南無妙法蓮華経
-----授学無学人記品偏----

 

  女の子のホームページだから、
  詰まらないものだと思わないで下さいね!。それなりに、訪れた皆様に役立つよう工夫がされているのです。
  それは”空”の悟り、その事が堪能出来たら、幸いだと思います。
 
  

   担当:現代文化学科2年 仲本 優奈


参 照


見ずらいサイトで、
ごめんネ!(´ДÅ)ょゎょゎ

下記のホームページに全訳が掲載しています。


妙法蓮華経

フリー百科事典
『ウィキペディア』
法華経


参考サイト







語句の説明
・グーグル辞書で調べる事が出来るようしてある。
・特殊な語句は分かる範囲で、説明する。
( ゚д゚)ノ ョロ!!


・ましまして
まし;いる。まして;丁寧の助動詞、つまり、いらしゃられる。

・分
自分が授かる利益

・学無学(がく・むがく)
学は有学の事で、未だに煩悩が断ち切れない四向四果/無学は煩悩を断ち切って学ぶ物が無い阿羅漢

・知しめして
知し見すと言う事で、見て知っている

・山海慧自在通王如来
山とは
煩惱で有る故に苦しみを味わって菩提を悟る事より

海とは
生まれて死ぬ事が心が穏やかな涅槃になる事より

慧とは
真実の言葉と言う事より

自在とは
心が欲などに捕らわれない事より

通王とは
十界互具・百界千如・一念三千と言う事

十界×十界=百界(十界互具
百界×十如是=千如是(百界千如)
千如是×三世間一念三千


---編 集 録---

”乳ゆらし声はずませる乙女あり、桜も愛でず、歌も詠わず。”
水ゆるむ卯月を迎えるのに、花を愛でる宴を催し、足を運ぶ事になりましたが、夏先輩は相も変わらず、 男子に夢中なり桜の花を愛で、春の香りを味わう事などは有りませんでした。

こんにちは皆さん。
お元気ですか?。だぶん元気ですね!さて、たまたま昨晩NHKを見ていたら、太田光氏は「創造力」について 熱く語っていました。相変わらずの暴論ですが、どうやら京大には驚愕する正等 と思われる理論を持つ人を受け入れる覚悟があるかと言う事です。

そして、金星には動いているから生きているとソクラテス と同じ事を言って掻き回すが明確な結論は出なかったのです。仕方が有りません。元々、人には創造力が無いのです。 その事はお釈迦様によって証明されているのです。では、前回の話の続きをどうぞ

仲本優奈;
「ところで、鈴音さん、西方浄土って何処にあるの?」
山本夏;
「ユナ、有る訳無いだろう!」
鈴音;
「それが不思議に有るのです。嘘ではありません」
仲本優奈;
「何処にですか?」
鈴音;
「イランです。インダス文明の発祥地で天使・悪魔を生んだゾロアスター教が生まれたアーリア人の国です。 では、話しを元に戻します。

メソポタミアは紀元前16世紀に、古代バビロニアはヒッタイト帝国に 滅ぼされる。ヒッタイトは南ロシア(ステップル地方)から東ヨーロッパにかけて住んでいた印欧語族(白人の祖)の一種; アーリア人が現トルコのボアズカレに造った国です。

彼らは馬や戦車などを使って、圧倒的な強さを誇っていたのです。また、はじめて製鉄方法を発見した民族 としても知られています。

そして、ヒッタイトは地母信仰を掲げながら バビロニア・ミタンニ(フルリ人)・エジプトと戦いを繰り広げ ヒッタイト帝国を築き上げて行くが、エジプトとはカディシュの戦い 以降、平和条約を結ぶ。

ここで興味深いのがミタンニのフルリ人です。 フルリ人が仰ぐ神々の中にインドラ神がいて、人名・神名・馬術用語や社会用語には明らかに サンスクリット に近い単語が使われていたのです。」

----続く。

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◆授学無学人記品(じゅがくむがくきひん)

この授学無学人記では、
阿難や羅喉羅に記授ける場面を描きながら、人の話を良く聞く事や感心する事 及び愚痴を溢す事無く、一つの事をやり続ける事の大切さを説いている。また、同時に理由を述べている。

この場面で重要なのはすべての人に対して善智識である事である。それにはどんなものでも、大切にする心を 持つことであり、その存在意義を認めることである。

------続く

●翻 訳 一

その時に、阿難(あなん)羅喉羅(らごら)たちは 更に、この思いを懐いたのである。 ”もし、授記を得たならば、必ず心が晴れるに違いない事”を我らは、常に考え続けて来たのである。

そして、座よりを立って、仏の前に歩み寄り、仏の足に額を当てて礼拝し、一緒になって仏に向かって 明らかに述べたのです。

”世尊よ、我らはここに居て、また我らが授かる分の記があるはずでは有りませんか。唯一、如来だけがこの世に在られて、 我らが帰依する所であるからです。

また、我らはすでに一切の世間の天や人及び阿修羅(あしゅら)から、 善知識として認められているのです。

更に、阿難は仏の近くにお仕えしながらも、常に雑用を務めて、法蔵を大切に守り続けて来ました。また、羅喉羅は仏の実の子であるのです。

もし、仏から阿耨多羅三藐三菩提の記を授けられば、我らの願いはすっかり叶えられて、衆の望みを満足させられる事が出来るのです。

その時に、・無学(阿羅漢)の 声聞の弟子、二千人は皆が座より立って、 ひたすらに右の肩を顕にしながら、仏の前に歩み寄り、一心に合掌しては世尊を見上げて、 阿難や羅睺羅(らごら)たちが当初、願った時の様に、そこら一面に立ち尽くしたのです。

その時に、仏は阿難に告げられたのです。
”汝は来世において、必ずや仏に成って、名を山海慧自在通王如来(さんかいえじざいつうおう) ・応供・正遍知・明行足・善逝・世間解・無上士・調御丈夫・天人師・仏・世尊と名乗るだろう。

必ずや六十二億の諸仏を供養して法蔵を大切に守り続けた。後に、阿耨多羅三藐三菩提を得て、 二十千万億と言うガンジス河の砂ほどの数の諸の菩薩らを教え導き、阿耨多羅三藐三菩提を達成させる。

そして、国を常立勝幡(じょうりつしょうばん)と名ける。 その土は清らかで瑕一つ無い瑠璃を地と成して、劫(時代)を妙音遍満(みょうおんへんまん;不思議な声が満ち溢れる)となずける。

その仏の寿命は量る事の出来ない千・万・億・阿僧祇(10^56)と言う劫(時)である。もし、人が千・万・億・無量の 阿僧祇と言う劫の中において、たの教えと見比べてながら、良し悪しを推し量ろうとしても、その事を知る事は出来ない。

釈迦の正しい教えが伝わる正法が世にある事は寿命の2倍であり、 形式だけが伝えられる像法が世にある事は更に正法の2倍である。

阿難よ、
この山海慧自在通王仏は、十方の数えられない千・万・億・恒河沙とうの諸仏の如来と、共に、その功徳を 誉めながら、感心しているうちに自分の名前を名乗る事が出来る様に成ったのです。”

その時に、世尊はこの意味を伝えようとして、偈(歌)をもって分かるように述べたのです。
”我は今、ここにある僧たちの中において説こう。しかりと教えを守り続けた者、阿難よ。

諸仏を供養し終えた、その後に正覚(如来の実智で、一切諸法の悟り)を必ず成就するであろう。 その時、名を山海慧自在通王仏と名乗るのである。

その国土は清浄であって、名を常立勝幡となずける。 諸の菩薩を教え導き、その数はガンジスの砂の数ほどになる。

仏は大威徳を現して、名が響き渡る事は十方に満ち、寿命は尽きる事がない。 衆生を哀れんでは、正法は仏の寿命の倍あって、更に像法はこの倍あるを示す。

更に、ガンジス河の砂の如き無数の諸の衆生をこの仏法の中において、 仏道(煩悩を除く修行;八正道、六波羅密)の因縁の種を植える。”

その時に、集会の中で新たな悟りに向かう心を起こした新発意の菩薩、八千人は一人残す事無く、この思いを懐いたのです。

”我らは依然として、諸の大菩薩が世尊から記を授られた様に、記を得られた事を聞いてない。 何の因縁(理由)あって、諸の声聞はこの様な定めを得たのであろうか。”

その時に、世尊は諸の菩薩の心の中にある思いを 知り、この者たちを見ながら、告げるように言ったのです。

”諸の善男子よ、我は阿難らと共に空王仏の所に於て、 同時に阿耨多羅三藐三菩提の心を起こしたのである。阿難は常に正しい教えを多く聞いて心に留める事を願い、 我は常に仏前で礼拝・読経の勤めに精進したのである。

それ故、我はすでに阿耨多羅三藐三菩提を得ることを成し遂げたのである。それで阿難は我が法を大切に守り、 また、将来の諸仏の法蔵を守って、 諸の菩薩たちを教え導いて阿耨多羅三藐三菩提を成就させる。

そして、その本願はこの様にして叶えられ、この記を獲たのだ。阿難は直接、仏前において、 自ら授記や国土(心身)を功徳で美しく飾る事(荘厳)を聞き、願ったものを得る事ができたのである。

心に大いなる喜びが沸き起こり、未だ感じる事がない思いを得て、即刻、過去の限りない数の千・万・億 と言う諸仏の法蔵を深く考えて見た所、すべての物事に深く通じる事が自由自在であるのは 今、聞いた通りである。また、本の願いを認識するのである。”

その時に、阿難は偈(歌)を用いて分かり易く述べた。
”世尊は甚だ、珍しい人です。我を使って、過去の無数の種類の諸仏(無種の諸仏)の法を 考えさせたのは今日、聞いたところの様な訳である。

無種の諸仏とは
ここで言う諸仏とはすべての物質の事を意味する。たとえば、アオカビからペニシリンが出来たように、普段では 嫌われているカビでも、その存在の特徴に気付く事により、研究されて人を救う薬に化ける事よりすべての物質を無種の諸仏とした。 そして、法とはそれらの物質が存在する理由や身に付けた性質である。

我は今、再び疑念を懐く事が無くなり、仏道に安心して身を置く事が出来る。 そして、方便として、仏の世話をする侍者に成って、諸仏の法を大切に守り続けましょう。”




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