南無妙法蓮華経
-----見 寶 塔 品 偏-----

 

  私の様な女の子たち、皆がお経は葬儀の時に
  死者の冥福の為に読むものと思い込んでいました。しかし、それが間違えである事に気付いたのです。
  本来は、これから生きて行かねば成らない人の為のものです。だから、このhpも、また同じなのです。
 
  

   担当:社会心理学科2年 松本 実花


参 照


見ずらいサイトで、
ごめんネ!(´ДÅ)ょゎょゎ

下記のホームページに全訳が掲載しています。


妙法蓮華経

フリー百科事典
『ウィキペディア』
法華経


参考サイト







語句の説明
・グーグル辞書で調べる事が出来るようしてある。
・特殊な語句は分かる範囲で、説明する。
( ゚д゚)ノ ョロ!!


・無央数劫(むおうすうこう)
無限の意味

・炬火(こか)
たいまつ

・劫焼(こうしょう)
物を燃やす事

 


---編 集 録---

”短冊に 願いを込めし 夏の夜 天を指差し 星を尋ねん”
ある夏の頃、七夕の夜をどう過ごすか相談するため、皆で居酒屋にくりだしたのですが、 いつの間にか合コンの話しになり、七夕の意味さえ分から無くなった時に読んだ歌。

今日は、皆さん
梅雨が明けた途端に、もう猛暑ですね。!暑いからと言って、冷たいものを飲みすぎるとお腹をこわして、 下痢になりますよ。気を付けて下さいネ!夏は色々と お祭りなどが多く、楽しい季節ですからネ!。では前回の話しの続きをどうぞ!!

松本実花;
「お釈迦さまは、どの様な世の中にしたかったのですか?」

鈴音;
「お釈迦さまは、弱肉強食の世界からルールの下に平等で、弱い者にも慈悲を掛ける世界を目指していたと 思います。なぜなら、お釈迦さまが出家した訳が 四門出遊と言う物語りに書かれています。

その中で、お釈迦さまは苦しみや不安が、なぜ起きるのかを追求して行き、因縁果を悟り、その輪廻から 解脱する四諦の法を説いたのです。

そして、四諦の中の道諦で、急に人の欲の貪りを止める事は逆効果になり、良くない。一定のルール を設けて、徐々に取り去る事が大切である。つまり、誰もが平等で、規律正しく生活する事 を説いてあるのです。

お釈迦様が生まれた時代、紀元前5世紀〜4世紀の世界は如何なっていたかと言うと、
日本では縄文から 弥生時代に移行する時で、道具も土器から金属器に変わり、稲作が定着し、 精霊信仰(すべてに魂が宿る)→祖霊信仰(先祖供養)御霊信仰(怨霊を神と崇める)と移り変わった。

オリエントではギリシャとペルシャとの間で、ペルシャ戦争が勃発する。 ペルシャはエジプトの反乱やたび重なる遠征で不安定になり、ヨーロッパ支配に失敗した。

その後、勝利を収めたギリシャ連合は各ポリス間で、小競り合いが続きマケドニアのアレキサンダー大王に より統一される。アレキサンダー大王は続いて、ペルシャ帝国を滅ぼす。

ペルシャ帝国は宗教の自由を認めていた為、善・悪のゾロアスター教、呪術よって善悪をコントロールするミトラ教 が盛んになったのです。

その頃、中国は春秋戦国時代で、儒教の祖である孔子が誕生し、 ギリシャでは倫理や徳を追求する哲学者、ソクラテスが誕生し、やがて神の否定論に発展して行く。

つまり、この時代から人は、社会や人とはどうあるべきかを理論的に考え始めたのです。」
----続く。

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◆見 寶 塔 品(けんほうとうひん)

ここからは見寶塔品(けんほうとうひん)です。
この場面は今までの事を再び、散文で分かり易く表している部分です。

この部分で述べられている事は仏教を信じ、仏の弟子(諸仏)であろうとする者は 如来を祭っている寺院を捨て、人々に仏の言葉を広める事が 何より大切である事を説いている。

そして、布教する事がどんなに難しい事を説いている。また、その事がお釈迦様が望んでいる事であり、 お釈迦様が永遠の命を授かる事でもあるので、喜びでもある。

------終わり

●翻 訳 三

その時に、
世尊は重ねてこの意義を伝える様と望んで、偈(歌)を掲げて言ったのです。

”聖者の王なる世尊よ、この世を去られて久しいと言えども、宝塔の中に身を置き、なお更に法を聞く為に参じなされる。 多くの人は口々に言う、なぜ、勤めて法の為にそこまでするのか?。

この仏はこの世を去って(滅度)、遥か遠い月日が過ぎ、様々な所で法を聴くことが難しくなったからである。 彼の仏の本願は自分が滅度した後の世において、色々な所におもむくながら、常に法を聴く為にそれを行なうのである。

また、我が分身の諸仏(仏教を信じる人)で、ガンジスの砂の如く数え切れない者たちは、やがて訪れる法を聴いて、 滅度した多宝如来にお会いしたいと願っているのである。

それぞれの妙土(寺院、神棚)や弟子衆(教団)及び天人や龍神など諸の供養の事を捨てて、規律(法)に則り 久しく暮らをしていたのであるが、ここにこうして来られたのである。

諸仏を座らさせてんが為に神通力(物事を見通す事)をもって、多くの衆を移して 国(体)を清浄させたのです。

諸仏がそれぞれ宝樹(徳のある菩提樹)の下に行くのです。 それは清涼の池を蓮の華で美しく飾るが如く。

その宝樹の下には諸の師子座(勝利者)があって、それらの上に仏たちが座っているのです。 光明(智慧)で輝ける事は夜の闇の中で大きな松明を燃やすが如し、身より不思議な香りを出して 十方の国を満す。

衆生はその匂いを嗅いで喜び、自からが勝る事を知るのである。 譬えば、 強風で小さな樹木の枝が吹かれる様にである。この方便が示す様に、法(戒律)のもと、久しく住まわせる。

諸の大衆に告ぐ、
我が滅度(入滅)の後に、 誰か、良くこの経を大切に守りながら、声に出して読む者はいないのであろうか。

今、仏の前で自から宣言すれば、この多宝仏がこの世から去って久しいといえども、 大誓願を立て、堂々と宣言(師子吼)したのである。

多宝如来及び我が身に集まった化仏(弟子)なら 必ずやこの意を知るのである。 沢山の仏子(弟子)等の中の誰かが良く法を大切に守り続けなければならない事をである。

必ずや、大願を起こして、永い間、仏道に住む事を得るのである。 その者が良く、仏が述べた教えを守ろうとする者であるならば、我及び多宝を供養するのである。 この多宝仏は宝塔に身を置きながら、常に十方に遊びに行くのはこの経の為である。

また更に、色々な所から来られた化仏(仏の弟子で、のちに仏と成る者)が色々な世界を恭しく飾ろうとして、 光(智慧)で照らす者を供養するのである。

もし、この経を説いたならば、即ち、この理由をもって、我及び多宝如来、諸の化仏を 見る事が出来る。したがって、多くの善男子よ、それぞれが思い切って決断するのだ。

これは難しい事である為、宜しい時期を見て大願を起こすのだ。 沢山の他の経典はガンジス河の砂の様にあるが、これらを見たとしても、 未だに難しいと思うにはほど遠いものである。

もし、須弥(須弥山)を手にして、ほかの無数の仏土(精神世界)に投げやる事は、未だ難しいとは思わない。 もし、足の指先で、大千界を動かし、遠く他国に投げるとしても、未だ難しいとは思わない。

もし、有頂に立って、衆の為に計る事の出来ない他の経を演説したとしても、未だ難しいとは思わない。 もし、仏の滅後に、悪世の中において、良く、この経を説くこと、これこそが難しいものである。

かりに、人あって、手に虚空(自然がもっている智慧の意)を握って、遊びに行くことも、未だ難しいとは思わない。 我が滅度した後に、もし、自らも書き覚えるかあるいは他の人にこれを書かせて、教える事。 これこそが難しい事である。

或いは足の甲の上に大地を置いて、梵天に昇ったとしても、未だ難しいとは思わない。 仏の滅度の後に、悪世の中において、暫くの間、この経を読む事。これこそが難しい事である。

たとえ、激しく炎を上げ燃ているのに、乾いた草を火にくべる為、それを担いで、火の中に入っても 焼けどしない様にする事は、未だ難しい事だと思わない。

我が滅度の後に、もし、この仏の教えを覚えて、たったひとりの人の為に、これを教える事、 これこそが難しい事である。

もし、八万とも、四千とも言われる法蔵である十二部経 を学び、人の為に演説して、沢山の聞く者を集めて、この者たちに六神通 を良く、得させる事は、未だ難しいとは思わない。 我が滅後において、この経を聞いて受け取り、その意義を問う事。これこそが難しい事である。

もし、人に法を教えて、千万億と言う数えられない無数で、ガンジスの砂と等しい数の衆生を 阿羅漢にさせて、六神通を身に付けさせる。この事は益ある事であるが、未だ難しい事でない。 我が滅後において、もし、この様に経典を守る事。これこそが難しい事である。

我が仏道を得て、無量の土(色々な所)において、始より今に至るまで広く、沢山の仏の言葉を説く、 しかも、その中でこの仏の言葉が第一である。もし、この教えを良く守れたなら、 すなわち、仏身を守れた事である。

多くの善男子よ、我が滅後において、誰か良く、この経(仏の言葉)を聞いて、これを守る為、 声に出して読むのであろうか?。今、仏の前において、自ら誓い言葉を立てよ。

この経の教えを守る事は難しく、もし、暫くでも守った者を我は歓喜する。また、諸仏も同じである。 この様な人は諸仏が誉める所であり、

勇猛で、精進であり、戒を守り、頭陀 を行ずる者である。そして、素早く、無上の仏道を得ることが出来る。

良く、来世において、この経を読んで、守る者はこれが真の仏子(釈迦の弟子)であり、 ただ素直に善(秩序)の地に暮らしているのである。

仏の滅度の後に、良く、その義(人の正しい道)を説く事は、多くの者にとって、天人(天使)であり、 世間の眼である。恐れる世において、少しでも説こうとするものはすべての天人であり、 皆で供養するのである。



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