南無妙法蓮華経
-----随 喜 功 徳 品 偏-----

 

  私たち、女子大生の思いとは
  どうすれば、自分の力を発揮し、生きる喜びを味わえるのかと言う事です。それにはここに訪れる皆さんの力が必要です。
  是非、協力して下さいネ!。
 
  

   担当:人文学科3年 川島 みなみ


参 照


見ずらいサイトで、
ごめんネ!(´ДÅ)ょゎょゎ

下記のホームページに全訳が掲載しています。




フリー百科事典
『ウィキペディア』
法華経


参考サイト

随喜功徳品

プラボットの異端児
短歌入門


中国まるごと百科事典



語句の説明
・グーグル辞書で調べる事が出来るようしてある。
・特殊な語句は分かる範囲で、説明する。
( ゚д゚)ノ ョロ!!


・所欲(しょよく)
欲とは物などの物質に触れて取ろうとする事より、すべての物を意味する

・分別(ふんべつ)
無我⇔我執=倶生(本性)+分別

分別→第6感の意識で、5根により得られた5境を認識して区別する働き(心)の事。

・八解脱(はちげだつ)
古代インドのヨーガ(禅)の一種で貪著(とんじゃく)の心を捨てる修行法と考えられる

・三昧に至る過程
色界の四禅と無色界の四無色定天を超えた滅尽定がある→九次第定


---編 集 録---


雨降りて紫陽花をはう蝸牛

雨の細道 彼によりそう 
<解釈>

この短歌は
庭に咲いた紫陽花を見た時、カタツムリが集っているのを見付けて、良くカップルが男の腕に もたれて歩く姿を詠んだ歌


今日は、皆さん
お元気でしょうか。私は元気ですが、最近、短歌を詠むのが辛くなりました。六月は比較的に詠み易いと、 言われますが、逆に迷ってしまうものです。

エッ!。大した歌じゃないかって?。どうせ、私たちは素人ですよ。でも、短歌は自分の心を詠むもので 他人に聞かせる為の物ではありませんよ。それを考えるのなら、俳句です。では、前回の話の続きをどうぞ。

かな;
「中国と言えば仏教じゃないの?」
鈴音;
「中国の仏教はインドの仏教と少し違った点があるのです。」
かな;
「どう言う点が、違うのですか?」
鈴音;
「中国は思想の根底に祖先崇拝がある為、家族や一族と言った様に血族や地域の結び付 が強く、時として封建的で孤立性が高く、個人を無視する傾向があった。

この様な思想は日本の氏神信仰 がそれに当たると考えられている。また、それをもとに氏姓制度 が大和朝廷によって作られたのです。

話を中国の殷王朝(紀元前17〜11世紀)に戻しましょう。前にも話をした様に殷時代は主に狩猟生活を中心として、 多少の粟作などの畑作農業が行われていた。

そして、戦争・狩り・婚礼などの様々な事を卜占を通して神の意志を伺う神権国家であり、 王は祭祀王であった。この為に卜占で 凶が出たり、雨乞いの祭祀に際して、チベット系の遊牧民族や生き物を生贄に捧げたのです。

やがて、殷の紂王(ちゅうおう)の横暴さに 嫌気をさした の武王(ぶおう)によって紀元前1111年、牧野の戦いで倒される。武王は 殷周革命を起すのであるが二年で死去する。

その後、子の成王(せおう)が後を継ぐのですが、幼い為に摂政として武王の弟の周公旦が任じられ、元殷王朝 の子の禄父を将軍にし、管叔鮮・蔡叔度・霍叔処殷を三監に任じて、殷を東西北の三つに分けた。

やがて、管叔鮮と蔡叔度によって三監の乱が起きるが、 周公や召公奭(しょうこうせき)らよって制圧された。その後、召公奭は殷の残党を抑えるために遠方の 東北地方まで遠征し、斉・魯の二国を建国する。

三代の康王の時になって氏族の国替えを行なわせ、また夷は夷でもって納めさる為に東方夷族征伐を 八師にさせたのです。

この頃になって周は政権が安定して来たのですが、残念ながら、周には独自の文化が無く、 相変わらず殷の文化を取り入れていた。そこで、周公は殷の礼楽を基盤に体系化した礼楽(法令と行動規範)を作り 礼楽文明を築いたのです。」

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◆随 喜 功 徳 品(ずいきくどくほん)

ここからは随喜功徳品(ずいきくどくほん)です。
この随喜功徳品は前回の分別功徳品の初随喜の所を更に詳細に述べた作品だそうです。

分別功徳では仏の寿命が永遠不滅である事、つまり、すべての物に空性がある事を信じ、理解しょうと 努力する事で得られる功徳。更に、すべての物が空である事を実感し、感動する事で得られる 功徳を述べてものです。

そして、随喜功徳品の中では人々に沢山の物を寄付する人も、この法華経を人から聞きいて感動した人も同じ功徳がある 事を述べている。つまり、他人に哀れみを感じて、物などを与える以上に他人の善意を感じて喜ぶ事(随喜功徳)の方が 大切である事を述べている。

これで随喜功徳品は終わりです。

●翻 訳 二

アイッタ(弥勒)よ。
もし、またある人がいて、その人が他の人に『あそこに法華と名付けたがある。 一緒に行って聞いてみないか』と自らが話をし、

そして、その教を授かろうとして、しばらくの間、それを聞いたとするれば、この人の功徳(善行)とは、この者が生まれ変わる時、 陀羅尼菩薩と共に、同じ体の中に生まれる事を得る。 すなわち、素直な心(利根)を持って智慧がある者になる。

そして、百千万の世が過ぎたとしても、最後まで耳が遠く成る事も、声が出なく成る事も(瘖瘂)無かった。 また、吐く息が臭く成る事も無いので、舌の病気に苦しむ事は無い。

また、更に口にも病気が無いので、歯は歯垢で黒ずんだり、黄ばんだり、歯に隙間が無く、また欠ける事無く、 食い違う事無く、曲がる事がない。

また、唇を垂らす事無く、捲れる事(寨縮)無く、荒れて染みがある事(粗渋)無く、できもの(瘡疹)が 出来る事も無く、傷ついて欠ける(缺壊)事が無い。

また、醜く歪む事(咼邪)も無く、厚くも無く、大きくも無く、また、黒ずみも(黧黒)無いのである。 つまり、この様に沢山、気に食わない所が無いのである。

鼻は扁平で無く、また曲がっていない。顔は黒く無く、また馬面で無く、また窪みが無く、すべての者から疎まれる 様な人相を持つことが無いのである。つまり、唇も、舌も、犬歯も、歯も、それぞれが皆、美しく輝いている。

鼻は高くて真直ぐであり、顔は不満や悩みが無くて円満であり、眉は高くして長く、額は広く平たくて良い人相をしていて、 生れ来る代々の世には仏がいてその仏を見ながら、教えを聞いて諭される道を信じて受け入れるであろう。

アイッタ(弥勒)よ。
汝、しばらく、心を静めて、これを観よ。一人の者に法を勧め、その者を僧坊に行かせて法を聞かしめる功徳が今まで述べた 通りである事を。

まして、一心に法を聞いて、これを人に聞かせながら、自分でも忘れない様と何度も声に出して法を唱える者、 しかも、大衆の中で他人の為に物事の是非や道理を判断する事を説いて、自らも説いた様に修行する者を、 どの様に言えば良いのか。”

その時に、
世尊は再びこの意義を伝え様として、歌(偈;げ)を用いて述べた。

”もし、ある人が法会において、この経典を聞く事が出来き、或いは一句だけでも聞いて、喜び、感謝して 他人の為にこれを聞かす。

この様にして人から人へと教え伝えて五十番目に達したとする。この最後の人が得られる福について、 今、明らかに道理に従がって考える(分別=意識)のである。

もし、偉大な施しをする者(施主)あって、思いも及ばぬ大衆に物を与える(供給)こと、 八十年もの間、様々な欲を起す心(意)に従がったとする。

彼らの老衰した姿、つまり、髪は白く、顔には深いしわがあり、歯は抜け落ち、体は痩せ細るのを見ては、 その者たちの死がそう遠くない事であると知り、

我れは、今、自ら教えて悟りの成果(道果)を得させようと確信し、そしてこの事より仮の手段(方便)として 涅槃(ねはん)を真実の法であると説いたのである。

『この世はすべてが丈夫(牢固)で無い事は、水しぶきや泡や炎と言った物と同じなのである。 汝ら、全ての者が素早く、欲で汚れたこの俗世を嫌って、離れ様とする心(厭離)を起せよ。』

すべての者はこの教えを聞いて阿羅漢となり、 三明六神通及び八解脱(八背捨)を身に付けて、 最後の五十番目の一句(偈;げ)を聞いて喜び、感謝する心(随喜)を起すのである。

そして、この施主の福が彼れらよりも勝れている事を比喩をもって比べてはいけない。また、この様に口から口へと 伝わった法を聞く、その福も、同様に計り知れないのである。

どの様に言えばよいのか、法会において初めて聞き、感謝して喜ぶ者を。もし、一人の人に勧め、更に 人を引き連れて法華経を聞かせ、『この経はとても奥が深くて不思議であり、千万劫と言う年月に一度、 出会えるか、どうかである。』と述べる。

つまり、教を受けに聞きに行き、それがほんの少し、聞いたとしても、この人の福の報いを今、 様々な道理に従がって判断(分別)しながら説き明かす。

代々、生まれ来る度、口には心配の種など持たない。つまり、歯が抜け落ちたり、黄ばんだり、黒ずんだりしない。 また、唇は厚くても、三つ口(袴欠)で無く、憎むべき箇所が有る事が無いのである。

舌は乾いて、黒く、短かからず。鼻は高く、顔に修まり、真直ぐであった。額は広く、デコボコしていずに 顔立ち(面目)はすべて整って人から見てみたいと望まれる。また、吐く息は臭く無く、青い睡蓮の花(優鉢華) の香りが常にその口より漂い出ている。

もし、幾度も僧坊に出かけて法華経を聞く事を望み、少し聞いただけで、感謝して喜んだとしたなら、今ここで その者の福を説き明かす。

後の世において、天や人に生れ変わり、美しい象車や馬車、珍しい宝石で飾られた輿を得て、天の宮殿に逝ける。 もし、講和をしている所において、人に席を譲って座らせ、経を聞かせたならば、この福の因縁をもって 帝釈天、梵天王、輪転王(釈梵転輪)の座を得るだろう。

どの様に言えばよいのだろうか。一心に聞いて、その説いた言葉の意味を人に分かるように説明して、自分が述べた様に 修行する者を。その者の福は限りが無いのである。”



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