南無妙法蓮華経
-----従 地 涌 出 品 偏-----

 

  私たちのHPでは、
  見に来てくれた人が、色々な知識を得られる様に工夫を凝らし、作成しているつもりです。
  もし、このHPを御覧頂いて、私たちの存在の意義が分かれば、仏教を悟る事も遠い話ではありませんよ。  
  

   担当:社会哲学3年 江森 美奈


参 照


見ずらいサイトで、
ごめんネ!(´ДÅ)ょゎょゎ

下記のホームページに全訳が掲載しています。




フリー百科事典
『ウィキペディア』
法華経


参考サイト

ギリシャ哲学への招待状

猿でもわかる哲学史



語句の説明
・グーグル辞書で調べる事が出来るようしてある。
・特殊な語句は分かる範囲で、説明する。
( ゚д゚)ノ ョロ!!


・教化示導(きょうじどう)
教化→良い方向へと変わる様に教える
示導→人に知らせてその方向に導く

・正憶念(せいおくねん)
憶念→心の中に堅く思いいだいていること
正憶念→仏の教えを正しく、心に刻むこと

・依止(えし)
帰依止住の略で、勝れた者に頼り、安心する事

・憒閙(かいにょう)
大勢の人がバカバカしく騒いでる様

・伽耶城(ガヤじょう)
地名でブッタガヤの事、インド北東部のガンジス川南域にあるガヤー村

・正覚(しょうがく)
正とは邪に対する言葉。覚とは菩提の事

・善根(ぜんこん)
なんらかの行為(十善) が根となって善を生ずるという意味である。

・罪業(ざいごう)の因縁
罪の原因となる業(ごう)の事。
業とは、相手の心に深く突き刺さる行いを言う。
行とは、場当たり的な行いを言う。
因縁とは、
一般的に仏教では因が主に行いを意味し、 縁が主に心を意味するが、広い意味だと原因と条件である。

・新発意(しんぼち)
新たに悟りを求める心を起こすことから、僧になったばかりの者を言う。

・少壮(しょうそう)
若くて元気のよいこと

・開解(かいげん)
道理を了解する事


---編 集 録---

”二十歳の日 着物で隠す恋い心 あなたの側に うつむき座る”
この短歌は成人式の会場で、係りの人に案内されて座った席の隣に元彼が居た時の 切ない乙女心を読んだ歌だそうです。

今日は、皆さん
お元気でしょうか?。もう早いもので、”めでたい”と言ってた月も過ぎようとし、寒さが 身にしみる如月が来ようとしています。 でも、二月はそれだけでは有りませんよ。女の子にとっては大切な月でも有ります。 それは、バレンタインデーなのだ!。-----( ゚∀゚)アハハ八八ノヽノヽノヽノ \ / \/ \

今宵はこの辺で終わりに致しましょう。では、前回の続きをどうぞ

美奈;
「鈴音さん、仏教も哲学なら、何がテーマなのですか?」
鈴音;
「ホッホー、いい所に目を付けましたね。!」
美奈;
「100年に一度くらいはね。」
鈴音;
「仏教以前のインド思想を見てみると”生命の誕生””他界の存在””輪廻転生””苦界からの解脱”など、 複数のテーマが存在していて、それらをまとめて解決したのが、お釈迦様が説いた仏教だと考えられています。

その事は後で、詳しく述べようと思います。では、西洋哲学史の戻りましょう。
エ〜ト。「人は変化し続けているものをその一瞬を捕らえて不変なものと考えている愚かな生き物」と唱えた ヘラクレイトスが終わったから、次はパルメニデスからです。

パルメニデスはヘラクレイトスと同世代で、それまでの哲学「世界は、何らかの既に存在するものから生まれる」 とするミレトス学派の問題点(変化が生じる訳)を指摘して、「万物は変化しない。永遠不変の存在である」と主張し、 エレア学派の基礎を築いた。

そして、ギリシャ哲学界は「存在は変化する」とするラクレイトスと「存在は変化しない」とするパルメニデスの間で、 論争が続き硬直状態となり、パルメニデスの弟子ゼノン によって、「アキレスと亀」で有名な背理法と言う論法が生まれたのです。 ちなみに、仏教ではこの論法は舎利弗が使ったことでも知れれています。縁起説や、竜樹の八不がです。

紀元前450年にエンペドクレスが「万物は、 どんなに小さくなっても変わる事のない根源(元素)があり、それらが結合したり、分離したりして多種多様な ものに見える」と提唱し、二学派の争いに終止符が打たれたのです。

そして、地・水・火・風の四元素と愛・憎しみの二力がある事を見つけたのです。また、 実体があるものとして空気を取り上げたのもそうです。

更に、紀元前420年頃、デモクリトスによって「何もない空間(空虚)で、原子が運動し、 結合・分離を 繰り返すことで、世界が成り立っている」と言う原子論が発表されたのです。」

続く

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◆従 地 涌 出 品(じゅうじゆじゅつほん)

ここからは従地涌出品(じゅうじゆじゅつほん)です。
翻訳文が少々、長くなりました。さて、この場面は、前節で弥勒菩薩がお釈迦様に 地湧菩薩の事を尋ね、その問いにお釈迦様が答えている様子が描かれています。

地湧菩薩に関してのお釈迦様の答えは「私は久遠仏であり、遠い昔にこの者たちを 教え導いて、大道心を起させ、頭陀行を学びながら阿耨多羅三藐三菩提を求めている。

その為、人の力や神のご加護に頼らず、また、大勢で論議する事を好む事が無く、常に静かな所 を求めて、この娑婆世界の下界に住んで、後の世で法華経を布教する者たちである。」

それを聞いた弥勒菩薩たちは驚き、「親が二十五才の青年で、子が百歳の老人の様な親子はいない」 と言って反論し、もう一度、地湧菩薩について納得いく様に説明しないと、弟子たちは仏道を捨て、 悪業の因縁に堕ちるとお釈迦様に攻め寄る場面が書かれている。

この作品にでは、この世に存在しているものを地湧菩薩に喩えて説明している。つまり、私たちが見る 事が出来るものとは普段は土の中にあって、目にする事が出来ないが、ある条件が整えば、姿を現すと 言う事である。

そして、その法則は遥か昔から決められているので久遠仏と言えるのだ。簡単に言うと、物質は酸化と 還元を地球が始まってから幾度も繰り返していると言う事だ。

また、ここで登場する弥勒菩薩は法華経を読む人の事を言っているのだ、そして、同じ様に疑問を持つのだ。 あらゆる物が存在する事が、なぜ法華経を布教する事に繋がるのかと言う事だ。

------終わり

●翻 訳 三

その時に、
世尊はこの歌(偈;げ)を説き終わり、更に弥勒菩薩に告げられたのです。

”我れは、今、この大衆を前にして汝らに大事な事を述べながら、これを知らす(宣告)。

阿逸多(アイッタ;弥勒の事)よ。
この様な沢山の大菩薩・摩訶薩の事である。汝らが思い計る事も、数える事も出来ない数(無量無数阿僧祇)の者で ありながら地より湧き出し、汝らが昔より今まで見た事のない者たちの事である。

この者たちは
我れがこの娑婆世界で、この上ない最高の悟り(阿耨多羅三藐三菩提)を開き終わって、 この沢山の菩薩に仏の教えを教えて心が良い方向に向く様に真実を示して、その者を導きながら(教化示導)、 その者の心にある悪を打破させて、道理に歩む心を目覚めさせたのである。

この沢山の菩薩、
皆がこの娑婆世界の下の世界、つまり、この界の何も存在しない空間(虚空)の中に住んで居たのだ。 そして、沢山の経典を声を上げながら読んでいる内に理解(読誦通利)し、良く物事を考えて判断(思惟分別)する 様に成り、仏の言葉を正しく心に刻んだのである(正憶念)。

阿逸多(弥勒)よ。
この多くの善男子らは大勢の人が居るからと言って、多くの意見(所説)を交し合う様な所を望ず、 常に静かな所を望み、仏道の修行(勤行)に努力(精進)して未だかつて休んだ事がない。

また、人や、神(天)を頼って安心する事は無く、常に奥深い知恵を望んでいる為に、心の妨げとなる物 が無いのである。また、常に諸仏の法を願って、一心に努力してこの上ない智慧を求めている。”

その時に、世尊は再び、この意味を告げ様と思い、歌(偈;げ)を説いて述べた。

”阿逸(弥勒)よ。
汝、必ず知るのだ。この多くの大菩薩は、思い量る事の出来ない昔(無数劫)より今まで、仏の智慧を習い修めた 者たちである。

これら一人残さず、我が弟子となり、物事の良し・悪しを判断しながら正しい道を踏み行なう心(大道心) を生じさせたのである。すなわち、これらは我が子である。

そして、この世界を信じて踏み止まって、常に、衣食住に対する欲望を払いのける修行(頭陀行)を行う為、 静かなる所を志願する。また、大勢の人がバカバカしく騒いでいる(憒閙)雑踏を捨てたのは 様々な教えが多数ある事を望まなかったのである。

この様な者達である数多くの弟子達(諸子)が我が悟り(道法)を学習したのである。そして、彼らは、 昼夜に関らず、常に努力(精進)して、仏道を求めるあまり、娑婆世界の下方の空間の中に住み着いたのである。

その者たちが心に描いた思いを叶えようとする力(志念力)は非常に堅いもので、常に、自分から智慧を求めようとして(勤求) 様々な勝れた法を解き明かすけれども、その心が恐れる事は無かった。

我れが伽耶城(ガヤじょう)と言う町で菩提樹の下に座り、最も正しい悟り(最正覚)を完成させる事が出来た後、 これ以上ない法輪を転がし、(十二因縁が成り立つこと確かめた)

この者たちを教え導き、良くなる方向に変えながら、初めて道心(菩提心) を生じさせたのである。そして、今、漸く皆が不退の境地に住む様に成り、一人残らず、確実に成仏するであろう。

我れは、今、ここに真実の言葉(実語)を述べよう。
汝ら一心に信ぜよ。『我れは、遠い昔(久遠)より来て、これらの者達の心を我が教えにより変えさせた』”

その時に、
弥勒菩薩・摩訶薩、及び、無数の沢山の菩薩らは、心に疑惑が生じたのである。そして、 ”未曾有なり(前代未聞だ)”と怪しみながら、この様な思いを抱いたのである。

”どのようにして、世尊は僅かの間に、あの様に調べる事も、数える事も出来ないほど、 沢山の大菩薩を教え導きながら、変えさせて、これ以上ない悟りを開いた者の境地(阿耨多羅三藐三菩提) に住まわせる事が出来たのだろうか”

そして、仏に向かって、明らかに述べたのです。
”世尊よ。如来は、皇太子の頃に、釈迦族の王宮を出てから、悟りを得て、伽耶城(ガヤジョウ)を去るまで、 そんなに遠い昔では無かったはずです。

僅かの時間、道場に座られて、これ以上ない悟り(阿耨多羅三藐三菩提)を得られたはずです。 その時より今まで、四十数年が、過ぎたばかり、では有りませんか。

世尊よ。
どの様にして、この様な少ない時間で、偉大な仏の仕事(仏事)を成されたのでしょうか。 それは、仏の勢力をもってでしょうか。それとも、仏の功徳をもってでしょうか。

どちらにしても、
この様に数える事が出来ない大きな菩薩の集団を教え導いて、宜しい様に変えて、確実に、 この上ない最高の悟り(阿耨多羅三藐三菩提)を、悟らす事が出来たのは、なぜでしょうか。

世尊よ。
この様に、大きな菩薩の集団では、例え、人を使って、千万億劫と言う、時を掛けて、数えたとしても、数え終わる事が出来ず、 その数(辺)を、知る事さえも、出来ません。

ここに居る我等は、遠い昔より今まで、数えられないほど、沢山の仏の所において、多くの善根を植えながら、 菩薩の道を極める為、常に、淫欲(賭博、飲酒、買春)を抑える梵行(ぼんぎょう)を修めているのです。

世尊よ。
この様な事が、世間の人々に信じられるとお思いですか。

譬えば、ある人が居たとして、その人は肌つやが美しく、しかも、髪が黒々として、歳は二十五才であったとしましょう。 そして、その人が、百歳になる人を指して、『これは我が子である』と言い。

また、その百歳の人が年少を指差し、『これは我が父です。我れらを生み育てた。』と言ったとしましょう。

この様な事を聞いて、これを信じるのは、難しいものです。そして、仏も、また、これと同じ事を、言われたのです。 仏が、悟りを開て(得道)から、今日まで、実際には、未だに、遠い日々が流れていません。

しかしながら、この様な大衆である沢山の菩薩らは、すでに、果てし無く遠い、千万億劫と言われた昔において、 仏道を求める為、仏の言葉を実践する事に努力を惜しまず(勤行精進)、良く、思いも及ばない百千万億の三昧を、

自由に、入ったり、出たり、留まったりしながら、大神通を得ると同時に、淫欲を断つ梵行を修めた。そして、 次第に沢山の善法(加持祈祷や占いなどの邪法に対する言葉)を習っているうちに、人と問答する事に勝れる様になり、

そして、人間界の宝として、すべての世間に認めれれる事は、滅多に、あるものでは、有りません。

今日まで世尊は、
確かに仏道を得られた時から、初めて心を起され(発心=菩提心=慈悲心)、教えをもって、 我らを善に変えさす為に自ら道を示され、そして、先導し(教化示導)、この上ない最高の悟り (阿耨多羅三藐三菩提)に向わせたと、我らに伝えたのでは有りませんか。

世尊よ。
世尊が成仏してより、未だ長い月日が流れて無いのに、世尊は、良くこの様に大きな功徳をもたらす仕事を 成し遂げました。

我れらは、また、仏が相手の力に応じて説く教え(随宜所説)、つまり、仏の口より出た言葉を、未だかつて 偽り(虚妄)でないと信じています。

また、我れらは、仏が知り尽くしたあらゆるものを、一つも残さずに理解したと思っているのです、 しかし、この大勢の新たに悟りを求める心を起こしたばかり(新発意)の菩薩が、 仏の滅後の世において、『法華経を布教するのだ』と言う事を、

もし、仏の口から、我らに語ったならば、素直に仏を信じて、教えを受け取らず、教え(法)に 背むいて、罪業の因縁(罪となる悪い行いや悪い考え)を起すでしょう。

我ら、ひたすら(唯然)乞い願うでしょう。
世尊よ、願わくは、我らの為に解説して、我れらが疑いを晴らして下さい。 また、未来世の多くの善男子がこの訳を聞き終えたなば、再び、疑いを持つ事は有りません。”

その時に、
弥勒菩薩は、再び、この意味を伝えようと思い、歌(偈;げ)を用いて判り易い様に述べたのです。

”仏、昔に釈迦族(釈種)の地より出家して、 伽耶(ガヤ)の町近くの菩提樹に座り成された。

そして、これより今日まで久しく時は過ぎずに、この様な沢山の仏子(菩薩)らが存在し、その者の数を 計る事は出来ないのである。

この者ら、遠い昔より、すでに仏道を修行して神通及び智力を身に付けて、良く、菩薩の道(六波羅蜜)を学び、 世間の法(四顛倒)に染まる事はなかった。 その姿は蓮花(れんげ)が流れる水面に咲くかの様である。

その者は地より湧き出しては、皆が恭敬の心を表しながら、世尊の前に留まる。この事、理解し難く、 どの様に信じたら良いのであろうか。

(仏の得道)仏が悟りを開いたのは、ごく、ごく最近の事であり、成し遂げた所(智慧)は非常に多い。 願わくは我らの疑いを取り除く為、この現実の姿が意味する所(如実)を判る様に説いて下さい。

譬えば、今年始めて二十五才なったばかりの若くて元気の良い人が、髪が白く、皮膚には皺(しわ) が現れていて百歳の老人かと思える子を指差して、

『これ、我が生んだ子(所生)である』と言い。子も、また『これ、父である』と語る。 青年の父に老人の子がいる事を、世のすべての者が信じないのと同じく、世尊も、また、 この様である。

悟り開いて(得道)から今日まで日は浅く、この様に沢山の菩薩らは志を高く持って、気弱で怯えている様子 無く、量る事の出来ない遠い昔(無量劫)より今まで、しかも菩薩の道を修行しては、難かしい問答を 巧みにこなすが、

その者の心には畏れる所が無く、忍辱の心をはっきりと決め、(端正)身なりは整って、礼儀正しく、 しかも威徳あって、十方の仏が賞賛される所であり、物事を良く理解した上で、これを説くのである。

この者は人の集団の中で暮らす事を願わず、常に禅定を好み、これを励んで仏道を求むる為、 この界の下にある空間の中に住む。

我れらは仏に従いながら、これを聞きいた事に何ら疑いは有りません。願わくは仏が未来の為に演説して、 道理を悟らして下さい(開解)。もし、この仏の言葉(経)を聞き、疑いを生じて、教えを信じられ無く なった者は、必ず悪道に堕ちるであろう。

願わくは、今、その為に解説して下さい。
この様に数え切れない菩薩を、どの様にして僅かな時間に、教えで以って善に変えさせ、悟りを求める心を 起させて(発心)、仏道を捨てて、再び、迷いの道に戻ることが無い不退の地に住まわせたのか。




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