南無妙法蓮華経
--------信 解 品 偏--------

 

  法蓮華経を読んでいるうち、私たちは
  友人や大学などの有り難さが徐々にではありますが、
  分かりかけて来ました。このhpを通して皆さんに、この事をお伝へ出来れば、幸いと思います。   ぜひ、読んで見て下さいネ!
 
  

   担当:国際人文学科4年 榛名みゆき


参 照


見ずらいサイトで、
ごめんネ!(´ДÅ)ょゎょゎ

下記のホームページに全訳が掲載しています。


妙法蓮華経

フリー百科事典
『ウィキペディア』
法華経


参考サイト







語句の説明
・グーグル辞書で調べる事が出来るようしてある。
・特殊な語句は分かる範囲で、説明する。
( ゚д゚)ノ ョロ!!


・たて奉る
 尊敬語で、たとえば奉納

・記
 指し示したものを意味する。

・曲躬(こくぐう)
 自ら身体を曲げること

・瞻仰(せんぎょう)
 仰ぎ見る

・朽邁(くまい)
 くされて、くずれる方向に進む事、つまり高齢で、老いて行くだけを意味する

・疲懈(ひけ)
 疲れて怠けることで、だるさを意味する

・遊戯神通(ゆけじんつう)
 超自然力を表す事

・仏国土(ぶこくど)
 仏道に進んだ自分の身を意味する。

・大善利(だいぜんり)
 大いに善く利益する。つまり、役立たせる事

・出入息利
 物が出入りする度に税を掛ける

・坦然快楽(たんねんけいらく)
 気を使う事無く、心から楽しむこと

 


---編 集 録---

もう時期、お盆がやって来ると言うのに、毎日、毎日、酷暑が続き、はよるで 熱帯夜のため寝不足です。 こう言う時は、納涼のためにプールに行こうと言う話しになり、お化け屋敷に来ました。?なんじゃこりゃ!。 そそっかしい後輩が納涼と聞いて、ネット検索した結果です。

今日は、皆さん
では、話しの続きをしましょう。
鈴音:
「また、金魚の喩え話はそれだけを意味するものではありませんよ」
私たち:
「どう言うことですか?」
鈴音:
「そうですね。金魚鉢に水が入っているか、いないか?は、なぜ、分かるのでしょうか?」
私たち:
「それは金魚が泳いでいるからです。」
鈴音:
「そうです。金魚がいることで水の存在が分かり、元気に泳いでいる事で水が綺麗である事が分るのです。」
私たち:
「なるほどネ!」
鈴音:
「では、金魚は水のことをどう思っていると思いますか?」
私たち:
「何とも、思っていのでは?」
鈴音:
「水が汚れると金魚は死んでしまうのに?」
私たち:
「だって、金魚は違う世界を知らないし、自分がどうなるかなど考えず、餌を食べて、糞をすることだけです。」
鈴音:
「そうですね。金魚は水の状態によって、自分の生命に関ることを知らず、金魚は自分の力で生きている思って、 好き勝手に生きているのです。そして、水を汚して、死ぬのです。」
私たち:
「なるほど、視点を変えることで色々と見えて来ると言うことですか?」
鈴音:
「少し違います。これは仏教の根本思想で、縁により因があり、その因により縁が変わり、その縁により因が果になる。 と言う事です。ここでは水が縁、金魚が因、金魚の生死が果であり、それらは絶えず変化するから空と言います。 空であるから、因である金魚は自力で生きる事が出来ないのです。すなわち、無なのです」
と鈴音尼君が話し終わると一匹の猫が鳴きながら、入ってきた。

----続く。

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◆信 解 品(しんげほん)

ここから、信解品(しんげほん)をお送りします。
前回は比喩品を取り上げました。十大弟子の中で、 智慧第一とされる舎利子でも、仏の境地である涅槃を得る為には、仏の一切種智を学ばなければならない。 それを得る為には自分が阿耨多羅三藐三菩提でなければならないと説かれも理解できなかった。

更にお釈迦様から、涅槃を得るには、仏教の第一義”因・縁”を見て、総ては空である事を知り、阿耨多羅三藐三菩提を得る事である。 阿耨多羅三藐三菩提と言うのは他者を救う為に、あらゆる手段を講じて、他者が自ら、苦境から脱出させる者を言うと説かれる。

信解品では、阿耨多羅三藐三菩提の記を聞いていた他の弟子たちの話から始まる

-----続く

●翻 訳 一

その時に、
慧命須菩提(えみょうしゅぼだい)摩訶迦旃延(まかかせんねん)摩訶迦葉(まかかしょう)摩訶目健連(まかもくけんれん)たちは、 佛を敬いながら従がって参り、聞くことが出来た未曾有の法と、舎利弗世尊に、阿耨多羅三藐三菩提の記を授なされたのを見った時。

不思議な気持ちに成り、喜びに沸き立ち、そして、座より立って衣服を整えた後に、ひたすら、右の肩をだしたまま、右の膝を地に付けながら、 一心に合掌する。また、お辞儀をして恭敬の意を表し、佛の顔をあおぎ見て、佛に隠す事無く、申し上げました。

「我等は比丘を統率する立場の者であり、もう歳で、老いて行くのみであると思って居り、自分ではすでに、涅槃を得ているので、 もはや、堪え忍ぶことが無いと思い。更に、阿耨多羅三藐三菩提を進んで、求めようとしなかった。

世尊が昔に行なった説法から既に、長い月日がたち、我は禅を組んでいる時、身体のだるさを感じるのです。 ただ、空(すべての物は自立出来ない事)無相(物に心を寄せない事)無作(嘘を吐かず、有りのままである事)を念じて、

菩薩の法である遊戯神通をもって、仏国土を浄め、衆生を成就させる事が心から喜び、楽しい事で有ると思えない。

どう言う訳で、世尊は我等を三界から求出させて、涅槃(煩悩が吹き消された状態)を悟る事を得させようとするのでしょうか?。

また、今、我等は歳を取り、老いを迎えているのです。佛が菩薩を教え導かれた阿耨多羅三藐三菩提 において、一瞬たりとも、好楽の心を生じたことがありませんでした。

我等は今、仏前において、声聞に阿耨多羅三藐三菩提の記を授けなされたのを聞いて、 我が心は、非常に歓喜しながら、未曾有なるものを得ることが出来たのです。

思いも寄りませんでした。今になって、突然に希有の法を聞く事が出来るとは。深く、自らを慶福するのです、 大いに善く、すべてのものを役立たせる法を獲たのだと。 限りない、珍しい宝を自から求めようとせずに、得る事が出来なのです。

世尊、今ここに居る我らに、願わくは譬喩をもって説いて、その意味を明らかにして下さい。
譬えば、ある人がいたとして、その人はすでに、幼くして、父を捨てて、家から逃げ出して、永い間、 他国に住み着き、十才または二十才の頃から五十歳に成りました。

すでに年老いて、益々、貧困した為、あらゆる所で自分が思いつくままに就職活動して、職にありつき、 衣服や食料を求めていました。次第次第に、あてもなく歩いて本国の事を知って、そして向って行った。

その父は子供と別れた時から今まで、子を探す事無く、一城の中に留まっていた。 その家は大に富んで財宝は無量であった。金・銀・瑠璃・珊瑚・琥珀・頗黎珠とうで、 その家が所有する数々の倉庫は、すべて残らず、みんな充満して溢れていた。

多く僮僕(召使いの子供)・臣佐(役人を補佐する者)・吏民(役人)がいて、象・馬・車乗・午・羊などを 無数、所有していた。出入りする者を利することで生計を営み、そのことが他国に広く、知られていた。 また、商估(商人)・賈客(顧客)などの群集が数多くあった。

時に、貧窮の子は様々な聚落(人の集まった村落)に遊んで、 邑の国をめぐり歩きながら、遂に、その父がいる城に到る。

父は常に子を思っていました。しかし、子と離別して五十余年の間、未だかつて、 人にこの事を打ち明ける事をしませんでした。

ただ、自ら子供と別れた事を思い出しては悔みながら、残念な気持ちを抱くのです。 そして、自ら思を寄せるのです。老いて働けなくなっても、多く財物があり、 金・銀・珍宝などの品が倉庫に満ちて、溢れているほどであるが、息子がいない。

ひとたび私が死んでしまったならば、この財物はゆだねるところもなく、散失してしまうだろう。 この理由より、何度も、何度も、毎日のようにその子を憶うのです。

また、この思いを抱くのです。
我が、もし、子を得たとして財産を相続させれば、心置きなく楽しんで暮らすことが出来て、また、心配い事も無い。

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