取り決めを決めるだけで、 邑の内部まで干渉する事は無い事です。

つまり、殷(殷墟)・周(陝西省周原遺跡) と言えども同盟関係を結んだ邑の同盟主に過ぎなかったのです。また、支配する領地(邑)は城壁に囲まれた都市部と、 その周辺の耕作地だけであった。

そして、その外側には未開発地域が広がり、「夷(い)」 と呼ばれた部族が生活していたのです。彼らは非定住者で、狩猟・採集を営んで生計を立てていましたが、時には邑を襲って 略奪した為に存続が難しくなった小邑は、より大きな邑に併合されて行った。

ところで、夷とは古代中国の中華思想に基づいて農耕文化 を持たない野蛮な異民族を指す言葉です。ちなみに、殷も、周も、元々は夷でした。殷はモンゴル系遊牧民 (匈奴)で、周は チベット系遊牧民(西戎)であると思われます。

つまり、この時代と言うのは、ある意味において遊牧民(スキタイ→匈奴) との戦いであると言えないでしょうか?。

そして、遊牧民を捕らえ、服従した部族は奴隷とせず、原野に開拓入植させる作邑(さくゆう) という支配制度を作って領地を増やして行く、いわゆる封建制の始まりです。

この封建制度については、明確でないものの殷代の末から存在し、周代に全盛期を迎えたのです。更に、封建制によって 王朝がより強く支配権を行使する邑が増えて、方国 と言う殷・周などの王権国家が誕生する事となる。

殷王朝;
組織体制→大邑・族邑・属邑(小邑)
周王朝
組織体制→新邑(洛邑);直轄地、国;諸侯に封じられた領地、采邑;諸侯から子弟や卿・大夫に封じられた領地、
そして、采邑の中で宗廟を置く重要な邑を「都」と呼んだ。

そして、これらの組織体制を支えたものが長子相続 を根幹とした血族共同体を基礎とした関係の宗族制度と宗法だったのです。

ところが、時代が進むにつれて氏族単位の農業ではなく、家族の長が主導となる 家父長的小農民が可能になって来る反面、モンゴル高原の寒冷化が始まり、モンゴル系遊牧民の襲撃が激化する中で氏族の制限に縛られることなく 独立した新興勢力が形成された。

それが戦国七雄と呼ばれる専制君主国家です。そして、下克上と呼ばれる春秋戦国時代には、それらが覇権をめぐって戦うのですが、 氏族だけでは兵士が不足する為に農民から徴兵すると共に、富国強兵の思想の下に様々な食客を迎え入れるのです。

終に、分封制度に代わって郡県制 や官僚制を取り入れた秦が中国全土を統一して、ピラミッド型の中央集権体制をめざしたのです。 」

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◆嘱 累 品(ぞくるいほん)

ここからは嘱累品(ぞくるいほん)です。
この嘱累品は如来神力品に付随したものです。

如来神力品では、お釈迦様と同じ諸仏の国土やお釈迦様の居ない娑婆世界で地涌の菩薩が法華経を布教する事をお釈迦様に 告げると、お釈迦様は十大神力を示し、 地涌の菩薩たちは様々な光景を見、空から不思議な声を聞き、歓喜して”お釈迦様に帰依します”と言った瞬間に、 諸仏の仏土が一つの娑婆世界に成る事を目にする。

そして、お釈迦様から地涌の菩薩に告げられる。
”諸仏の神通力はとても不思議で偉大である。もし、我が神通力をもって、この諸仏の教えを後世の永がきに渡って伝えられる様に、 この教えの功徳を説いても説きつくす事ができない。そして、この法華経はそれら如来(諸仏)の事がすべて書かれている。

よって、この法華経の書いてある通りに修行するなら、その道場に塔を建てるのである。なぜならば、諸仏はそうして 悟りを開いて、涅槃に入る事が出来たからだ”と言った場面が描かれた。

そして、嘱累品にはその続きの事柄が描かれている
お釈迦様は無限の数の菩薩摩訶薩の頭を撫でて ”今から、汝らにこの法華経を授け、後の世に伝える事を託す”と述べ、更にこの教えを布教する事を命じて、 諸仏にもとの世界に帰る様にお願いする様子が描かれている。つまり、人の娑婆世界は人の力で救う事を述べた作品で、他力本願を否定している。

●翻 訳 

その時に
釈迦牟尼仏(お釈迦様)は説法する為に座っていた場所から立ち上がり、偉大な神通力を見せたのである。

右の手で、過去から未来の計り知れない菩薩摩訶薩の頭を撫でて、この様な言葉を述べた。
”我れは限り無い百・千・万・億・阿僧祇と言う永い月日を掛けて、この様に得る事が困難な最高の悟り(阿耨多羅三藐三菩提)から得られた 真実の教え(法)を学んで、これを修めたのである。

今から、汝らにこの教えを授け、後の世に伝える事を汝らに託す(付嘱)。汝らは、必ずや心を一つにして、この教えを世間の人に広め、 そして、これを知る者が一人でも増える様に(増益)、汝らの多くの者に命じるのである。(広令)”

この様に、三度も一人一人の菩薩摩訶薩の頭を撫でながら、この言葉を告げた。
”我れは、過去から未来(無量)の百千万億と言う数えられない永い月日(阿僧祇劫)において、悟りがたい最高の悟り(阿耨多羅三藐三菩提) の教えを学んで身に付けた。

今から、汝らにこの教えを授けて後の世に伝えられる事を汝らに託す。汝らは、必ずやこの教えを聞いて覚え(受持)、 経を見て読んだり(読)、覚えたものを唱えたりして(誦)、広い地域の者にこの教えを伝えよ。

そして、三界を輪廻しながら生きるすべての者 (一切衆生)に万遍なく聞かせて、教えの存在を知らせる事を汝らに命じる。

なぜかと言うと、如来は大いなる慈悲があって、多くのものを惜しむ(慳悋)心は無く、 また、誰に対しても畏れる事無く、良く、衆生に仏の智慧(諸法実相) ・如来の智慧(縁起法)・自然の智慧(因果法則) を与えたいからだ。

そして、如来とはすべての衆生に対して偉大な布施を行う者(施主)で有らなければ成らない。 よって、汝らもこれに従がい如来の教えを学ばなければ成らない。決して、ものを惜しむ心(慳悋;けんりん)を起しては成らない。

未来の世に、仮に良識ある青年や婦人が居たとして(善男子・善女人)、それらの者たちが如来の智慧を信じない者たちであるならば、 必ずこの者の為にこの法華経を演説して、仏の教えを聞き分らせるよ(聞知)。なぜなら、その人をもって仏慧(実践智) が得られるからである。

もし、衆生がいて、この経を信じて授かろうとしない者には、他の如来の深い教えの中から、具体的に教えの利点を示して喜ばすのである。 もし、汝らがこの様な事を良く行なったとすれば、つまり、その事で諸仏の恩に報いた事になるのである。”

時に
それぞれの菩薩・摩訶薩は仏がこの様に言われた事を聞き終えると、皆大いに喜んで、その体の中を喜びで満たのである。 そして、以前より増して仏を謹んで敬いながら、体(躬)を曲げて頭を垂れ、手を合わせて仏に向かうと、共に声を出 して述べた。

”世尊の忠告(勅)通りに、我らは忠実に実践いたします。唯一の存在である世尊よ、願わくは、あれや、これやと、 心配しないで下さい。”

それぞれの菩薩・摩訶薩たちは、その様に三度も繰り返すと、共に声を出して述べた。
”世尊の忠告(勅)通りに、我らは忠実に実践いたします。唯一の存在である世尊よ、願わくは、あれや、これやと、 心配しないで下さい。”

その時に
釈迦牟尼仏は、上下・四方・四隅の十方より集まって来られたそれぞれの分身の仏たちを、 各々の元の世界に帰らそうとして、この言葉を述べた。

”諸仏よ。それぞれの所で安らいで下さい。多宝仏の塔よ。元に帰って、今までと同じ様にして下さい。”

この様な言葉を諸仏に話された時、十方の過去から未来の数えられない分身の諸仏、しかも菩提樹の下にある師子座に 座った者、及び多宝仏、並びに上行菩薩が率いる数えられない数の菩薩集団、

舎利弗などの仏弟子の比丘・比丘尼・ 優婆塞・優婆夷(声聞四衆)、及び世間のすべての神々・人間・阿修羅は、仏が説かれた所を聞いて、皆大いに喜んだ。




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