南無妙法蓮華経
-----如 来 寿 量 品 偏-----

 

  私たちにとって法華経とは、
  人間らしさとは何かを、考えさせてくらる物語です。そんな風に私たちも、このhpを通して皆さんに伝えられたら、
  良いなと思って、このhpを掲載しましたので、気軽に読んで下さいネ!。    
  

   担当:社会倫理学科3年 森井 かな


参 照


見ずらいサイトで、
ごめんネ!(´ДÅ)ょゎょゎ

下記のホームページに全訳が掲載しています。




フリー百科事典
『ウィキペディア』
法華経


参考サイト

ギリシャ哲学への招待状

猿でもわかる哲学史



語句の説明
・グーグル辞書で調べる事が出来るようしてある。
・特殊な語句は分かる範囲で、説明する。
( ゚д゚)ノ ョロ!!


・誠諦(じょうたい)
偽りの無い真理

・心力(しんりょく)
精神力、或いは心の働き(行動力・認識力・想像力)の事

・無漏智(むろち)
すべての煩悩(ぼんのう)を離れた聖人の智慧の事。 その反対が有漏智(うろち)で、差別する智慧の事。

・微塵(みじん)
仏教では原子を意味する。

・仏眼(ぶつがん)
五眼(肉眼(にくげん)・天眼(てんげん)・慧眼(えげん)・法眼(ほうげん)・仏眼(ぶつげん)) の一つです。

肉眼
肉体にそなわっている普通の目

天眼
あらゆるものを見通す超自然的な知覚能力

慧眼
この世の空(くう)であるという真理を悟る能力をもつ目

法眼
諸法を観察する智慧(ちえ)のまなこ

仏眼
悟りを開いた者に備り、すべての実相を見通す眼

・己身(こしん)
身→体のほかに、意思や言動を意味する事がある。


---編 集 録---

”寒空に

芽吹くミズキの愛らしさ

君の思いも

春には咲かん”
この短歌は
義理チョコでさえも送る宛てが無い後輩の気持ちを読んだ歌。罪深いバレンタインデーは誰が、 何のために作ったのだろうかと考える日々が続く者もいるのだよ。キリスト屋さん!!


今日は、皆さん
最近、まだまだ寒さが続いていますネ!。でも、街路樹を良く見てみると新芽を吹いているものを 目にする様に成ったとは、思いませんか?。

徐々にでは有りますが、春が近づいて来ているようです。さて、私たちの活動ですが歩みは遅いものの 着実に進んでいるようです。最近、気付いた事は法華経には 正法華経・妙法蓮華経・添品妙法蓮華経の三種類がある事です。
その事は、また別の機会に話をする事としましょう。では、前回の話の続きをどうぞ!

かな;
「ねね、お釈迦さんは何を見つけたの?」
鈴音;
「人には心があって、その心は人の行為によって善くも、悪くもなると言う事。」
かな;
「それまで人には心が無かったのですか、鈴音さん」
鈴音;
「はい、それまでは魂のレベルによって運命が決定されると思われていたのですが、お釈迦様に よって否定されて、人の運とは心と行為によって決まるされたのです。では哲学史に戻ります。

デモクリトスからですね。
デモクリトスが提唱した「原子論」は当時の自然哲学を究めた為、それを証明する手段が無く 哲学者達は急に自然哲学に興味を失う。

そして、ギリシャは民主主義となって他人を説得するための話術 「弁論術」が必要になり、 ソフィストと 言う職業が流行したのです。

その結果「この世には悪も、善も無く、人間の価値観は相対的なもの」とする相対主義の 時代が始まったのです。

中でも、「絶対的な価値観や真理はなく、すべては相対的なものでしかない」と主張する プロタゴラスと 「人間が、絶対的な真理を知ることなんて到底できない」と主張する ゴルギアスが有名でした。

そして、古代ギリシャは「すべて価値は人の感覚による相対的なものであり、人には真実が判らない。」 とする不可知・相対主義が広がり衆愚政治が始まった。

そうした堕落したギリシャ人の政治家や知識人に反逆したのが ソクラテスであったのです。 ソクラテスは『本質の探求』をさせる為に『無知の自覚』をうながした。

つまり、素晴らしい演説を行っている政治家 や知識人たちのところで、マヌケな振りをして質問攻めにしては矛盾を指摘し、答えに詰まると大勢の前で 馬鹿にしたのです。」

--まだまだ続く 次ページへ

◆如 来 寿 量 品(にょらいじゅりょうほん)

ここからは如来寿量品(にょらいじゅりょうほん)です。
この作品は法華経の本門の中でも、最も重要な作品だと言われています。なお、本門とはお釈迦様が居無く成った 世において、弟子達がどの様にお釈迦様の教えを守って行けば良いのかを説いている作品の事です。

この作品の最初の場面では、前作品の弥勒菩薩の問いに対してお釈迦様が答えている所を描いています。 その中で、お釈迦様は自分の事を久遠仏だと言っています。

つまり、現世で初めて悟りを開いて仏と成った訳では無く、既に遠い過去に仏と成って人々を導いていたと言う事です。

それを証明する為、”三千大千世界を擦って-----塵を撒いた国の数を数える事ができるか”とお釈迦様が 弥勒菩薩に尋ねるが描かれている。

簡単に言ってしまえば、この三千大千世界は微塵(空気=原子)と塵(土=分子)から成り立って居て、生き物はその中間に いて、死んだからと言って体を構成していた物が、この世から消え去るのではなく微塵と塵に分解されて、何かの切っ掛けで 再び、生き物として姿を現す。故に仏も、そうであるから久遠仏と言える。

そして、苦界で苦しんでいる人々を悟りの世界に渡す為、この現世に仏として生まれた(己身)を述べる

------続く

●翻 訳 一

その時に、
仏は沢山の菩薩や、集まったすべての大衆に告げられたのです。

”多くの善男子(菩薩の事)よ。
汝ら、必ずや如来の偽りの無い真理の言葉(誠諦の語)を信じて理解するのです(信解)。” また、大衆にも同じ様に告げられた。

”汝らも、必ずや如来の偽りの無い真理の言葉を信じて理解するのです。”また、更に大勢の大衆に 向かって告げられた。 ”汝ら、必ずや如来の偽りの無い真理の言葉を信じて理解するのです。”

その時、
弥勒菩薩を導師として連なった菩薩の大集団は合掌して仏に明らかに申し上げました。

”世尊よ。我らがただ願っている事はこれを説いて下される事だけです。 我れらは、必ずや仏の言葉を信じ、これを受け取るでしょう。”

この様な言葉を三度も、仏に述べ終えると、再び、この様に述べた。
”ただ、我らの願いはこれを説いて下される事だけです。我れらは、必ず仏の言葉を信じて、 受け取ります。”

その時に、
世尊は、多くの菩薩たちが三度も教えを乞う姿を見ながら、その事が止まらない事を知ると、この者たちに告げられた。

”汝ら、如来の秘密及び神通の力を明らかに聞くのだ。すべての世間の天神や人及び阿修羅など、皆が ここに今居る釈迦牟尼仏は釈迦族の宮を出でて、伽耶(ガヤ)城を去ったのは遠い昔の事で無く、また、 すぐに道場に座って、この上ない最高の悟り(阿耨多羅三藐三菩提)を得たのだと思っている。

しかし、善男子よ。
我れが事実に成仏してから今日まで、汝らが思いも及ばない無数(無量無辺)の数の 百とも・千とも・万とも・億とも・那由他(なゆた)と言う年が過ぎているのだ。

譬えば、五百・千・万・億・那由他・阿僧祇などの三千大千世界を、仮に、ある人が 擦り、非常に細かい塵にしたとする。

その塵を東方の五百・千・万・億・那由他・阿僧祇の国を過ぎた当たりで、一つの塵を落として行きながら、 東に向って行き、最後にはこの細かな塵(微塵;みじん)が全部無くなったとしょう。

多くの善男子よ。汝らの心(意)には何が思い浮かぶのであろうか?。
この沢山の世界は思い浮かべながら(思惟)、ある物を基準として計算し(校計)、 その数を知る事が出来るであろうか、出来ないであろうか。”

弥勒菩薩らは一緒になって、仏に申し上げたのです。
”世尊よ。この色々な世界は思いが及ばないほど数に限りが無く(無量無辺)、それを数えて その数量を知る事など出来ません。 また、我々の想像力や知力(心力)が及ぶ所では有りません。

すべての声聞(しょうもん)辟支仏(びくしぶつ)無漏智(むろち)を以って考えたとしても、 その数量を知る事は出来ません。

また、我れらも不退転の地(阿惟越致地;あゆいおつちじ) に住んで居ながら、この事について完全に理解する事が出来ません。
世尊よ。この様に沢山の世界は誰にも知り尽くす事が出来ないほど無限に有るのです。”

その時に、
仏は偉大な菩薩の一団に告げられたのです。

沢山の善男子よ。
今、必ずや詳細(分明)に、我が自ら語って汝らに伝えよう(宣語)。

この沢山の世界を仮に、非常に小さな塵(微塵)を世に出し(著き)、 更に世に出さなかった者を 一つ残らず集めて塵(ちり)とする。

そして、一つの塵が出来るまでの時間を一劫としょう。我れが仏に成った日から、今日まで 百とも、千とも、万とも、億とも、那由他とも、阿僧祇劫とも言れる月日が過ぎたのである。

また、我は仏と成った時から今まで、常にこの娑婆世界に居ながらにして、教えを人に聞かせ、 善に変わる様に導いたのである(説法教化)。

また、違う場所の百・千・万・億・那由他・阿僧祇の国においても、 苦界を輪廻転生して苦しんでいる衆生が他者に対して役立つ存在になる様に導いたのである(導利)。

多くの善男子よ。
我は成仏してから今日までの途中で、燃燈仏(ねんとうぶつ) 等の話をし、またまた、その仏も涅槃に入いたと述べたのは、 これらすべて、方便をもって教えを理解させようと判断したからである。

多くの善男子よ。
仮に我が所に訪れ様と思っている衆生が居て、その者が我が居る所に来たならば、我れはすべての実相を見通す 仏眼をもって、その者の 信頼している六根が鋭いか、鈍いかを観察しながら、道理を教えて理解させる為、必要に応じて、

あちこち(処処)現れては、自ら違った名前や異なる年を言うのである。また、現れては 『今こそ、涅槃に入るのだ』と言い、またある時には、 様々な方便をもって非常に勝れた教え(微妙の法)を聞かせては、衆生の心に喜びの心を生じさせたのである。

多くの善男子よ。
如来は、自己の解脱だけを追求する小法を願う多くの衆生、すなわち が薄く、垢を重ねる者(人に感謝せず、悪業を重ねる者)を見掛けては、この人の為に 『我れは、僅かな時間で出家し、この上ない悟り(阿耨多羅三藐三菩提) を開く事が出来たのだ。』と言う事を人に話したのである。

しかしながら、我れに、事実として仏と成った時から今日までに、遥か遠い過去が有った事は先ほど述べた通りである。 ただ、方便をもって、共に生きる 衆生を教え導いて善に変えながら、 仏道(八正道)に入らす為に、この様な話をしたのである。

多くの善男子よ。
如来が教えの意味を説いた数々の言葉(経典)は、すべてが衆生を悟りの世界に渡して、 煩悩を取り除かせる(度脱)為である。

その為に、ある時には自分の存在(己身)について説いたり、またある時は他人の存在(他身)について説いたり、

またある時は自分の思いを示したり、またある時は他人の思いを示したり、 またある時には自分の成すべき事(己事)を示したり、またある時は他に対して成すべき事(他事)を示したりした。

沢山の言葉で語られた(言説)事は、すべてが真実であり、嘘ではないのである。 なぜならば、如来はありのまま(如実)に三界の姿を見て、その真実の姿を知り尽くしているからだ。

例えば、生死の様にある時はこの娑婆世界から退いたり、またある時は彼の世界から出現したりしない。 更に、生き続けられ者や死んだまま(滅度)の者はいないのである。

すなわち、実体でも無く、虚空でも無く、見ている全てが現実の姿(如)でも無く、 見ている全てが現実と異なる事でも無い。

つまり、三界に住んで三界を見る事など出来ないのである。 これらの事は、如来が何度も検証して見たが、誤り(錯謬;さくびょう)とは思えない。




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