南無妙法蓮華経
----薬王菩薩本事品偏----

 

  この女の子のホームページは、
  話題のファションを取り上げるものではありません。時代と共に変化して行った人間の思想をテーマに取り上げた
  サイトです。だからと言って、堅苦しいものではありませんので気軽にご覧下さい。
 
  

   担当:社会心理学科2年 藤井 美紀


参 照


見ずらいサイトで、
ごめんネ!(´ДÅ)ょゎょゎ

下記のホームページに全訳が掲載しています。




フリー百科事典
『ウィキペディア』
法華経


参考サイト



中国地図・渭水(いすい)

中国史地図

中国通史



語句の説明
・グーグル辞書で調べる事が出来るようしてある。
・特殊な語句は分かる範囲で、説明する。
( ゚д゚)ノ ョロ!!


・遊ぶ
仏や神が俗世に暮らす事を意味する

・インドの女性問題
ヒンズー教の男尊女卑よりダヘーズの習慣あり、 幼児婚、低識字率、サティー(寡婦焚死の風習)の問題がある。

・苦行(くぎょう)
ヨーガのタパス(熱行)を指し、肉体を使って精神を高める事らしい

・現一切色身三昧(げんいっさいしきしんさんまい)
十六の三昧の一つで、 説法する時、相手に恐れを懐かせない様にと、相手に応じて、どの様な姿に成ろうとも、心を乱さない状態

・兜楼婆(ごろば)
インドニューコーノキ→:仏典の中の樹木より

・畢力迦(ひつりきか)
ヒツリキ→:仏典の中の樹木より

・膠香(きょうこう)
白膠香とも言い、日本では楓と言う

・布施
慈悲の心をもって、他人に財物を施すことで、六波羅蜜のひとつである。 布施には「財施」「法施」「無畏施」の三種がある(大智度論)


---編 集 録---

今日は、皆さん
お元気でしょうか?。 まだ、11月だと言うのに初雪が降り始め、急に冷え込んで風邪など引いていませんか。?

11月は私たちにとって特別な月です。と言うのは、各大学で開催される文化祭が最も多い月だからです。 普通の人から見ると、たかが学生のお祭り騒ぎだと思うかもしれませんが、裏では援助金の提供を求めて 各企業を訪問する事もあるからです。

しかし、資金提供を受けたからと言って、何でも企業の言う通りにする訳にはいきません。そこは、あくまでも 大学のサークル活動の範囲内でなければならないのです。

つまり、企業とサークルが一致したテーマが必要と成って来るのです。そう言った意味で、中には企業とコラボする サークルが出て来ています。ちなみに、今回、我がサークルでは「心ろ旅」をテーマに選びました。では、前回の 話の続きをどうぞ!。

美紀;
「中国統一を果たした秦(bc221〜bc206年)は、どうして速く滅んだのですか?」
鈴音;
「そうですね。その前に秦の成り立ち から話をする事にしましょう。秦国の始まりは殷代の最後の王、紂王(ちゅうおう)に仕えた官僚の悪来(あくらい) から由来したのです。

悪来が紂王から国政を任せられると、悪来は人の悪口を言いふらして、人を傷つけた為に諸侯から嫌われ、諸侯はますます殷から遠ざかり、 殷周革命を促進させた。

そして、周の武王によって殷が倒された時、一緒に殺されたのです。その後、武王は悪来の弟、季勝(きしょう)を家来して、 その子孫に晋の趙を与える。

また、悪来の子の革(かく)は犬丘(甘粛省隴南市礼県)に逃げ延び、 秦の始祖である非子が馬を放牧しながら秦を再建し、紀元前770年に周が犬戎に追われて東遷した際に、襄公は周の平王を護衛した功で周の旧地である岐(岐山)に封じられ、 これ以降諸侯の列に加えられた。

春秋時代に入り、紀元前677年には首都を雍(現在の陝西省鳳翔県)に置いて、西戎を制圧する。九代穆公の時には百里奚などの他国出身者 を積極的に登用し、西戎の覇者となって国内を法律などで整備する。

20代霊公の時、秦は魏により圧迫を受け、領土を奪われるが、25代孝公の時、法家の 商鞅による行政制度の改革や什伍制が行われた。

また、法と刑罰を重んじる法治主義(⇔徳治)を掲げてながら、強力な中央集権体制を築くと、国内の生産力・軍事力を高め、 徐々に他の六国を圧倒して行き、紀元前350年に咸陽へと遷都した。

26代恵文王の時、縦横家張儀を宰相に迎え、 を占領し、と戦い、楚の懐王を捕らえると、 魏と韓を服従させた。

しかし、27代武王の時に、との 宜陽の戦いで疲弊した所に楚に攻められる。 また、武王の急死により、後継者を巡る争いが起きている間に、蘇秦によって 六国合従策を打たれて秦は急速に力を失ったのです。

その後、魏冄(ぎぜん)によって、反対勢力の公子荘は鎮圧されて28代昭襄王が誕生する。 昭襄王の時代になると、范雎の遠交近攻策により、 との長平の戦い で、白起が大勝利した事で覇権を握る様に成が、 この事で白起は失脚する。

翌年、別な将軍で趙の首都、邯鄲を攻撃したが、趙の平原君魏の信陵君楚の春申君に阻まれて失敗した。 昭襄王が死去して29代孝文王が即位するが一年で亡くなり、商人の呂不韋 によって華陽夫人の養子として向かい入れた子楚が30代荘襄王が即位する。

荘襄王の時代に成ると、魏・韓・趙を攻め、東周を滅ぼし、三川郡を設置する。更に、長平の戦いの舞台となった 上党の地を完全制圧し、上党郡や太原郡を設置する。

前246年、荘襄王が死去して政が秦王に即位して親政を始めると、 呂不韋は失脚する。そして、李斯を起用して君主独裁、郡県制、厳罰主義を推進し、強力な独裁体制を築いた。

また、王翦、王賁親子や李信 などを起用して韓・趙・魏を次々に滅ぼした。更に、前227年に荊軻と言う刺客を送った罪で を打ち、 前225年には項燕が率いる楚軍を破り、 前221年に最後の国と成った斉を滅ぼして中国を統一し、始皇帝となったのです。

秦王正は始皇帝として諸侯を廃止し、 役人による郡県制を採用した。また、匈奴の侵入を防ぐ為に 将軍蒙恬に命じて遼東半島(山海関)からオルドス地方 (嘉峪関)まで万里の長城を築かせた。

更に、南越征服の為に世界最古の運河、霊渠も築いたのです。 その他に、度量衡・貨幣・文字の統一をし、巡幸する為に道路の交通網を整備して中国を1つの基準にまとめ上げました。

しかし、その反面として始皇帝の政治を批判した儒家に対して、徹底的な弾圧(焚書坑儒)を行った為に暴君と呼ばれ、 更に、晩年は不老不死の思想に染まって方士徐福)を重用し、 前210年に地方巡幸中に熱病で死亡しました。

そして、随行していた宦官の趙高と丞相の李斯は、始皇帝の死を秘して、皇帝の長子の扶蘇を自殺に追いこみ、 やはり随行していた末子の胡亥をたてて、第2世皇帝とした。

やがて、長城の修築や咸陽宮・阿房宮・始皇帝陵などの造営 に係る財政負担や、それに伴う労役が農民に課せられて、紀元前209年に陳勝・呉広の乱 が起きる。反乱軍は咸陽へと進軍するが、函谷関あたりで章邯の率いる秦軍に敗北する。

その後も、義帝を仰ぐ項梁に引き継がれた。更に、項梁が戦死 した後、義帝は宋義劉邦項羽らを用いて反秦勢力の盟主と なり、鉅鹿を包囲していた秦軍を破る。そして、前206年に秦の最後の王である子嬰一族を滅ぼしたのです。」

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◆薬王菩薩本事品(やくおうぼさつほんじゅほん)

ここからは薬王菩薩本事品(やくおうぼさつほんじゅほん)です。
これまでの作品は真理を中心に解説してきましたが、この薬王菩薩本事品からは 仏教の実践(菩薩行)を中心に描かれています。

まず、最初は薬王菩薩の前世である一切衆生憙見菩薩が法華経を聞いて、物欲から離れ解脱し、その証として 焼身供養し、再び娑婆世界に生まれる場面が描かれています。

ちなみに、焼身供養は自己犠牲を意味する物で無ありません。また、香油を被って身を焼いた事は色々な知識を 学んで、それを他の者に分け与えた事を意味するそうです。古代インドでは悟りを開いた人は自分の悟りを他人 に教えなかったそうです。

●翻 訳 一 

その時に
宿王華菩薩(しゅくおうけぼさつ)は仏に向かって明らかに述べた。

”世尊よ。薬王菩薩はどの様な理由があって、娑婆世界で楽しく暮らすのでしょうか?。世尊よ。この薬王菩薩と言えでも、 少なくとも百千万億那由他ぐらの困難な苦しい修行(難行苦行)を積んだのでありませんか?。

宜しいでしょうか(善哉)世尊よ。我らは世尊がその事を少しでも解説して下さる事を願っているのです。そして、 多くの天・竜神・夜叉(やしゃ)・乾闥婆(けんだつば)・阿修羅(あしゅら)・迦楼羅(かるら)・緊那羅(きんなら)

・摩喉羅伽(まごらか)・人・非人(奴隷)などの者たち、また他の国土より、集まって来た沢山の菩薩及びここに居る声聞たちが、 これを聞いたなら、皆は必ず喜ぶであろう。”

その時に、仏は宿王華菩薩に告げられたのです。
”昔に思いを廻らして(乃往過去)、計る事の出来ないガンジス河の砂の数と等しい時を過ぎた昔(無量恒河沙劫)に仏が居ました。 名を日月浄明徳(にちげつじょうみょうとく)如来・応供・正遍知・明行足・善逝・世間解・無上士・調御丈夫・天人師・仏・世尊 と名乗っていました。

その仏には八十億の大菩薩摩訶薩やガンジス河の砂の七十二倍ほどの数の大きな声聞集団が居た。 また、仏の寿命は四万二千劫で、更に菩薩たちの寿命も同じであった。

彼の国には女人・地獄・餓鬼(がき) ・畜生(ちくしょう)・阿修羅(あしゅら)の四悪趣、 及び様々な困難が生じる事は無かった。

更に、地面の平坦な姿は手のひらと同じであって瑠璃から出来ていた。また、宝樹(菩提樹)で地を飾り、宝帳(絹布)をもって上を覆い、 貴重な花の旗を垂れ、高価な瓶や香炉で国境を作る為に、それを国の回りに巡らした。

また、七宝で蓮台を作り、一つの菩提樹の下に一つの蓮台を置いた(一樹一台)。そして、 この樹と蓮台は一矢放った距離だけ離れていた。

この諸々の宝樹のすべてに菩薩や声聞が居て、その下に座っていた。更に、諸々の宝台の上空には各々、百億の諸天が留まり、 天の伎楽を演奏して、仏を歌で称えながら、供養していた。

その時に、
彼の仏は一切衆生喜見菩薩、及び大勢の菩薩、並びに様々な声聞の者たちの為に法華経を説いたのです。

この一切衆生喜見菩薩は願って苦行を習い、日月浄明徳仏が説かれた教えに従がって苦行に精進し、時には経行 しながら、一心に仏の姿を求めて、一万二千歳の月日が過ぎ去ったある日の事、現一切色身三昧(げんいっさいしきしんさんまい)を得た。

この三昧を成し終えて、心に大きな喜びを迎え、その思いを述べた。
”我は、現一切色身三昧を得た。 これは、すべて法華経を聞いた為に、得られた力である。今、我れは日月浄明徳仏や法華経を供養しなければならないのだ。”

すぐさま、この三昧に入って何も無い空間(虚空=) の中に、曼陀羅華や大きな曼陀羅華・細かく粉末にした黒栴檀を降らし、虚空の中を満たして雲の様にたなびかせ、海の此岸 (この世)に栴檀の香を降らした。

この香の2グラムの重さ(六銖)の価直は娑婆世界と等しく、これをもって仏を供養したのである。 この供養を成し終えると、三昧より起きて自ら、この思いを述べた。

”我れが、いくら神通力をもって仏を供養したとしても、身をもって供養するに越した事はないだろう。”

そして、様々な香り、栴檀・薫陸(くんろく) ・兜楼婆(ごろば)・畢力迦(ひつりきか)・沈水(ちんすい)・膠香(きょうこう)などを服用し、 また更に瞻蔔(せんぱく) ・様々な華の香油を飲んで千二百歳の年月を満たす。

そして、満たし終えると、菩薩は香油を体に塗り、日月浄明徳仏の前において自ら天の宝衣を着き、更に様々な香油 を注いだ。

そして、神通力の願によって、自らの身を燃やし、その光明で遍くガンジスの砂の数の八十億倍の世界を照した。 すると、その世界の中に住んでいた諸仏が、同時に彼の菩薩を讃めて言った。

”素晴らしい、素晴らしい、仏に帰依した者(善男子)よ。これが真の精進であり、 これが真の教えをもって如来を供養すると名づける。

もしも、花・香・珠玉を連ねた首飾りや腕輪(瓔珞)・焼香・抹香・塗香・網の天蓋(てんがい) ・幟旗と笠、および、南海岸で育った栴壇香など、この様に様々な種類の物をもって供養したとしても、 これに勝るものはない。

例え、それが国城に仕える者や妻子を布施したとしても、また同じ様に及ぶものでない。

仏に帰依した者(善男子)よ。
これを第一の布施(法施)と名付ける。様々な布施の中でも、最も尊ばれ、最高のものである。なぜならば、 教えをもって様々な如来(過去七仏) を供養しているからだ。”

この様に語り終えると、各々は口を閉ざして、その身の火は千二百年もの間、燃え続けたのである。 そして、炎が燃え尽きると、その身も消え去ったのである。

一切衆生喜見菩薩がこの様な法(一連の動作の意) の供養を終えて、その命を尽くした後に、再び、日月浄明徳仏の国の中に生まれた。つまり、浄徳王の家において両足を組んで座ったままの姿で、 にわかに生まれ、そして、その父の為にしかも歌(偈)を詠んで言ったのである。

”大王(浄徳王)よ。
今、まさに知るのである。我れは彼の所を歩き回って(経行)、すぐにこの世のあらゆるものの姿を思い浮かべても心が乱れない境地 (現諸身三昧)を得て、大いに努力(精進)して修行に励み(勤行)、愛着している我が身を捨てたのである。”

この歌(偈;げ)を聞かせ終わって、父に明らかに述べた。
”日月浄明徳仏は、未だにこの世に居るのです。我れは、以前にこの仏を供養し終えて、すべての衆生が話す言葉を理解して(解一切衆生語言)、記憶する力(陀羅尼)を得た。

また、この法華経の八百千万億那由他(なゆた)・甄迦羅(けんがら)・頻婆羅(びんばら)・阿閦婆(あしゅくば) 等の偈(げ)を聞いたのです。

大王よ。
我れは、今、そこに戻り、その仏を供養しなければならないのです。”

その様に告白し終えて、七宝の蓮台に座り、虚空を昇り始めて多羅樹の七倍の高さの仏の所に着くと、 仏の足を額に頂いて礼拝し、十の指爪を合せて合掌し、歌を詠って仏を讃めたたえた。

”顔かたち(容顔)は言葉に出来ないほど美しく、慈悲の光でこの世のあらゆる所を照らされる。 我れ、前世において仏を供養した。今、また再び帰って、仏の近くで仏に仕えたいのです(親近)。”




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