このホームページは、
混迷の時代に、「どの様な人生を過したら良いか?」を考える機会を与えられる為、
作成したものです。これを読んで読者の皆さんのお役に立てられれば幸いです。
担当:社会倫理学科3年 里美 あかね
見ずらいサイトで、
ごめんネ!(´ДÅ)ょゎょゎ
下記のホームページに全訳が掲載しています。
語句の説明
・グーグル辞書で調べる事が出来るようしてある。
・特殊な語句は分かる範囲で、説明する。
( ゚д゚)ノ ョロ!!
・多陀阿伽度(ただあかど)
如来(タッターガタ)の事で、真理を身を持って教え、示す者と言う意味
・阿羅訶(あらか)
阿羅漢(アラハト)の事で、供養を受けるに値する者と言う意味
・三藐三仏陀(さんみやくさんぶっだ)
正等覚(サムャクサン)・仏陀(ブッダ)で正しい悟り(真理)を得た者と言う意味
・現一切世間(げんいっさいせけん)
太陽の光ですべての物が照らし出させる世界と言う意味
・喜見(きけん)
喜んですべての物が見られる事と言う意味
・鉢多羅(はったら)
仏道修行者の食器(持鉢)の事→三衣一鉢
・因縁(いんえん)
因→原因;縁→間接な原因(条件)
・得度(とくど)
出家して僧侶に成る事
・無生法忍(むしょうほうにん)
無生の法理を認知する事で、因縁によって存在する物に対して執着心を起し、自分の所有物であると思わない事、
つまり、あらゆる物の存在や意義は他の存在無くしては存在しない。→不生不滅
今日は、皆さん
お元気でしょうか?。今日から二月ですね。「二月」と言って皆さんは何を思い起こすのでしょうか。?
大人の人は確定申告、受験生は「受験シーズン」ですよね。どちらにしても、二月は嫌な季節ですね。
でも、中にはバレンタインに胸を膨らませる人も居るのでしょうか。?
私たちには、頭の痛い話しです。まぁ〜、ともかく二月は何とかやり過ごさなければなりませんね。では、前回の
話の続きをどうぞ。
美紀; | |
「劉邦は高祖と成った後、異姓諸侯王が次々と粛清したのか?」 | |
鈴音; | |
「考えられる理由としては、中央集権の基盤作りの為に地方の異姓諸侯王の勢力を抑える必要が有った。
この為に異姓(劉氏以外)の王を劉氏一族の王に代える方策を取ったのではないかと思われています。 また、その方法とは密偵に皇帝暗殺、武装反乱、国外逃亡などの謀反(むほん)を企てとして密告させ、それを言い掛かりに 処罰したのです。そして、「劉氏にあらずんば王たるをえず」と言われる様に成ったのです。 日本でも、同じ様に「平家でなければ、人に非ず」と言う諺があります。また、徳川幕府が譜代と外様に 大名を分けて参勤交代を行ったのも、この故事からだと聞いています。 では、話を中国史に戻しましょう。 紀元前195に劉邦が崩御すると、周昌・張良らによって皇太子の座を守られた 劉盈が恵帝に即位し、呂雉が皇太后となったのです。 呂雉は恵帝の後見人として、自らの地位をより強固なものにするため、張敖と 魯元公主の娘、張氏 を恵帝の嫁がせて皇后としたのです。 更に、前195年の冬に呂雉は皇太子争いを引き起こした劉如意を長安に入朝させて毒殺し、 次いで生母の戚氏を「人豚」と称してなぶり殺しにしたのです。 この事を知った恵帝は悲しみのあまり、酒色にふけり、政権を投げ出してしまた。それでも、呂雉の横暴は止む事は無く、 紀元前193年に曹氏を生母とした劉肥を 長安に入朝させてると、恵帝が開いた宴席で呂雉の不興を買い、毒入りの酒を飲まされそうになったのです。 しかし、恵帝のとっさの機転で難を逃れた。その後、劉肥は城陽郡を呂雉の娘・魯元公主の化粧領に差し上げたい と願い出て、呂雉の歓心を買うことでようやく難を逃れる事が出来たのです。 また、この年には相国の蕭何が亡くなり、曹参が相国に成った。しかし、呂雉の専制下では何も出来ず、 酒に溺れて紀元前190年に没し、その後を受けて 王陵が相国に成った。 紀元前189年には劉肥が没し、翌年の紀元前188年に恵帝も崩御すると、呂雉は身の不安を感じて王陵に「呂一族を王にしてはどうか?」と相談するが、 反対された。次に陳平・周勃に相談すると 「呂台、呂産、呂禄ら呂氏に南北軍の軍権を持たせてはどうか」と進言し、呂雉を喜ばせた。 そして、呂雉は少帝恭を即位させる為、 少帝恭の生母である女官を毒殺し、張皇后の子と公表して帝位に就かせると、紀元前187年に王陵から宰相の実権を奪い、 太傅(たいふ)に任じた。 更に、恵帝の子らの劉彊を淮陽王とし、劉不疑を常山王とし、劉山を襄城侯とし、劉朝を軹侯とし、劉武を壷関侯としてから大臣を選び、 右丞相を陳平に、左丞相を審食其にした。 また、呂雉は呂産を汶侯に任命すると、その父の呂沢を悼武王と追尊する。 次いで大臣に呂台を王に封じるよう進言させて呂台を呂王に封じた後、呂禄 を胡陵侯に封じた。 紀元前184年、少帝恭が成人して自分の生い立ちを知ると呂雉を恨む様に成り、その事を知った呂雉によって 幽閉されて殺害された。 次に、呂雉は常山王に封じていた恵帝の遺児、少帝弘 を即位させると、その代わりに劉朝を常山王に封じた。また、この年に淮陽王の劉彊が死去した為、弟の劉武を淮陽王に封じる。 紀元前182年呂王呂台の後を継いだ呂嘉が廃位されると、代わって呂産が呂王に立てた。 翌年の紀元前181年には、趙王の劉友を幽閉して餓死させると、兄の梁王劉恢を趙に移して 呂産を梁王にした。 しかし、劉恢は趙王に成らずに太傅と成ると、呂雉は呂産の娘を后にさせて劉恢が寵愛する側室を毒殺させると、 世を儚んだ劉恢は半年後に服毒自殺した。 その後、呂産の代わりに劉太を呂王に即位させ、劉決を琅邪王(山東省)に任ずると、梁→呂、呂→済川に 改めさせた。また、趙王を劉恒 に命じたが、これを辞退した為に呂禄を趙王とする。更に、燕王の劉建が亡くなると、劉建の庶子を殺して 呂通を燕王にした。 紀元前180年に皇太后の呂雉が死去すると、呂氏は帝位簒奪を企てる為に相国の審食其を少帝弘の太傅にさせて 呂産を相国とした。 これを知ると、劉章は兄の斉王劉襄に 反乱を起す様に促し、陳平、周勃、灌嬰らと共に長安でクーデターを起こして呂氏一門を尽く誅殺し、少帝弘を 夏侯嬰が少府に監禁したのです。」 |
ここからは妙音菩薩品(みょうおんぼさつ)です。
その時に、釈迦牟尼仏は多宝仏に話し掛けられた。
この場面では、華徳菩薩がお釈迦様にどう言う修行したら妙音菩薩の様な神通力が身に付く事が出来るのかを
尋ねている所から描かれている。
具体的には
妙音菩薩が神通力を得られたのは、かつて雲雷音王仏のもとで伎楽をもって仏を供養し、更に宝の鉢
(托鉢の事)を献上した因縁により、
次ぎの様な果報が得られた。
それは浄華宿王智仏にめぐり会えて、現一切色身三昧の神力が得られた事である。
また、妙音菩薩の話を聞いた神々は無生法忍を得、華徳菩薩は法華三昧を得た。
ちなみに仏教で瞑想の事を止観(しかん)と言う
・止(禅定)→サマーディ(三昧)の事でサマタ瞑想・慈悲の瞑想とも言い、
座禅組みながらある事に心を集中させて雑念を取り払う事
・観(智慧)→ヴィパッサナー瞑想の事で、不動の心が智慧のはたらきとなって、
事物を真理に即して正しく観察する事
●翻 訳 二
”この妙音菩薩があなたの姿を拝見したいと願っております。”
そして、多宝仏は妙音に答えて言った。
”素晴らしい(善哉)、素晴らしい(善哉)。汝は、良く釈迦牟尼仏を供養して法華経の教えを聞いた。
また、良くぞ、文殊師利らに会う為にここにやって来られた。”
その時に、華徳菩薩は仏に明らかに述べた。
”世尊よ。この妙音菩薩は、どの様な善根(果報をもたらす行為)を種え、どの様な功徳(自らの果報を他の者にも分け与える行為)を修めて、
この様な神力を身に付けたのか。”
そして、仏は華徳菩薩に次ぎの様に告げた。
”過去に一人の仏がいた。名を雲雷音王(うんらいおんのう))・多陀阿伽度(ただあかど)・阿羅訶(あらか)
・三藐三仏陀(さんみやくさんぶっだ)と言い。
その国を現一切世間(げんいっさいせけん)と名付け、時代(劫)を喜見(きけん)と名付けた。
そして、妙音菩薩は一万二千年もの永い年月、十万種の伎楽をもって雲雷音王仏に供養し、
更に八万四千の七宝の鉢多羅(はったら=)を献上した。
そして、この因縁の果報をもって、
今は浄華宿王智仏の国に生まれて、この様な神力を身に付けたのである。
華徳よ。
汝はどう思うのか。その時の雲雷音王仏の所で、妙音菩薩と名乗りながら伎楽をもって仏を供養し、更に宝器を仏に献上した者をである。
その者は他でもない、今の妙音菩薩摩訶薩である。
華徳よ。
この妙音菩薩は、すでに過去において数え切れない仏たちを供養し、仏に仕えて永らく徳本(善根)を植え、
またガンジス河の砂と等しい数、百千万億那由他(なゆた)と言う沢山の仏に出会っていたのである。
華徳よ。
汝は、ただ妙音菩薩を見て、その身体一つだけがここに有ると思うのであろう。しかし、この菩薩はあらゆる種類の生き物
の姿に身を変えて、あらゆる所に住む多くの衆生の為にこの経典を説くのである。
ある時は梵王(ブラフマ)の姿と成って現れ、
またある時は帝釈(インドラ神)の姿と成って現れ、
またある時は自在天(シヴァ神の別名)の姿と成って現れ、またある時は大自在天(シヴァ神)の姿と成って現れ
、またある時は天の大将軍(四天王)の姿と成って現れ、
またある時は毘沙門天王(多聞天)の姿と成って現れ、
またある時は転輪聖王の姿と成って現れ、
またある時は様々な小国の王の姿と成って現れ、またある時は長者の姿と成って現れ、またある時は居士の姿と成って現れ、
またある時は上官の身となり、またある時は婆羅門(バラモン)の身となり、またある時は比丘・比丘尼
・優婆塞・優婆夷(四衆)の姿と成って現れ、
またある時は長者・居士の婦女の姿と成って現れ、またある時は上官の婦女の姿と成って現れ、またある時は婆羅門の婦女の姿と成って現れ、
またある時は童男(少年)・童女(少女)の姿と成って現れ、
またある時は天・竜・夜叉・乾闥婆・阿修羅・迦楼羅・緊那羅・摩睺羅伽
(八部衆)
・人・人でない者などの姿と成って現れて、この経を説くのである。
数々の地獄・餓鬼・畜生などの
様々な困難から皆を救済する。または王の後宮
においては変化して女の身になり、この経を説くのである。
華徳よ。
この妙音菩薩は、善く娑婆世界の様々な生きもの(衆生←衆縁所生)
を助けて保護する者である。この妙音菩薩は先に述べた通りに様々に変化して身を出現させる事が出来る。
そして、この娑婆の国土に存在しては、様々な衆生の為にこの経典を説くのである。しかも、人が計り知れない不思議な力(神通)・
本来の形を変えて種々の姿を現す力(変化)・物事をありのままに把握し真理を見極める認識力(智慧)は増えたり、
減ったりしないのである。
この菩薩は多少の智慧を用いて娑婆世界の姿を明らかにを照し、すべての衆生の一人一人に自分自身が知るべき事(所知)を得させた。
また、あらゆる方向にあるガンジス川の砂と同じ数の世界の中においても、またまた同様であった。
もし、声聞の格好(形)をして説かなければ、出家して僧にならない者には、声聞の格好(形)になってこの者の為に法を説き、
辟支仏の格好をして説かなければ、出家して仏門に入らない者には、辟支仏の格好になって、この者の為に法を説き、
菩薩の格好をして説かなければ、出家して仏門に入らない者には、菩薩の格好になって、この者の為に法を説き、
仏の格好をして説かなければ、出家して仏門に入らない者には、つまり仏の格好になって、この者の為に法を説くのである。
この様に様々な者の格好となって、救わなければならない者に応じて、その姿を変えて現れる。時には、
仏の死をもって、出家して仏門に入らない者には、仏の死を示してその姿を見せるのである。
華徳よ。
妙音菩薩・摩訶薩は大神通や智慧の力を自分の望み通りに達成し、その様子は先ほど示した通りである。
その時に、華徳菩薩は仏に明らかに述べた。
”世尊よ。この妙音菩薩は確かに心の奥深くに善根(善行)を植えた。しかし、世尊よ。
この菩薩はどの様な三昧に留まり、あの様に姿を変えながら、あらゆる場所に現れては
衆生を迷いの世界から抜け出させ悟りの世界に渡すのか。”
仏は華徳菩薩に告げられた。
”善男子(良識ある者)よ。その三昧を現一切色身(自在にあらゆる物の姿に変化出来る)と名付ける。妙音菩薩はこの三昧の中に留まって、
先ほど述べた様に数えられない衆生に沢山の利益をもたらしたのである。”
この妙音菩薩の物語を語られた時、妙音菩薩と共に訪れた者たち、八万四千人のすべての者が現一切色身三昧を得られ、
更に、この娑婆世界の数えられない菩薩も、またこの三昧及び
陀羅尼(教えとそれを記憶して保つ力)を得たのである。
その時に、妙音菩薩摩訶薩は釈迦牟尼仏及び多宝仏塔を供養し終えると、本土に帰った。そして、妙音菩薩が
帰る途中に立ち寄った沢山の国々を六種に震動させて宝石で出来た蓮華を降らし、百千万億の種類の伎楽を鳴らした。
やがて、本国に辿り着くと、八万四千の菩薩に囲まれて礼拝されながら、浄華宿王智仏の所まで行った。
そして、仏にはっきりと述べた。
”世尊よ。我れは娑婆世界に行き、衆生に多くの恵みを与えたお陰で、釈迦牟尼仏とめぐり会う事が叶いました。
また更に、多宝仏塔ともめぐり会う事が出来たので、これら二世尊を礼拝して供養しました。
また、文殊師利法王子菩薩を見、更に薬王菩薩・得勤精進力菩薩・勇施菩薩らを見ました。また、
この八万四千の菩薩たちに現一切色身三昧(あらゆる姿になって法を説くとしても動揺しない心境)を得させた。
この妙音菩薩来往品が説かれた時、四万二千の天子は無生法忍を得、
華徳菩薩は法華三昧(法華経を読んだり、書いたり、人に話したりしても厭きる事無く、その事に集中している心の状態)を得たのである。