私たちが法華経をテーマに選んだのは、
お釈迦様が私たち、人に何を伝へたかったのか、を知る事で人間本来の生き方が見えて、来る様な気がしたからです。
もう一度、自分自身を見つめ直すキッカケが作られたら幸いです。
担当:国文学科3年 木村来菓(らいか)
見ずらいサイトで、
ごめんネ!(´ДÅ)ょゎょゎ
下記のホームページに全訳が掲載しています。
語句の説明
・グーグル辞書で調べる事が出来るようしてある。
・特殊な語句は分かる範囲で、説明する。
( ゚д゚)ノ ョロ!!
・一切智地(いっさいちじ)
一切智を悟り得る位の事で、将来の成仏する佛果の位を意味する。
・一切智⇔一切種智
一切智;平等界の空性(因縁因果)を見る智慧
一切種智:あらゆるものごとの実相を、平等・差別の両面から完全に見極める最高の智慧
・所行(しょぎょう)
行は心理、業は体で行なった行為を意味する
・通達(つうだつ)
知らせること、ある道に深く通ずること
・究尽明了(くじんみょうりょう)
出来るだけ、分かり易く説明すること
・卉木(きもく)
草木のこと
・叢林(そうりん)
やぶやはやし
・若干(そこばく)
多少の意味
・名色(なしき)
名は耳で聞く事により存在する物で、事物の本質を現す。
色は光により物の姿を現し、眼で見る事でその存在を認識するが、その物の色彩や形によって欲を起こす物を指す
よって、物の存在の有り方を意味する
・彌布(みふ)
次第に、広がって行き、著しく成る様
・知道者(ちどうしゃ)
ある事に関しての情報や知識を持っている人
・善利(ぜんり)
仏道を修めた者(菩提)の利益
・一相一味
一相一味とは、衆生が自らの心身より一つの真実の果を現わす様に、如来の教えも一つの理を示す事
・種相(しゅうそう)
生まれ持った特徴
・体性(たいしょう)
主な性格の事
・明了無碍(みょうりょうむげ)
無碍は邪魔物が無い、明了は明らかに、了解する事
・究竟涅槃常寂滅相(じょうじゃくめっそう)
すべての物は環境により、すぐ変化するため、物の形により価値は生じる事は無く、すべての物が等しい価値がある事
日毎に秋も深まり、紅葉の美しい季節となりました。先輩たちは就職活動に奔走していて、紅葉を楽しんでいる
気分ではなさそうです。
今日は、皆さん!
いかが、お過ごしでしょうか?。私たちは文化祭の準備で忙しい日々を送っています。
では、相変わらず、話しの続きです。
私たち:
「鈴音さん、話が難しくて分かりません。空について、もう少し易しく説明してくれませんか?」
鈴音:
「う〜ん、そうですね。あなた達はどうして、今の大学に入学したのですか?」
私たち:
「この大学にしか、合格しなかったからです(`Д´) ムキー!」
鈴音:
「本当に、行きたい大学は何処だったのですか?」
私たち:
「お茶の水女子、東京女子、上智大、実践女子大のいずれかです。」
鈴音:
「どうして、行きたかったのですか?」
私たち:
「一流企業に就職できるからです」
鈴音:
「一流企業に就職すると何か良い事があるのですか?」
私たち:
「給料が良くて、いい人と出会えるからです。ヾ(´Д`;●) ォィォィ」
鈴音:
「その事が幸せと思えるのですか?」
私たち:
「多分、幸せにつながると思うからです。」
鈴音:
「それが、分かっているなら目的の大学に行ける様、努力しなかったのですか?」
私たち:
「自分なりに努力しました。しかし、それだけではどうにも成りません。経済的な問題もあるのです。(*´;ェ;`*) うぅ・・・」
鈴音:
「じゃ、お金を貯めて、もう一度、大学を受けなおしたら良いのでは?」
私たち:
「無駄です。年を取ってしまいます。」
鈴音:
「では、なぜ大学に行こうと思ったのですか?」
私たち:
「将来を考えると、大学に行った方が良いからです。」
鈴音:
「自分のやりたい事が無くてもですか?」
私たち:
「大学に通っているうちに何か見つかるかもしれないし、それに、人の見る目も違うのではないのでしょうか?」
----続く。
ここからは、薬艸諭品(やくそうゆほん)です。
信解品(しんげほん)では、弟子の摩訶迦葉(まかかしょう)の目を通して、仏の姿を描いた作品でした。
仏が衆生を教化する事により、教えが正しい事の証明であり、他を利する事で自分に徳が得られる。
薬艸諭品(やくそうゆほん)は衆生の生き方の原因を草木に喩えて、説いた作品です。
------続く
その時に、
世尊(お釈迦様)は摩訶迦葉(まかかしょう)及び諸の大弟子に、お告げに成りました。
「宜しい、宜しい、迦葉よ、良く、如来の真実の功徳を説かれました。誠に、汝が申す通りです。
如来には、まだ、まだ、無量無辺阿僧祇と言う、数限りないほどの功徳があるのです。汝らが、もし、無量億劫と言う限りない時をもったとしても、
その事を説き尽くす事は不可能です。
迦葉よ、確信するのです。
如来は諸法の王である。かりに、ある事を説いたとしても、それら皆、嘘ではないのです。
一切の法を教え導く為に、智の方便をもって、これを演説するのです。
その事を説く為の法は、
すべて残らず皆、一切智地を悟らす為のものです。如来は一切諸法が行き着く所を観じて、
また、すべての衆生の心の奥底にある心理を知り尽くす。
その為、何のためらいも無く、その事を心の奥底にまで届かせる事が出来るのです。
また、諸法を説く際には、出来うる限り、明らかに悟らして、 諸の衆生に一切の智慧を示す。
迦葉(かしょう)よ、
譬えば、三千大千世界の山川・渓谷・土地に生い茂る卉木・叢林及び諸の薬草など種類は数知れずあるが、
名色(存在する姿)は、おのおのが異なる。
厚く重なった濃い雲が次第に広がって行き、普す事無く、三千大千世界を覆い、一時の間、等しく、雨が降り注いだのです。
そして、その潤いは万遍に、卉木・叢林及び諸の薬草の小さな根・小さな茎・小さな枝・小さな葉、更に、中くらいの根・中くらいの茎
・中くらいの枝・中くらいの葉、また、大きな根・大きな茎・大きな枝・大きな葉を潤おす。
色々な樹の大きさの大・小に関りながら、また、高さの上・中・下に随いながら、それぞれがその潤いを受けるのです。
一雲がもたらす雨により、その種性(生まれつき)に適うて生長し、花を咲かせて実を付けるのです。
一地の所生(同じ土より生まれた事)・一雨の所潤う(同じ雨より、恵まれた潤)と言うのに、色々な草木に格差別が生じるのと同じ様にです。
迦葉よ、必ず知るのです。
如来も、また、大雲と同じなのです。大雲が立ち昇る様に、世に出現して、彼の大雲が三千大千国土の隅々まで覆う様に、
大音声をもって、広く世界の天・人・阿修羅に等しく、とどろかすためです。
そして、大衆の中に向かって、この言葉を唱う。
”ここに居る我は如来・応供・正遍知・明行足・善逝・世間解・無上士・調御丈夫・天人師・仏・世尊である。
よって、未だ彼岸に度れない者には彼岸へ度らせ、未だ解脱出来ない者には解脱させ、未だ安心出来ない者には安心を抱かせ、未だ涅槃の境地に達しない者には涅槃を得さしめる。”
今の世においても、また、後の世においても、実際に、我は一切知者・一切見者(物事の本質を見抜く者)・知道者(仏となるための行いや知識を知る者)・開道者(仏となるための行いや知識に導く者)
・説道者(仏となるための事を説いてくれる者)である事を知り得た。
だから、汝ら、天・人・阿修羅の皆衆は必ず、ここに来て、法を聞きなさい。”
その時に、無数千万億種の衆生は仏の所に来て法を聴きました。時に、如来はこの衆生の六根の利・鈍・精進・懈怠を観じて、
その苦境に堪え忍んでいる所に応じて、その者の為に、数多くの考え深い法を説いて下さり、皆を歓喜させながら、快く善利を得させたのです。
この法を聞きいた多くの衆生は、現世を安穏に過ごし、後の世において、天上界や人間界などの善所に生まれ、
道を歩む事で楽を受け、また、法を聞くことを得る。
すでに法を聞きた者は、様々な障害(物欲など)から離れ、数多い教え(法)の中から、
自分の能力に応じて、徐々にではあるが、道に入ることを得られたのです。
それは、彼の大雲がすべての卉木・叢林及び諸の薬草に雨を降らせ、それらはそれぞれの種が生まれ持つ本性の基、身に付けた能力に
応じて潤を求め、各々が生長することを得たのと同じ様にです。
如来の説く法は一相一味であり。良く言うと、解脱相・離相・滅相があり、
それらを極めて、一切種智に至る事が出来るのです。それは、ある衆生が居たとして、その者が如来の法を聞き、もし、経を持って、それを読誦して説の通り修行したとしても、得られた功徳を自ら覚知する事は無い。
なぜかと言うと、唯一、如来のみだけが、この衆生の種相(生い立ち)や本性(主な性格)を持って、何にを望み、何にを思い、何にを学ぶのか?、また、どんな風に望み、どんな風に思い、どんな風に学ぶのか?、
何の法(習わし)を望み、何の法を思い、何の法を学ぶのか?。何の法より、何の法を得るのかを知っているからです。
衆生が様々な地に住み暮らしていた。唯一、如来だけがいて、これらの事実を目の当たりにして、何の偏見も持たず、明らかに悟られたのです。
彼の卉木・叢林諸の薬草とうは、自から上・中・下の本性がある事を知らずにいる様にです。
如来はこの事から一相一味の法であると知ったのです。
つまり、解脱相(煩悩の束縛からの解放)・離相(五欲から離れる)・滅相(因果の輪廻を壊す)と移り変わり、涅槃を迎えて、常に寂滅相を得た後に、最後には元の空に戻る。佛はこれを知り尽くしたけれど、衆生の心欲を観じて、心欲からこれを守るため
一切種智を説く事なかった。
汝ら、迦葉よ。
汝らは、貴重にも、珍しい者達です。良く、如来の随宜の説法を知して、教えを信じて、それに従がいました。
なぜでしょうか、諸仏世尊の随宜の説法は、悟り難く、知り難いはずなのです。