南無妙法蓮華経
-----如 来 寿 量 品 偏-----

 

  私たちにとって法華経とは、
  人間らしさとは何かを、考えさせてくらる物語です。そんな風に私たちも、このhpを通して皆さんに伝えられたら、
  良いなと思って、このhpを掲載しましたので、気軽に読んで下さいネ!。    
  

   担当:社会倫理学科3年 森井 かな


参 照


見ずらいサイトで、
ごめんネ!(´ДÅ)ょゎょゎ

下記のホームページに全訳が掲載しています。




フリー百科事典
『ウィキペディア』
法華経


参考サイト

かとちえの短歌教室

ギリシャ哲学への招待状

勝手に哲学史入門



語句の説明
・グーグル辞書で調べる事が出来るようしてある。
・特殊な語句は分かる範囲で、説明する。
( ゚д゚)ノ ョロ!!


・堂閣(とうかく)
神仏を祭り、人が祈りを捧げられる様にした高い建物。一般には五重の塔を言う

・道
道→ある考えの下に行なう手段の事


---編 集 録---

遠い日の
夢を結ばん
ひな祭り
愛しき君の
姿を求む
<解釈>

この短歌は三月三日の桃の節句に開かれた合コンに勝負をかけ、散った2○歳の先輩の様子を詠んだ歌です。 その後、その先輩はどうなったのかは分かりません。



今日は、皆さん
お元気でしょうか?。だぶん元気だと思いますけど、元気でないあなたは病院に行きましょうね。!

今月で、早くも三月になり、卒業の季節がやって来てしまいましたね。ですが、就職に有り付けない先輩 たちは留年する覚悟を決めたそうです。私たちにとっても、大変な事に成りつつ有るようです。まあ、 そう言う訳で前回の話の続きをどうぞ!

かな;
「哲学や宗教は何かの役に立つのですか?」
鈴音;
「哲学や宗教などと言った学問は直接、人に利益をもたらすものではありません」
かな;
「それなら、学ぶ必要が無いのではありませんか?」
鈴音;
「そうですね。ロシアを例に挙げた説明しましようか。
ロシアが共産主義の頃、効率的な生産を行なう為に生産に邪魔になる宗教を排除しょうと宗教弾圧を 行なった結果、人々はストレスを感じ、やる気を失い酒に溺れるようになり、早死にして逆に生産性が 低下した。

つまり、心の拠り所を失う事により生きる価値や目的が無くなり、精神のコントロール出来なくなる 生き物が人間である為、心の拠り所として哲学や宗教が必要になると言う事です。

では、哲学史に戻りましょう。
ヘレニズム文化からですね。ギリシャ哲学はアリストテレスの提唱した存在論により飛躍的な発展をもたらすと 思われたのですが、アレキサンダーの帝国支配によりアジアの文化が急にギリシャに広まりギリシャ社会 は混乱したのです。

そして、「科学知識」を求めるより「幸福と何か」言った人生観を求める四学派(キュニコス派、ストア派、 エピクロス派、懐疑派)が誕生しました。

キュニコス派とは
「徳」と「知識」が人生の目的であるとし、精神と肉体の鍛練により世俗的な欲望や快楽を退けて 自給自足を行いながら自然に従う簡素な生活をして、権力などから束縛されぬ自由を求めた。 しかし、市民からは”犬のような生活”と蔑まれた。

ストア派とは
世界や自然の秩序はロゴス(理性)によって成り立っているのであるから、自然の一部である人間も理性に 従がわなければならないとして、強い自制心をもって禁欲し、パトス(非理性的感情:欲望,快楽)を捨て アパテイア(非情)の境地を目指した。

エピクロス派とは
デモクリトスの原子論を受け継ぎ、人間も原子から成り立っているに過ぎず、死とは魂や肉体を 形作っている原子がただ散乱するだけで何も怖れもない。

つまり、最小限の快楽で満足できるように快楽を求める欲求を理性によってコントロールし、 必要最低限の快楽で満足させようとする快楽主義を主張した。

懐疑派とは
基本的原理・認識に対して、その普遍性・客観性を吟味し、根拠の無いものを排除しょうとする が、人にはものの本性の認識は不可能であるとして判断停止を勧め、そこから思い煩(わずら) いのない平常心が得られるとした。(仏教の縁起説の素)

この時代(BC323〜27年)はアレキサンダー大王の死後、ディアドコイ戦争が起きて帝国が三つに分裂し、 後にローマ帝国に征服され、ミトラ教やキリスト教が広がる時代でもあった。」
--まだまだ続く 次ページへ

◆如 来 寿 量 品(にょらいじゅりょうほん)

ここからは如来寿量品(にょらいじゅりょうほん)です。
これまで如来寿量品を読んで、如何だったでしょうか。今回で、この如来寿量品は終わりです。

さて、最後の場面はお釈迦様が偈(げ)と言う短文を用いて、今までの事を簡潔にまとめている場面が 描かれている。

それは、今までお釈迦様に頼って修行して来た弟子たちが、お釈迦様の死に直面して、お釈迦様の死後の世において、 何を頼りに修行すれば良いのか。また、死ぬ事がない仏であるお釈迦様が死ぬと言う事実をどの様に受け止めれば 良いのかを考えている場面です。

この如来寿量品は法華経の中でも一番大切な作品とされています。この作品は、前の作品で自分が久遠仏である事を 明かした釈迦が死ぬ事を告げる。この事により生と死の意義を見つけさせていると思われる。

●翻 訳 三

”多くの善男子よ、
どの様な気持ちであろうか?。もしかして、人がこの良医を偽りとして、虚妄(きょもう)の罪を問う事が出来るであろうか、どうか。”

”問う事は出来ないでしょう、世尊。”

そして、仏は再び、この様に述べた。
”我れも、またこの良医と同じなのである。我、成仏してより今日まで、思いが及ばずに数えられない年月である 百とも、千とも、万とも、億とも、那由他とも、阿僧祇とも言われる時が過ぎたのである。

衆生の為に方便力 を使って「今、この世から去るであろう(滅度)」と言うのである。再び、良医の教えの様に、我の行いは偽りで、過ちである事を人に話そうとする者が いてはいけない。”

その時に、
世尊は、再びこの意味を広く伝えようと望んで、歌(偈;げ)で分かり易く述べた。

”我れが仏と成った時より今日まで、経過した年月(劫数)は無数である百・千・万・億・那由他・阿僧祇劫を数え、 常に教え(法)を説きながら、数に限りがない何億もの衆生を善に変えさす為に教え導(教化)いて仏道に入られた。

しかし、計りしれない年月(劫)が過ぎた今になって、衆生を悟りの世界に渡す為、仮の一時的な手段(方便)として、 死んだ(涅槃)姿を見せるのである。だが、実際には悟りの世界に逝った訳ではない。

常にこの娑婆世界に住み着き、教えを説いているのである。我れは常にここに住んでいると言えども、 様々な神通力をもって、顛倒(てんとう) している衆生には近くにいても、見る事が出来ないのである。

集まった者が我が死(滅度)を見届けると、広い地域に散らばって、遺骨(舎利;しゃり)を供養する。 そして、すべての者が仏を恋しく思い(恋慕)ながら、深くお教えを信じ、仏を敬う(渇仰)心を起すのである。

すでに衆生は教えを信じ、それに服従(信伏)している為、気取らず真面目でありながらも(質直)、心は柔軟であり、 更に、彼らは一心不乱に仏を見る事を願って自ら進んで、体や命さえ惜しまず(不借身命)に修行するのである。

その時に、
我れ及び僧侶の集団が共に霊鷲山に現れ、時には我れが衆生に語り掛けるのである。 ”常に我はここに居いて、世を去った訳ではない。真実を悟らす為に仮の教え(方便力)を 用いて、死ぬ(滅)と言ったり、永遠の命(不滅)があると言ったするのである。

他の国において、苦界を輪廻する衆生でありながらも、謹みを持って仏を敬う。また、仏の教えを信じ、自ら喜んで これに従う(信楽)者が居たとしたならば、我れは、再び、この者の心の中において、 この者の為に、無上の法を説くのである。”

汝らはこれを聞く事無く、ただ我れがこの世を去った事だけを考えていた。そして、我れが多くの衆生を見った時、 皆が身を苦の海に沈めていたのである。

その為に我は身を現す事無く、その事で渇いた者が水を切望する様に深く仏を仰ぎ慕う心をおこさせる(渇仰)。 そして、その心が仏を恋い慕ったならば、その者の為に姿を現して法を説くのである。

また、我が神通力にはこの様な力があるのである。
阿僧祇劫(あそうぎこう)において、常に霊鷲山(りょうじゅせん)及び他の色々な所に住み着きながら、 衆生がその一生(劫)が終えるまで大火(欲)に焼かれている姿を見ながらも、我がこの国土(涅槃)は安らいで、 常に天人(天使)で満ち溢れている。

更に、林の庭園の中には沢山の堂閣があり、それらは色々な種類の宝で美しく飾られ、宝樹には多くの花が咲き、 実が成っていて、衆生が楽しげに遊ぶ(遊楽)所と成っていた。

諸天が天の鼓を撃って、常に様々な音楽を演奏しながら、 曼陀羅華(まんだらげ)を降らして 仏および大衆の上にばら撒かれ、我が浄土が崩れ無かったのである。

だが、衆生は更に焼け尽きて、憂いや恐怖などの多くの苦悩がこの様に充満するのを見るのである。 この様に多くの罪を犯した衆生は悪業の因縁を持つ為に阿僧祇劫と言う長い年月が過ぎても 三宝(仏・法・僧)の名を聞く事がないのである。

ありとあらゆるすべての功徳を修めて、穏かで素直な心(柔和質直)を持った者、皆が我が身がここに有って、法を説いている 姿を見る事ができる。

ある時はこの人々の為に仏の命は無量であると説き、今まで久しく仏を見て来た者には、この者の為に仏と出会う事は 難しいのだと説くのである。

我が智力はこの様にして得られたものである。後頭部から放たれた光(慧光;えいこう)であらゆる物を照らし出し、寿命は 数える事が出来ない日々(無数)を過ごし、 長い年月を経て人がやる行為()を修めながら、得られたものである。

汝ら、知恵ある者よ。
ここまで来て、未だ疑う心を持ってはならない。必ずや疑う心を断じて、永い間努力を重ねながら、 その気持ちを消し去るのである。

仏が語った事は真実であり、嘘ではない。
良医が善き方便を用いて、狂っている我が子を治す為に、実際は生きているにも関らず、死んだと告げた 事を嘘(虚妄)であると人に話す者が居ない様に、我れも、また世間の父であり、すべての苦しみや悩み (苦患)から救う者である。

凡夫が顛倒(てんどう)している様子を見て、真実には存在するにも関らず、しかも死ぬ(滅す)と言った訳は、 常に我れを見る事により、更に驕り高ぶって人をバカにする心(憍恣;きょうし)を持って、自由気ままに生活(放逸) を送りながら五欲(色、声、香、味、触)を貪って、それにこだわりながら悪道の中に堕ちる。

我れは、常に衆生が生活を送る為の手段()として 何を行ない、また何を行なわないのかを知り尽くし、救(度)わなければならない悩み(所)に応じて、この悩みの為に 様々な教え(法)を聞かせるのである。

  そして、毎日自らがこの様な思いを抱いていたのである。「どの様にしたら、衆生をこの上ない道(仏道)に入らせ、しかも 速やかに仏身を完全に身に付ける事が出来るのであろうか。」 と言う事をである。




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