私たちの活動の意義は
どんなに詰まらない事と思われても、遣り通す事が自らが生きている証であり、幸せになる事に成ると信じたからです。
ですから、このhpから皆さんに、届けられたら幸いです。
担当:社会哲学科3年 蒼井沙羅(サラ)
見ずらいサイトで、
ごめんネ!(´ДÅ)ょゎょゎ
下記のホームページに全訳が掲載しています。
語句の説明
・グーグル辞書で調べる事が出来るようしてある。
・特殊な語句は分かる範囲で、説明する。
( ゚д゚)ノ ョロ!!
・勤力求索(つとめぐしゃ)
努力しながら探し求める事
・咄哉(つたなや)
「おい、、、」と言う呼びかけ
・ならしめん
---なら;である。---しめん;しめすの推量で、教える
・所須
必要とするものの意味で、須は必ず----しなければならないと言う意味がある
・乏短(ぼうたん)
無智で、気が変わりやすい事
・阿羅漢道(あらかんどう)
阿羅漢とは小乗の悟を極めた者で、何を見ても、聞いても欲を起こさない様にする方法を
阿羅漢道(八正道)と言う
・資生艱難(ししょうこんなん)
生まれ持った才能に恵まれていない事、つまり貧乏で愚か者の事
・今者世尊(いませいそん)
濁悪(じょくあく)の世で、最も徳を得た聖人
・苦切(ねんごろ)
心のこもっているさま
・無上の願
人を良く見て、その人の長所を伸ばしながらすべての人を救う願い
・受記荘厳
すばらしいく比いない受記
”メル恋に心弾みて桜坂、ケイタ見ては桜散りぬる。”
春めいて、桜の蕾みもほころび、散歩に出かける。今日は春分の良き日かなと思っている所に
メールが届きて、私は思ったのです。この前、国立国会図書館で出合った彼からメールかなと?
そして、携帯を見たら夏からの暇メールでした。
今日は、皆さん
お元気ですか?。徐々に、ストーブからの距離も、長く成りましたね。?私たちは入学式に行なわれる新入生の
為のクラブ説明会の準備に忙しくしています。そう言う訳で、今宵はここまでにしとう御座います。
では、話の続きをどうぞ!。
山本夏;
「鈴音さん、なんで人には宗教が必要なの?。」
鈴音;
「今まで見て来た歴史から考えると、人は自然の力の前ではどうする事も出来なかったのです。そこで、
自然と共に生きる事を思い付き、人格化したのが神で、神に対する禁止行為や理由を教えとして、
後世に伝える為に宗教が生まれたと思います。」
山本夏;
「なるほどネ、ところで都市国家バビロンは聖書に出てこないでしたか?」
鈴音;
「はい、バベル塔がそうです。シュメールのウル第3王朝が飢饉により混乱している時
イラン高原に住んでいたエラム人やシリアのビシュリ山脈で遊牧を営んでいたアムル人(セム系)によって滅亡した後、アムル人がメソポタミアに
定住してラルサ王朝を創る。
よって、ウル第3王朝の後継であるイシン第一王朝と並立するイシン・ラルサ期を迎える。やがて紀元前19世紀に
新たなアムル人のスム・アブムによりバビロンを首都としてバビロン第一王朝が築かれて、
古代メソポタミアはイシン・ラルサ・バビロンにより戦国時代を迎える。
紀元前19世紀に6代ハムラビ王によって全バビロニアを統一され、BC1750年に「ハムラビ法典」を発布し、
紀元前16世紀ヒッタイトのムルシリ1世の襲撃を受けて滅亡するまで、同州政から中央集権国家の組織作りを確立した。
ちなみに、旧約聖書のヘブライ人(ユダヤ)とは
紀元前30年頃に、バビロニヤ南部に定住していたカルデヤ人で、紀元前10年頃
カルデヤのウル(現在のイラク)から、
カナンの地(現在のパレスチナ・イスラエル)にユーフラテス川を越えて移住したアブラハム一族と、
その子孫である人々の事です。」
----続く。
ここから五百弟子受記を送りします。
この場面は。富楼那(ふるな)が授記された様子を見て、自分たちも授記されたいと思っていた二千人の弟子たち
の気持ちを汲んで、お釈迦様が最初に五百人の阿羅漢に受記する様子を描いたものです。
この中で、重要な事は自分の内にある煩悩を除いただけでは滅度する事は出来ない。自ら娑婆に出て煩悩に
苦しんでいる人を助けなければ、真に滅度と言えない。
つまり、仏教では因は縁から起きる事から、自分が努力して身を清くしてもダメであで、
回りの人も一緒に清くしなければならないことである。
------終わり
その時に、五百人の阿羅漢(あらかん)たちは仏の前において、
仏となる確約である受記を授かったのである。
それを得終えた時、皆が急に喜びに湧き立ち、そして、座より立って仏の前に歩み寄ると、額を仏の足に付けて
拝礼しながら、自らの過(とが)を悔いては自らを責めたのである。
”世尊、我らは、常にこの様な思いを懐きながら、”自分はすでに究極の滅度を得ている”と言っていたのです。
しかし、今になって、無智の者である事を知ったのです。
我らが如来の智慧を得にはどうすれば良いのだろうか。?更に、
自からの愚かな智慧では悟るに足りない事をです。
世尊よ。譬えば、ある人いて、その者は親友の家に行き、酒に酔って寝込んでしまった。
その時に、親友は役所の仕事に出掛けなければならなかったのである。
その友は値段の付け様のない高価な宝珠をその者の衣の裏に結び付けて、これを与えて出掛けたのです。
その者は酔い潰れていたので、それら、すべての事を気ずく事はなかったのです。
その者は目が覚めて、起き上がると何処とも無く歩きながら、他国に至ったのです。
衣食を得る為に、仕事を努力して探し求めたのであるが、なかなか仕事が見つからずに艱難を極めたのです。
仮に、少しでも働ける所を得たとしても、満足出来る所で無かったのです。
後に、親友はこの者に出会って、この者をもてなしながら、この者の姿を伺い見たのです。
そして、この様に言ったのです。
「おぃ、大丈夫か。?如何して、その様な格好をしているのだ。
我は昔、汝に心を安らかにして、楽しい暮らしの日々を得させ様と思い。
汝、自らの五欲(色、声、香、味、触)にまかせて、思い通りにしても良い事を教えようとして、
汝が年月日(生涯)を掛けても、稼げない額の宝珠を汝の衣の裏に結び付けて置いたのだが、
それなのに、汝はその事を知らず。
今もって、この様なみすぼらしい姿のままであり、苦労しては憂いて悩みながら、
日々の生活を営む事を求め歩く事は、ただただ、愚か者である。
今すぐに、汝はこの宝をもって、必要な財と交換するのだ。そして、常に
気まぐれで、何も考えずに、すぐ物と交換する事をするな。」と言った様に、
仏も、また同じ様で有りました。
仏がまだ菩薩であった時、我らを教え導いって、あらゆる事に目を向けさせる一切智の心を
起こさせて下さったのですが、仏が今、述べたに関らずに、その事をすぐに尋ねては
忘れ去ってしまい、その事を知ろともせず、また覚る事も無かったのです。
すでに、阿羅漢道(八正道)を得ただけで、自らが煩悩を滅して悟りの世界(涅槃)へ渡ったのだと思っていたのです。
貧しくて愚か者である為に、僅かなものを得ても満足する事がないのです。
一切智によって諸法を演説すると言う一切智の願
が未だに心の中にあって、消す事が出来ないのです。濁悪の世に生まれた世尊は我らとうを悟り開かせようとして、
この様に言葉を述べられたのです。
”諸の比丘よ、汝らが得たる所は究極の滅ではない。我はしばらくの間、汝らの身に仏の善根を
種え付けただけの事であるけれども、方便をもって仮の滅である涅槃を示したのであるが、
それなのに、汝たちはこの事を真の滅度を得たと勘違いしたのだ。”
世尊よ、我は今、知ったのです。実際はこれが菩薩であり、更に阿耨多羅三藐三菩提(あのくだらさんみゃくさんぼだい)の記
を授けられていた事をです。この因縁をもって、今までにあじわった事のない、大なる喜びを得たのです。
その時に、阿若(あにゃ;よく了解した)・憍陳如(きょうちんにょ)とうは再び、この意味を伝えようと思って、
偈(歌)をもって分かる様に述べたのです。
”我らはこの上ない安穏な授記の声を聞く事が出来て、今までに味わう事のない喜びを得たと無量智の仏を礼拝して崇めながら、
今、世尊の前において自からの諸の過ちを悔いる。
数える事の出来ない仏宝であるのに、わずかながら涅槃の分を得ては、無智の愚人の様に自から足りないとこぼす。
譬えば、貧困の人が親友の家に遊びに行く、その家は大に富んでいる故に、おかずに様々な珍しい料理を出し、
価値の付かない宝珠を着物の裏に縫い付ける。
沈黙してこれを与えてはこの場を捨て去りる。時に貧困の人、泥酔して寝入りてこの事を覚知せず。
すでに、この人目覚めて起き上がり遊行して他国に詣り、衣食を求めて自ら済ます。
才能は甚だ乏しく、少しのものを得ては足りずを口にするが、更に好き者と成る事を願わず。
内衣(下着)の裏に高価な宝珠あることを覚らず。珠を与えし親友は後にこの貧人に会う。
この貧人を見ては心を込めて丁寧に、この者の愚かさを説き終えて、結びつけた珠を教える。
貧人はこの珠を見て、その心に大いなる喜びが湧き上がる。
世は豊かで諸の財物に満ち溢れ、更に、五欲を自らも欲しいままにしている通り、
また、我らも、この様な者であったのです。
世尊は常に、煩悩の身である我らを哀れんで教え導きなされながら、無上の願の種を植えられたのです。
我らは無智である故に、これを覚らず、また知らずにおりて、
わずかならも、涅槃を悟り得ては自ら足りずと愚痴をこぼし、余の法を求めず。
今、仏は我を覚悟するために、これは実の滅度で非ず、仏の無上慧(実践智)を得て、
初めて真の滅である事を告げる。
我は今まで仏に仕えながら、すばらしく比いない授記を弟子たちに授けた事
や次から次へと弟子たちに授決(授記)された事を拝聴しながらも、身心は遍く、喜びに満ち溢れた。」