私たちのHPでは、
見に来てくれた人が、色々な知識を得られる様に工夫を凝らし、作成しているつもりです。
もし、このHPを御覧頂いて、私たちの存在の意義が分かれば、仏教を悟る事も遠い話ではありませんよ。
担当:社会哲学3年 江森 美奈
見ずらいサイトで、
ごめんネ!(´ДÅ)ょゎょゎ
下記のホームページに全訳が掲載しています。
語句の説明
・グーグル辞書で調べる事が出来るようしてある。
・特殊な語句は分かる範囲で、説明する。
( ゚д゚)ノ ョロ!!
・勤加(ごんか)
競い合う
・況(いわ)んや・・をや
まして、なおさら。
・三千大千世界
仏教の宇宙論では、
人が住む世界(1須弥山世界)→須弥山+四大洲+九山八海
小千世界=1000×1須弥山世界、中千世界=1000×小千世界、大千世界=1000×中千世界
1仏国土=三千大千世界=3(過去・未来・現在)×大千世界
人間の住む仏国土は娑婆と言う名が付けられている
・四菩薩
大乗仏教の根本理念である常楽我浄(四顛倒)に対するものである。
・四顛倒(してんどう)
1.常(無辺行)
無常であるのに常と見て、
2.楽(安立行)
苦に満ちているのに楽と考え、
3.我(上行)
人間本位の自我は無我であるのに我があると考え、
4.浄(浄行)
不浄なものを浄らかだ
・善根(ぜんこん)
善とは→道徳的に正しい事。この反対が煩悩
根とは→人の根本的な性質や性格、または感覚器官の働き
よって、正しい事を認識する心や正しい行為の事
”イブの日に 降るも積もるも 雪は雪 舞い散る恋も 春に消え行く”
短歌は自分の心情だけを考えて詠み、俳句は聞き手の事を考えて詠むと聞いて、
クリスマスイブの事を俳句風に詠んで見たが、今一つです。
今日は、皆さん
お元気ですか、師走と言うのに100年に一度の不況を迎える事になりました。マンモス企業TOYOTAも
小さな巨人IBMも衰退し始め、世の中は暗闇に包まれリストラの嵐が吹き始めました。
当に、諸行無常です。こんな時は法華経を読むか、宝くじ
を買うかのどちらかでしょう。と言う事で、前回の続きをどうぞ
美奈;
「鈴音さん、仏教と哲学との関係とは?」
鈴音;
「まず、哲学とはどう言うものか、と言う事から始めましょう。」
美奈;
「哲学は難しいのでは有りませんか?」
鈴音;
「哲学を難しく考えれば難しいですが、やさしく考えればやさしいのです。一口に哲学と言っても、大きく分けて
西洋哲学と東洋哲学があります。
西洋哲学は紀元前5世紀の古代ギリシャから始まり、何かをテーマに選んで論理的に話を進めて生き、
結果を導き出す方法が取られた。最初はすべての物の始まりは何かと言う事で、結果として水である事
を結論づけた。
西洋哲学では物事を合理的に考えるあまり、助け合い精神が欠落する様になり、嫌われる様になったのですが、
新たに、倫理や科学や美術など様々な近代的学問が誕生し、古代宗教から生まれた占術・迷信などが排除される
切っ掛けを作ったのです。
一方、東洋哲学(インド哲学)は常にテーマが決まっていて業(ごう)
からの脱出を論じて、その実践方法を示す事が重要に成って来ました。
そして、ウパニシャッド哲学・ヨーガ・仏教・ヒンドゥー教などが生まれました。
要するに、西洋、東洋に関らず、哲学が生まれた背景は
ギリシャ神話
の様なあやふやな物語しか無く、人の誕生の訳や人生の意味や人の役割や人間個人の役割などに対する明確
な答えを見出せなかった。それで、その事を合理的に導きだそうとした動きが始まった思われています。
もちろん、神話も人の秩序面や文学面では役立っていましたが、根拠が不確かであり、間違った考えも
混在していた為、全ての事を解決する事が出来なかったのです。
では、西洋哲学史について簡単に述べていきましょう。」
ここからは従地涌出品(じゅうじゆじゅつほん)です。
この場面では、別の世界からやって来た弥勒菩薩とその弟子の八万恒河沙の菩薩たちがお釈迦様に、
お釈迦様が亡くなった後、法華経を布教する事を申し出るのだが、お釈迦様に断られる
場面が描かれている。
これは梵天勧請(ぼんてんかんじょう)
をまねた書き方して、アケメネス朝ペルシャ時代
に誕生した弥勒教(ミトラ教)の様な占星術や七曜(加持祈祷)
を借りて広めるのではなく、あくまでも仏法をもって広める事を意味している。
また、ミトラ教(ミスラ神)は多くの宗教の
基礎と成り、ユダヤ教・拝火教・バラモン教などを生む事に成った宗教で、元々はアーリア人の民族宗教です。
弥勒菩薩は救世主を求める弥勒信仰の事を表したものとされている。日本では終末思想と弥勒信仰が合わさって
一心に念仏「南無阿弥陀仏」と唱えただけで、浄土に生まれ変わるとする浄土信仰(浄土思想)が生まれた。
四菩薩については仏教の根本理念(諸行無常、諸法無我、一切皆苦、一切不浄)を表したもので般若経の常・楽・我・浄
に対するものである。それを理解するには有るがままの物を有るがままに見る如来の智慧が必要であり、
その智慧を得るには仏教を信じ、実践して得られた(以信代慧;いしんだいえ)仏の智慧が必要だと述べている。
------続く
その時に、
他の世界(国土)の色々な所から菩薩・摩訶薩(まかさつ)がやって来たのである。
その数はガンジス川流域の全部の砂を八つ合わせた数より多かった。
そして、大衆の中で真直ぐ立ち、手を合わせながら頭を下げて仏に包み隠さず述べた。
”世尊よ。
もし、我れらが仏が去った後、この娑婆世界に現れて、共に競い合いながら努力(精進;しょうじん)を重ね、
この経典を大切に守るでしょう。
そして、守る為にお経を唱えたり(読誦)、お経を書き写したりして供養する事を許して下されば
、必ずや、この世(土)において、多くの人にこの経典を教えて上げるでしょう。」
その時、仏は色々な菩薩・摩訶薩に告げられた。
”おやめ下さい、善男子よ。
汝らがこの経を守る必要は有りません。何故ならば、我が娑婆世界には、自らガンジス川の砂ほど数の六万倍の
菩薩・摩訶薩が居るのです。
更に、そのひとり、ひとりの菩薩に、それぞれ、ガンジス川の砂の数の六万倍に等しい家来が居る。
この多くの者達が我が入滅の後、これを守る為、この経を声を上げて読んだり、多くの人に
これを分かる様に話し聞かせるだろう。”
仏がこの様に話を聞かせた時、1仏国土である三千大千世界の中の娑婆世界では大地が皆、振動して裂けて
その中より、はかり知れない数の千とも、万とも、億とも言えないほどの菩薩・摩訶薩が地中から湧き出し(涌出)、
姿を現したのである。
この多くの菩薩たちは体中が金色に輝き、仏が持つ特徴の三十二相や智慧と慈悲を表す無限の光明があった。
以前より、このすべての菩薩たちは娑婆世界の下、つまり、この界のもの凄く小さな空間である虚空の中に
住み着いていたのである。
この沢山の菩薩たちは釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ;お釈迦様)が人に教えを説明している話し(所説)声を聞いて、
下より、出て来たのである。(発来)
各々の菩薩、皆、これらは大衆を教え導く導師であり、
また、それらはガンジス川の砂の六万倍の数の家来を引き連れる者。
また、言うに及ばず、ガンジス川の砂の数の五万倍・四万倍・三万倍・二万倍・一万倍の家来を引き連れる者。
更に、言うに及ばず、ガンジス川の砂の数の1倍・1/2倍・1/4倍から1/千・1/万・1/億・1/那由他まで及ぶ数の家来
を引き連れる者。
また、言うに及ばず、千・万・億・那由他の数の家来。
また、言うに及ばず億・万の数の家来。
また、言うに及ばず千万・百万から一万までの数の、また、まして一千・一百から一十までの数の。
また、言うに及ばず五・四・三・二・一の弟子を引き連れる者。
また、言うに及ばず自分ひとりで、人里から遠く離れて修行する事を願う者など、この様な仲間の者達が
ありとあらゆる所に、数限りなく(無量無辺)存在し、数の単位をもって数える事も、物に例え様としても
知り尽くす事が出来ないのである。
この沢山の菩薩が地より出終わり、それぞれが夢の様に物質が存在しない空間(虚空)にある七宝の美しい塔
の中の多宝如来と釈迦牟尼仏の所に詣で、到着すると
二世尊に向かって、額を二世尊の足にあてて礼拝すると共に、数々の宝樹(菩提樹)の下にある師子座(王者の位)
より上位にいる諸仏の所にも赴いて、皆が礼拝しょうとしたのです。
そして、右に三回ほど巡り、手を合わせて謹み敬うのである。また、多くの菩薩は色々な儀式(賛法)に則り、
諸仏の徳を褒め称えて当たり一面を覆いながら、喜こんで二世尊をあおぎ見るのであった。
この様な時が五十小劫と言う時
まで続いたのである。この間、釈迦牟尼仏は沈黙して座っていたのでした。
同じく、多くの四衆も、また沈黙して五十小劫が過ぎ去ったのであるが、しかし、仏の神力のお陰で
多くの大衆は半日の様に思われた。
その時に四衆は
仏の神力のお陰で、沢山の菩薩が限りない数の百千万億と言う国土に、しかも、何も無ない空間(虚空)
に充満する所を見る事が出来たのでる。
この菩薩達の中に四人の導師が居たのである。一人目は上行(じょうぎょう;
無我の意)と名乗り、
二人目は無辺行(ふへんぎょう;無常の意)
と名乗り、三人目は浄行(平等の意)
と名乗り、四人目は安立行(あんりつぎょう;
常苦の意)と名乗ったのである。
この四菩薩は人に教えを説いて
人を導く(唱導)人々の中でも、最も位の高い導師である。
そして、四菩薩は大衆の前に歩み出ると、各々は共に手を合わせながら、
釈迦牟尼仏を御覧に成て、問いただす(問訊)様に述べた。
”世尊よ。
病も少なく、悩みも少なく、安楽にお過ごしでしょうか。
涅槃に渡さなければならない者達(凡夫)は素直に教えを受け入れるでしょうか。
いくら世尊と言いっても、疲れた事が無かったのでしょうか”
その時に、
四大菩薩は、更に詩(偈;げ)をもって分る様に聞かせる為に述べた。
”世尊は心身ともに穏かで、心も満ち足りて(安楽)、病いや悩みも、僅かで居られるでしょうか。
息をしている者達(衆生)を教え導びかれるのに、疲れて嫌に成る事(疲倦)が生じる事が無いのでしょうか。
また、沢山の衆生が徳だけで、教え(化)を簡単に信じる事が出来るのでしょうか。
世尊と言えど、疲れ果てるのではないでしょうか。”
その時に、
世尊は沢山の菩薩(真理を求めて修行する者)たちが集まった中で、この様に言葉を述べられた。
”その通り、その通り。
多くの帰依し者(善男子)よ。如来(真理を見極めた者)は心身共に穏かであり、更に、心満ち足りている。
よって、病む事少なければ、悩む事少ないのである。
また、多くの息をしている者達(衆生)を教え導き悟りへ到達させる事(教化済度)は容易い事であり、
疲れて飽きることは無いのである。
なぜならば、
この多くの衆生は先祖代々(世世)から現世に至るまで、常に我が教えを受け継ぎ、過去の沢山の仏を
敬まいながら、花や線香や食事などを手向け(供養)、更に大切に扱って(尊重)、沢山の良い結果が得られる
正しい行いとその気持ち(善根)を
植えて来たのである。
この多くの衆生たちは、最初は我が姿を見るだけであったが、少しずつ我が人に話した話しを聞いているうちに
我を信じて教えを受け入れ、すべての真実を見分けられる如来の慧
を理解しょうとして、
始めから最後まで仏教を学ぶ者のうち、自己の悟りを第一とする小乗仏教を学ぶ者を除く者、この様な人も、
我が、今またこの経を聞かせて、自己の無智を悟らせ、条件次第で変わる自己の無常を見つめさせながら苦を滅して行く
仏慧(ぶって)を理解させる事を得させるのである。