法蓮華経を読んでいるうち、私たちは
友人や大学などの有り難さが徐々にではありますが、
分かりかけて来ました。このhpを通して皆さんに、この事をお伝へ出来れば、幸いと思います。
ぜひ、読んで見て下さいネ!
担当:国際人文学科4年 榛名みゆき
見ずらいサイトで、
ごめんネ!(´ДÅ)ょゎょゎ
下記のホームページに全訳が掲載しています。
語句の説明
・グーグル辞書で調べる事が出来るようしてある。
・特殊な語句は分かる範囲で、説明する。
( ゚д゚)ノ ョロ!!
・心相体信(こころあいたいしん)
相手を信用し、その事を確信できた事
・所止(しょし)
思いの事
・漏失(ろしつ)
徐々に失う事
・教勅(きょうちょく)
尊貴の者から教えを伝へられる事
・通泰(つうたい)
泰は平穏、通は気持ちを通わす、平穏に暮らす
・三苦
苦苦(くく):それ自体が不快なものから生じる
壊苦(えく):好ましいものが破壊されて生じる
行苦(ぎょうく):この世が流転して無常であることを見て生じる。
・弘多(ぐた)
莫大のこと
・弊欲(へいよく)
よくない習慣や癖を貪り求めること
立秋の頃を過ぎても、涼風が吹く気配が無く、なおも続く猛暑の中、私はあるデパ地下で鈴虫の音を聞いたのです。
そう言えば、大学の寮に暮らすようになって、コオロギやクツワムシが鳴く声を聞いた事が無く、
秋を寂しく思う様になりました。
今日は、皆さん
皆さんは、この残暑、厳しきおり、どうお過ごしですか?もう少しの辛抱で、涼しい季節が訪れますので、お互い
頑張りましょうと言う所で、前回の続きで〜す。・・・(。っ・Д・)っ[よろしく♪]
私たち:
「話しは変わりますが、鈴音さん、お化けって、本当にいるのですか?」
鈴音:
「マカサツはどう思うのかニヤーァ?」
にゃんこマカサツの前足を手にしながら、言ったのです。にゃんこマカサツは「にゃ〜」と鳴くばかりです
詩羅(しいら):
「鈴音様、ただいま、今戻りました。」
私たちは、どこかでその声を聞いた事があった様な気がしました。
鈴音:
「お帰り、詩羅。ご苦労さまでしたね、お客様がお見えです。こちらに来て、挨拶なさい。」
そう言うと、静かに廊下を歩く、足音が聞こえへて来て、やがて、本堂の前で止まり、襖が開く
すると、私たちと同じ年格好の尼さんが頭を下げ座っていた。
詩羅(しいら):
「詩羅です。よろしく、お見知りおき下さい。」
と言いながら、顔を上げる。
私たち:
「摩耶(まや)先輩、ここで何にをしているのですか?」
詩羅(しいら):
「修行じゃ、汝たち」
私たち:
「ふざけないで下さい、摩耶先輩」
鈴音:
「本当に、詩羅はふぜけていませんよ。ちゃんと修行していますよ、なぁ〜、マカサツ」
私たち:
「ところで、なぜ、摩耶先輩は詩羅?」
詩羅:
「戒名が詩羅、俗名が摩耶、正式には寒花詩羅院摩耶信女と言って、寒い日でも花ように我慢する女の人で、
名を摩耶と言う意味。」
私たち:
「なぁ〜るほど」
----続く。
ここから、信解品(しんげほん)をお送りします。
この場面は長者が最初、使者を遣わし窮子を連れて来たが、強引で有った為に、窮子は殺されると思い暴れた。
そこで、一度、窮子を解放す。
今度は、窮子と同じ格好の使者を遣わし、しかも、巧妙な方便を用いて城に連れ帰る。そして、窮子が城の中で
働いていると、長者はみすぼらしい老人に化けて、”ここで真面目に働くと、こう言う良い事がある”
と窮子を説得して、何処へも行かないようにする。
最後は窮子に長者が自分の子である事を告げる。そして、この喩えはお釈迦様が弟子たちを導き、そして
弟子たちを”これ子なり”と説くのと同じである事をお釈迦様に告げる。
-----続く
その時に窮子はこの境遇を心から喜ぶのですが、しかし、自分ではいそうろうの労働者で、卑しい者と思っておりました。
この理由から、二十年もの間、常に、糞をさらって来たのです。
これをやり続けた結果、長者の言葉を、身をもって確信する事ができ、何の心配も無く、家を出入りする事が出来た。
さらに、長者はこの想いを、いまだ、心の内に秘めていたのです。
世尊、その時に、長者は病気にかかっていて、自ら、明かに余命が長く無い事を知って、
窮子に語って言ったのです。
”今に至って、我は数多くの金銀で出来た珍しい宝を所有し、倉庫は皆、これらで溢れている。
その物の中に多少、皆に分け与えなければならない物が有る。汝はすべて残らず、これを知るのです。
我が気持ちはこの通りであり、必ずこの意味を悟るのだ。何故ならば、今、我と汝は、異なる事がないのだ。
良く、良く、注意を払い、徐々に減らして、終には失ってしまう事が無いようにするのだ。”
その時に窮子は
つまり、長者より、教えを伝えられて、それを受けた時です。集められた物、金製や銀製の珍しい宝物や
蔵の数々などを所有して管理したけれど、しかし、一度も、飲食を稀にとは言え、取ろうとする気持ちは無かった。
さらに、窮子はこの想いを、いまだ、心の内に秘めていたのです。未だ、下劣な心があり、
また、その心を捨てる事が出来ないでいる事です。
また、暫くの間、父は子の心を徐々に解し、平穏に心を通わせて大志を成就させ、自から以前に抱いた想いは
卑しさから生じたものでは無いと知って、自分を見下げる気持ちを持つのを止めたいと思った時に臨んで、
その子に命じた。
また、親族・国王・大臣・刹利・居士などが集められて、皆がすべて残らず、すでに集まっていたのです。
そして、自から宣言したのです。
”諸君、必ず知っておいて下さい。この者は我が子です、我が城で生まれた我が子なのです。
ある城の中に、我を残したまま、我を捨てて逃走して、五十年余りの間、ひとり孤独で辛苦して来たのです。
その者の本の字は○○、我が名は○○。昔、本城があって、そのうわさを聞き、不安な気持ちを持ちながら
職をたずねて、求めようとした。
急に、この時、偶然にもこの者に出会い、この者を得る事ができたのです。
この者は実に我が子であり、我は実にその者の父である。
今、我が所有するすべての財物は皆、この子の物とする。先に、この様に述べた事、その訳をこの子も、承知いている。”
世尊、この時に窮子は父のこの言葉を聞き、そして、大に歓喜して、今までに味わう事のない喜びを得て、
この思いを抱いたのです。
我は心の底より何一つ不満がない。”今、我はこの宝蔵に、知らず知らず、たどり着いたのだ”と言うようにです。
世尊、大富長者は、つまり、これは如来です。我等、皆は仏子(菩薩)と同じように思えるのです。
常に、如来(お釈迦様)は我等を”これ子なり”と説て下さったのです。
世尊、我等は三苦を持っているために、生死の世界の中で、色々な熱悩(地獄)を受け、
無智であるため迷惑して、小法を簡単に信じてしまう。
今日、世尊は我等に考えさせて、様々な法について、無駄と思われる論議をさせながら、役に立たない理論である糞をかき混ぜて、
取り除かせたのです。
我等はこの論議をしている最中に、涅槃に至るために、精進して励げんでいる勤めの一日分の価を得る事ができたのです。
すでに、これを得た後に、心から大に歓喜しながら満足し、納得したのです。