南無妙法蓮華経
-----従 地 涌 出 品 偏-----

 

  私たちのHPでは、
  見に来てくれた人が、色々な知識を得られる様に工夫を凝らし、作成しているつもりです。
  もし、このHPを御覧頂いて、私たちの存在の意義が分かれば、仏教を悟る事も遠い話ではありませんよ。  
  

   担当:社会哲学3年 江森 美奈


参 照


見ずらいサイトで、
ごめんネ!(´ДÅ)ょゎょゎ

下記のホームページに全訳が掲載しています。




フリー百科事典
『ウィキペディア』
法華経


参考サイト







語句の説明
・グーグル辞書で調べる事が出来るようしてある。
・特殊な語句は分かる範囲で、説明する。
( ゚д゚)ノ ョロ!!


・如来の慧(えい)
慧とは三学(戒・定・慧)の一つである。
戒学→戒律事で、身・口・意(しんくい)の三悪(さんまく)を止め善に努める事
定学→心をしずめ雑念を払って精神統一する方法を学ぶ事
慧学→すべての事柄を正しく観察し、真実の姿を見極める事

・両足尊(りょうそくそん)
両足とは二本足で歩く生き物と言う意味。尊は尊ぶ者の意味。よって、両足尊はお釈迦様の事

・恒沙(こうしゃ)
恒河沙(ごうがしゃ)の略

・智
物事を決断する能力→十智

十一智
1.俗世智
因縁の名称と文字を知る智

2.法智
人間存在の五つの構成要素の根本の事実を知る智

3.類智
眼が恒常でないということから心と外界との接触により生じる判断が恒常でないということを知る智

4.苦智
苦難を知る智

5.集智
苦の発生する訳を知る智

6.滅智
苦の消滅を知る智

7.道智
八つの正しい道を知る智

8.他心智
他人の心を知る智

9.尽智
諸々の婬・恚・痴(三毒煩悩)は尽きると知る智

10.無生智
諸々の存在物の中に生じたものは無いと知る智

11.如実智
一切空なるがゆえに平等・無差別であることを知りながら現象の諸相の種別を見極める智

四智
1.大円鏡智
すべての真実の姿を明らかにする智

2.平等性智
自他が根本的に区別のない同一の存在であることを知る智

3.妙観察智
教え導く相手をよく知り、的確な説法を行う智

4.成所作智
相手の理解度に合わせながら修行内容を変えて行く智

・阿逸多(あいった)
弥勒菩薩の異名で、十六阿羅漢 の一人り阿氏多(あじた)の事

・信力
五障(ごしょ)を治すものとして五力があり、その中の一つとされている。
1.信力
仏を信じる事で迷信を除く事
2.精進力
心身から来る懈怠を除く事
3.念力
邪念(悪意)を除く事
4.定力
諸の乱想(妄想)を除く事
5.慧力
三界から誘惑を除く事

女人五障とは女の人が下記の身に成れ無い事を言う
1.梵天(ぼんてん)
2.帝釈(たいしやく)天
3.魔王
4.転輪聖王(じようおう)
5.仏身

何故ならば、修行を妨げる五礙があり
1.煩悩障
三毒 (貪・瞋・癡)からくる障り
2.業障
五逆罪や十悪による業からくる障り
3.生障
無難が悟りであると思う事からくる障り
4.法障
自分と同じ思いの人を求める事からくる障り
5.所知障
自分の知っている事だけが真実であると思う事からくる障り

よって、
悟り智慧を得るための五力を妨げる 欺き・怠り・瞋・恨み・怨みを持つからである


---編 集 録---

”投げ銭に祈りを込めん初詣 恋しい君に夢で出会わん”
元旦に、皆で出かけた明治神宮。人混みを掻き分けながら拝殿の前にある賽銭箱の所に着き、 小銭を探して投げ入れ、祈ろうとした時に、後ろから人に押されて祈る暇が無かった時に 読んだ歌。

今日は、皆さん
新年明けまして、おめでとう、ございます。今年も宜しく、おねがいしますね。

今年は成人式を迎える女の子が5人もいるので、クラブとして、どうするか話し合っています。 もし、良いアイデアがあったら、教えてね!。私としては記念に残る物(法華経)を送りたいと 思っています。では、前回の続きをどうぞ

鈴音;
「では、西洋哲学史から始めましょう。」
美奈;
「仏教なのに哲学とはね?」
鈴音;
「神教でなく仏教だから哲学なのですよ。
では始めます。紀元前700年頃、口頭によって伝えられていた古代ギリシア神話をギリシアの吟遊詩人 ホメロス によって叙事詩「イリオス」が編纂された。

この事により、ギリシア人たちは共有する知識を身に付けられる様になり、ギリシア神話の内容を誰もが 活発的に論議される様に成って行ったのです。

そして、ギリシア神話に書かれた神々や神々が創造した自然の営みなどを論議する様になり、 初めて合理的に物事を把握しょうとする自然哲学が誕生したのです。

紀元前6世紀頃、タレスによって 『万物の根源は水である』と言う事が提唱されたのです。しかし、アナクシマンドロスによって、 『土や火を作る素材も、水自身を作る素材も、共に水であるなんておかしい』と異義が唱えられた。

そして、アナクシマンドロスは 『万物の根源は、無限定な何(アペイロン)かだ』と提唱するが、やはり、弟子の アナクシメネスによって、『万物の根源は、空気(気息)が固まってできたのだ』と改められたのです。

でも、人々はこれら三人のミレトス派の哲学者の言葉など信じる者はいなかったのです。そこで、 紀元前550年頃、ピタゴラス が登場して『自然現象が一定の法則に支配され、法則は数式で表す事ができる。

よって、万物の根源は数である』と言う事が提唱したのですが、弟子の一人がピタゴラスの定理を使って、整数でも、 分数でもない「無理数」を発見した為、ピタゴラスの提唱はくつがえされた。

しかし、すべてが数によって支配されていると言う思想は二千年以上も、西欧の哲学 、思想に影響を与え続ける事に成ったのです。

そして、100年の間、哲学者は万物の根源に関して、明快な答えを出さなかったが紀元前500年頃、 哲学史においてヘラクレイトスと言う偉大な巨人が現れた。

ヘラクレイトスは『万物は変化し続けるもので、永遠に不変の存在はない。その変化はロゴス(法則)に よって導かれるものである。よって、万物の根源は永遠に変化する火である。』と提唱する事で神話の世界 が完全に消え去り、法則を見つけ出そうとする動きに変わったのです。

美奈ちゃん、如何ですか?。ヴェーダ時代の六師外道 から仏教が始まる時代に思想に似てないですか?。」
続く

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◆従 地 涌 出 品(じゅうじゆじゅつほん)

ここからは従地涌出品(じゅうじゆじゅつほん)です。
この場面は前の続きです。先では、浄土から来た菩薩たちがお釈迦様の入滅後、法華経の布教をする事を 申し出たのですが、お釈迦様から断られた。

その時に地から湧き出して姿を現した沢山の菩薩がお釈迦様の所にやって来て、沢山の菩薩の代表である 四大菩薩がお釈迦様に次の事を質問した。

1.どうして、悩まずに健康でいられるのか?
2.どうしたら、愚かな者に教えを理解させられるのか?
3.教えを布教するのに疲れ果て、嫌に成る事は無いのか?
などを
この様子を見ていた浄土の菩薩や弟子の弥勒菩薩たちが不思議に思い始めて、浄土の菩薩は自分たちの仏(分身諸仏)に「 なんだあの菩薩たちは?」と尋ねるが仏に「黙って見ていろ、今、来世において仏に成れるとお釈迦様から 約束られた弥勒菩薩がお釈迦様にその事を尋ねている所だ」と怒られる場面を描いている。

------続く

●翻 訳 二

その時に世尊は、
多くの菩薩いる大衆の中でこの様な言葉を述べられたのです。

”その通り、その通りである。多くの未来世に仏に成ろうとする者(善男子)よ。
如来(釈迦)は常に心が穏かである。故に病気になる事も、悩まされる事も少ない。

更に、多くの生ける物(衆生)たちを教え導いて悟りの世界に渡らせる事は容易いであり、 くたびれ果てる事はない。

なぜかと言うと、この多くの衆生は先祖代々より今まで、常に我が教えを受けていたのである。 また、過去の諸仏(自然界のあらゆるもの)に対して供養したり、厚くもてなしをしたりして、多くの 良き行い(善根)を種えて来たのである。

この多くの衆生、始めの内は我が身を眺めて、我が色々な話(所説)を聞き、そして、皆が素直に心から信じて (信受)教えを受けたのである。

また、以前より仏教を修め様として、自己の悟りを第一とする小乗仏教を学んだ者以外は、皆が如来のを理解して行く のであったけれど、この様な人にも、今また我れがこの経を聞かして仏慧を理解させる。”

その時に、
多くの大菩薩が、更に歌(偈;げ)を用いて判る様に述べた。

”素晴らしい(善哉)、素晴らしい(善哉)ことである。勇敢な世尊よ。
沢山の衆生らを教え導いて悟りの世界に渡される事は容易い事であろう。

良く、諸仏(自然界のあらゆるもの)が所有している意味深い智慧を尋ねられ、 これを聞き終えてからも、これらを信じて理解された。

我れらはこの事を聞いて、ありがたく思いながら喜びが湧いたのである。(随喜)”

時に、世尊は最上位のそれぞれの大菩薩を褒め称える様に述べられた。
”素晴らしい、素晴らしい。善男子よ。汝らは良く、如来のことを聞いて、共に喜び合う 随喜(ずいき)の心を起された。”

その時に、
弥勒菩薩及び八千恒河沙(こうがしゃ)の数に昇るそれぞれの菩薩たちは、皆がこの様な思いを抱いた。

「我れら、昔より今までにこの様な大菩薩や摩訶薩たちが地より湧き出し、世尊の前に留まり、手を合わせて 供養しながら 、如来に問いただされた姿を見る事も、聞いた事もない。」

時に、
弥勒菩薩摩訶薩は八千恒河沙の数に昇るそれぞれの菩薩たちの心にある思いを知り、また、自ら抱く疑問を 解決しょうとして、手を合わせながら仏に向かって、歌(偈;げ)を述べながら、明らかに問うた。

”千とも、万とも、億とも言われる途方も無い数の大集団の諸の菩薩たちを昔より未だかつて、見た事が有りません。 願わくは、両足尊(如来の別名)よ。 どうか教えて下さい。

この者たちは何処から来きて、どの様な訳(因縁)があって集まったのか。また、立派な体(巨身)を持ちながら、 勝れた眼力(大神通)を備え、その智慧は計り知れずに、意志はとても堅くて忍耐力(忍辱力)があり、 息をしているだけの者(衆生)から見てみたいと望まれるのはなぜなのでしょうか。?

沢山の菩薩が各々が沢山の配下の者たちを引き連れていて、その数は計る事が出来ないガンジス河の砂(恒河沙) と等しい数であった。或いは六万恒沙の数の配下の者を引き連れている大菩薩も居て、その菩薩の沢山の大衆が 一心に仏道を求め様としているのである。

この様に沢山の大師等が 六万恒河沙の数ほど集まり、共に仏の所に来て仏を供養し、この経を守る為に、教えを覚え様としたのである。

例えば、五万恒沙(こうしゃ)の弟子を引き連れる大師の数は、その数以上居たのである。
また、四万の弟子を持つ者から三万・二万〜一万の弟子を持つ者まで、または 一千一百の弟子や一恒沙の半分

及び、三・四分や億万分の一・千万那由他・万億の諸の弟子、そして、億の半分の諸の弟子を持つ者は更にそれ以上 の数いたのである。

弟子の数が百万から一万までの者や、弟子の数が一千及び一百・五十・一十人、或いは三人・二人・一人 或いは、弟子を取らず自分ひとりで孤独を望む者などを含め、仏の所に詣でる者の数は更に、更にそれ以上の 人数であった。

これらの大勢の大衆を、もし、名札(人籌)を使って数えたとしても、恒沙劫(10の56乗×500年)と言う時が 過ぎても、数え終わる事が出来ない。

これらの大威徳や精進を備えた沢山の菩薩たちは、誰かによって法を説かれ、教え導かれて仏道を成就されたのか。

つまり、誰に仕えて、初めて自らが最高の悟りを得ようと決心し(発心)、どの様な仏の教え(法)を褒め称え(称揚) 、どの仏の言葉(経典)を心に留めて忘れない様にと(受持)修行し、どの様な仏道を学び修めたのか。

これらの諸の菩薩は神通力と勝れた 智力(四智)を備えて、そして、 四方の地を振動させながら、それを裂いて中より涌出して来たのである。

世尊よ。
我れらは昔より未だかつて、この様な光景を見た事が有りません。願わくはその菩薩たちが仕えている(所従)国の名前 を教えて下さい。

我れら、常に様々な国に赴いて遊んでいたけれども、未だかつて、この様な光景を見た事が有りません。 また、我れらはこの大衆の中で、未だに一人も、顔見知りの者を見つける事が出来なかった上に、突然として地より 出で来たのです。

願わくはその訳(因縁)を教えて下さい。
今、この大会に臨んでいる無限の数の何千、何百億の沢山の菩薩らは、皆この事を知らないと思います。

この様な沢山の菩薩の群集が集まった一部始終(本末の因縁)が必ず有るはずです。無限の徳を備えた世尊よ。 ただ願わくはこの多くの者の疑いを晴らして下さい。”

その時に
釈迦牟尼仏と同じ悟りを開き異なる肉体を持った分身諸仏、つまり、無限の数である千万億の他方の国土より来られた者が八方の沢山の 菩提樹(宝樹)の下にある師子座の上に身を置いて足を組んで座禅(結跏趺坐)をなされたのです。

そして、その仏の側近くに仕える者(従者)たち、各々は三千大千世界の四方の地より湧き出して来られた菩薩の大集団が 何も無い空間(虚空)に留まっている姿を見ると、各々の仏に向かって素直に述べたのです。

”世尊よ。この様に計り知れず、また、数える事も出来ない数(無量無辺阿僧祇)の菩薩の大衆は 何処から来たのですか?。”

その時に、諸仏は各々の従者に告げられた。
”多くの善男子よ(菩薩への呼びかけ)。しばらくの間、(須臾)待つのです。

今、ここに菩薩・摩訶薩がいて、名を弥勒と言う。この菩薩は釈迦牟尼仏が未来に成仏する事を予言(授記) された菩薩なのです。よって、次の後の世で、必ず仏になるでしょう(作仏)。

それに、もうすでに地より湧き出た菩薩の事を仏に問われていて、仏は今、これに答え様と成されているのです。 汝らはこの事に因って、必ず、自分の耳で聞くことができるでしょう。”

その時に
釈迦牟尼仏は弥勒菩薩に告げられたのです。

”素晴らしい(善哉)、素晴らしい(善哉)、阿逸多(アイッタ)よ。
今良く、仏にこの様な大切な事を問う事が出来ました。汝らは、必ずや、共に一心に精進の鎧(よろい)をまとて、 強い意志を持ち、揺るぎ無い心(堅固)を起すであろう。

如来は今ここに、諸仏の智慧や、諸仏が持つあらゆるものをあるがままに見通す力(自在神通力)や、 ライオンが獲物と戦う様(師子奮迅) な諸仏の力や、大勢で戦う様に圧倒的な(威猛大勢)諸仏の力を見せ(顕発)ながら、 これを示して述べよう(宣示)と思う。”

その時に、世尊は再びこの意味を述べようと思い、歌(偈;げ)をもって分かる様に言った。
”必ず、努力を重ねて(精進)心を一にするのだ。我れ、この言葉を捧げようと思う。これを聞いて、 疑って(疑悔)はいけない。

仏智は不思議なものである。汝が今、信力を発揮して、常に精神統一(忍善)を行うならば、 昔より未だに聞いた事のない法を、確かに、聞く事が出来るのである。

我れは、今、汝を慰める(安慰)。疑って恐れ(疑懼)を懐かずに素直に聞け、 仏には嘘の言葉(不実の語)など有りはしない。更に、その智慧を他の教えと比較してはならない。

自ら得られる所の第一の法はとても奥が深くて理解しがたい教えである。この様な教えを、今、確かに解き明かす。 よって、汝らは一心に耳を傾けよ。”




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