南無妙法蓮華経
-----如 来 寿 量 品 偏-----

 

  私たちにとって法華経とは、
  人間らしさとは何かを、考えさせてくらる物語です。そんな風に私たちも、このhpを通して皆さんに伝えられたら、
  良いなと思って、このhpを掲載しましたので、気軽に読んで下さいネ!。    
  

   担当:社会倫理学科3年 森井 かな


参 照


見ずらいサイトで、
ごめんネ!(´ДÅ)ょゎょゎ

下記のホームページに全訳が掲載しています。




フリー百科事典
『ウィキペディア』
法華経


参考サイト

夜はぷちぷちケータイ短歌

ギリシャ哲学への招待状

猿でもわかる哲学史



語句の説明
・グーグル辞書で調べる事が出来るようしてある。
・特殊な語句は分かる範囲で、説明する。
( ゚д゚)ノ ョロ!!


・所作(しょさ)
行い。振る舞い

・仏事(ぶつじ)
修行や説法などの仏の行為

・擣簁和合(とうしわごう)
擣→つく
簁→ふるう
和合→調合する
幾つかの効能を持つ薬を擦り合わせ一丸と和合させて最高の薬を作ったというのが本来の意味

・問訊(もんじん)
問いただす。または禅宗の礼法で、合掌低頭すること。本来はそのあと安否を尋ねた

・背喪(はいそう)
背→主人の事、喪→死、よって死亡の事

・差(い)えじ・差(い)ゆる
癒えじ、癒ゆる


---編 集 録---

鶯の鳴き声え遠し
街の春
わが身に掛かる
声も無しとは
<解釈>

この和歌は、まだ東京に住んで居なかった頃の田舎の春と、 親友の洋子の近況を重ねて詠んだ歌です。
チョコト、物悲しく詠んでみました。


今日は、皆さん
お元気でしょうか?。「僕も元気です」と言った所でしょうか?。さて、私たちは法華経の訳以外に和歌に ついても、調べています。

しかし、ネット上で検索して作品集を目にする事は出来るのですが、どの様に短歌を詠めば良いのかを 教えているhpがありません。そんな訳で私たちは、現在検討している所です。 では、前回の続きをどうぞ!

かな;
「ねね、鈴音さん。仏教と哲学は同じ様なものと、前に言ったけれど、本当に違いは無いのですか?。もう一度簡単に教えてネ!。」
鈴音;
「一言で言えば、仏教は信じる学問に対して哲学は疑う学問と言う事が出来ます。」
かな;
「分からない。分からない。分からない。分からない。分からない。」
鈴音;
「そうですね、分からないですよね!。
では、この様に考えて下さい。仏教では「こう成るのにはこう成る訳がある。」と言う事を信じる事であり、 哲学では、「どうししてこう成り得るのか」と疑問を持つ事です。

どちらも、考える方向性や手段は違うが真実を見つけ出そうとする姿勢は同じで、神などの起す奇跡などを否定 し、あくまでも人や物理的法則によって、様々な現象が起きていると思っていたようです。 では、哲学史に戻りましょう。

では、ソクラテスの弟子プラトンからですね。ソクラテスは街頭に立って人々と「本当の善や本当の愛」などを 論議しながら、政治家たちの反感をかって死刑にされた。

その後、弟子プラトンは師匠であるソクラテスがやっていたことは単なる「真理の探究」で、有意義な事と主張 したのですが、当時のギリシャでは「相対主義」 が盛んであった為、「この世に真実などは存在しない」とする人々だらけて、プラトンには耳を貸すものが居なかったのです。

そうした中、プラトン はある事に気付いたのです。 人が「善」と聞いた時、「善」の行いは人それぞれ違うが 「善」と聞いてイメージする事(良くなる方向)は同じではないかと。 そして、イデア論 を提唱し、アカデメイア という学校を作り、若い哲学者を育成した。

その後、プラトンの弟子アリストテレス によってイデア論が否定されたのです。
プラトンが「物を見た時、人の心はその物のイデア界と交信して、得られた物のイメージ と評価しながら、物の良し、悪しを決める。」と言ったイデア界は何処に存在するのか?。 また、それは単なる概念では無いのか?。

そして、紀元前340年頃アリストテレスは新たに存在論 を提唱したのです。これにより、ギリシャは哲学の黄金時代を迎え、更なる発展が期待されると思いましたが、 しかし、アレキサンダー大王の出現により、哲学者たちは「知識の探求」から「幸せの探求」を求める ヘレニズム文化 の幕開けが始まったのです。」

--まだまだ続く 次ページへ

◆如 来 寿 量 品(にょらいじゅりょうほん)

ここからは如来寿量品(にょらいじゅりょうほん)です。
この場面はお釈迦様が自分は久遠仏であり、死ぬ事が無いのだけれど、衆生の為に方便として死を選ぶ事 を説きながら、 その事が嘘であって罪にあたるかを「良医病子の喩え」を用いて説いている所を 描いています。

この場面ではお釈迦様を久遠仏と言う事で、人を含めた物の存在の有り方を示したものと思われます。 つまり、物は永遠な存在でありながらも、この世に姿を現したり、消したりするのはある訳が存在すると 述べている。

そして、お釈迦様の場合はお釈迦様が生き続ける事で、悟りきれない者が修行を怠けて、五欲に溺れ、 本末転倒な考えを持って、自分の存在を誇示して驕り高ぶり、仏をけなして大切な教えを失なわない様に、

方便として死を選び、もう一度、仏を慕う心を生じさせて、再び修行を積ませて、悟りを開かせる為であるとした。 つまり、死とは仏と成る為にある方便であり、この世は仏の教えを悟る為の道場である事を示している。

なお、専門の解説書では永い年月に徳を積み重ねる事でやっと仏にめぐり会える縁がもらえる事を意味している と書かれている。

●翻 訳 二

”多くの衆生には、
それぞれの生まれ持った性質(性)や、欲望や、習慣(行)や、様々な思いで物事を判別する心を 持っている為、

少しでも良い果報が得られる様に、沢山の善行(善根) を身に付かせようと望んで、多少の因縁・理解される様な例え話(比喩)・思いやる言葉(言辞)などの手段 を用いながら、様々に工夫をこらして教え(法)を説くのである。

我は如来の仕事(仏事)として行なわなければならない事を今までに一度たりとも捨て去った事など無かった。 我は、この事を我れが成仏してより今日まで遥かに遠い過去が流れた間、続けて来たのである。

また、我が寿命は計り知れる事がない阿僧祇劫と言う年月を経ても、尚、 常にこの世に留まり、死ぬ事が無いのである。

多くの善男子よ、
我れが今の菩薩道を修行して悟りを開き、成就した寿命は未だに終わる事が無く、更に増して過ぎた年数の 二倍に成ったのである。

しかしながら、今の滅度(涅槃)は 本当の滅度で無いにも関らず、更に、あえて『必ずや我はこの世から去る(滅度)だろう』と口にして言ったのは。

如来がこの方便をもって衆生を良い方向に導く為である。なぜならば、もしも仏が永い間、この世に住で居たならば、 能力(徳)の薄い人が果報の素と成る善行を行う事が出来ず、暮らしに困り悩んでいるうち下品に成り(貧窮下賎)、

五欲を貪っては、それに、しがみ付きながら心が一つの深い想に捕らわれて(憶想)、自分勝手な見方(妄見) しか出来ない網の中に陥るだろう。

もし、如来がこの世にずっと生き続けて死ぬ事が無いと見れば、驕り高ぶってわがままな心(驕恣)を起こし、 修行を嫌ってやる気(厭怠)を失い、

仏にめぐる遭う事は困難であるとの想い(難遭の想い)や仏を慎み敬う心を持とうとしないからだ。 だから、如来は 方便をもって説いたのである。

比丘(びくに)たちよ。
今当に知るであろう。多くの仏が世に出現して、それらの仏とめぐり合う事(値遇)が難しいと言う事を。

なぜならば、(薄徳)才能に恵まれない多くの人は計る事の出来ない百劫・千劫・万劫・億劫と言う時が 流れたとしても、もしかしたら仏を見る事が出来た者が居るかもしれないが、もしかしたら仏を 見られない者もいるのである。

この様な訳で、我れはこの言葉を述べるのだ。『多くの比丘よ、如来を見ることも、 如来の説法を聞く機会を得る事も難しい』と。

この衆生らよ。
この様な我が話を聞きながら、確かに仏との出会いのチャンスは難しいとの想いを起すであろう。

そして、仏を恋しく思う心を持ったならば、深く仏を信仰(渇仰)して、良い結果が得られる様な行い(善根) を行いながら、心にもそれを刻んで行くであろう。それ故に、如来は本当にこの世から去らないのであるが、 しかしながら『この世から去る』と言いうのである。

また善男子よ。
如来でもある多くの仏たちが存在(法)する意味はすべてこの様なものである。

衆生を悟りの世界に渡す為であるから、すべてが真実であり、嘘ではないのである。 例えば、腕の良い医者が居たとしてしょう。その者は物事を良く観察してはその原因を見抜くほど知識が有り、 確かに薬剤の調合に勝れていて、良く色々な病を治したのである。

その人には年の違った様々な息子が沢山おり、もしかすると十人か、二十人、或いは百数人であろうかと思われた。 ある日、訳があって遠い所の他国に出かけて行き、留守番をしていた沢山の子供たちは、後日に良薬以外の毒薬 を飲んだのである。

薬が効き始めて(薬発)、暴れる様に悶え苦しみながら(悶乱)、地面をのた打ち回った(宛転)。この時に、 その父が仕事から戻り、家に帰って来た。

沢山の子供達が毒を飲み、ある者は正気を失ない、またある者は正気を失わない者もいたのである。そして、 遥かにその父を見て、皆が大いに喜び、ひざまずいて手を合わせながら父に安否を尋ねた。

”良く、無事に帰宅されました。お父さん!
我れらは心が暗くて道理が分からず、愚かにも(愚痴) 誤って毒薬を飲んでしまった。願わくは我らを治療して我らの命を救い、更に寿命を永らえさせて下さい”と。

父は子供らの苦悩する様子をこの様に見と、様々な書物に依って、好き薬草の色や香りや味などすべてが 一つも残さずに備わっているものを求め、それらの薬草を付いて振るいながら調合した (擣簁和合)薬を子供に与えて飲ませた。

そして、この様に言ったのです。
”この良薬は色と言い、香と言い、味と言い、すべてが好ましいものばかりだ。 汝ら、これを飲むのだ。そして、速やかに苦悩を取り除のです。また色々な心配をしなくも良い”と。

その沢山の子の中で心を失わない者は、この良薬の色や香が、共に好ましいのを見て、これを飲んだところ、 病気は一つ残らず取り除かれ、苦しみが治まった。

他の心を失える者たちは
その父が帰って来たのを見ては、また同じ様に喜びながら、父に安否を尋ねては病を治療する事を せがんだ(求索)にも関らず、その薬を与えたところ、子らは薬を飲まなかったのである。

なぜならば、毒の成分(三毒) が心の奥深くに入り込んで本心(仏心)を 失なった事により、この様に好ましい色や香りをしている良薬でさえ、良いものと思えなかった。

そして、父はこの様に考えたのである。
「この子らは何と哀れであろうか。毒によって感覚が麻痺してしまい、すべての心が 顛倒(てんとう)してしまった。

我れを見ては喜び、そして、我に治療する事をせがんだ(求索)と言っても、この様に好まし良薬を 少しも飲まなかった。我れは今、直にでも方便を使ってこの薬を飲まそう。」と、

そして、父はこの言葉を述べた。
”汝ら、必ず知って置くのだ。 我れは、今日年老いて体が衰えて来た。いつ死んでも不思議ではない。 よって、この好き良薬を何処にも持っていかずに、この場所に於いて置く。 汝らは自分で取って飲みなさい。治らないと疑ってばかりいないで、”と。

この教を教え終わると、再び他国に行き、使者を使わし、その使者が家に戻ると、 子供らに告げた。”汝らの父は、すでに死んだ”と。

この時に、
多くの子供たちは、父が死亡(背喪)した事を聞いて、心は大いに悲しみ、そして悩みながら、 この様な思いを抱いた。

「もし、父が生きていたとしたならば、我れらを可哀想に思って大切に扱いながら、助けてくれたでしょう。 なのに今、我れらを捨てて、遠い所の他の国で死んでしまられた。

自ら自分を振り返って見ると、孤独であり、露の様に儚い者でありながらも、頼りにする者(恃怙)がいない。」と 常に悲しい感情を抱いている内に、心が遂に目覚めたのである。(醒悟)

そして、この薬の色や香や味が素晴らしい事を悟り、薬を手に取って飲むと、毒によって生じていた病は すべて治った。

その父は子供たちが一人も残さずに、皆が治す事が出来た事を聞いて、家を尋ねる。そして、家に帰って来て 一人も残さず、子供らと会う様なものである。




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