南無妙法蓮華経
---提 婆 達 多 品 偏---

 

  私たち、女子大生は法華経を読んでいる時に気付いたのです。
  自分たちが生かされている事や、他の人を生かしている事をです。   だから、このhpも同じ様に訪れた人が何かを悟れる助けと成りたいのです。
 
  

   担当:教育学科3年 五十嵐 帆美


参 照


見ずらいサイトで、
ごめんネ!(´ДÅ)ょゎょゎ

下記のホームページに全訳が掲載しています。




フリー百科事典
『ウィキペディア』
法華経


参考サイト







語句の説明
・グーグル辞書で調べる事が出来るようしてある。
・特殊な語句は分かる範囲で、説明する。
( ゚д゚)ノ ョロ!!


・劫(こう)
時間の長さで、一つの宇宙が誕生して消滅するまでの時間

・牀座(しょうざ)
四角い板に足を付けだけの粗末な椅子

・五欲
色(しき)・声(しょう)・香(こう)・味・触(そく)の五境に対して起こす欲望 で、財欲・色(性)欲・飲食(おんじき)欲・名欲・睡眠欲を意味する。
これが原因で、人は執着する心や怒る心や怠ける心を起こす

・阿私仙(あしせん)
インドの聖仙。釈迦誕生にあたりその相を見て、 出家すれば大慈悲の聖師となり、俗にあれば理想的国王 とされる転輪王となると予言した仙人

・十力
合理と非合理を区別する十種の智力
1.時間の相違
2.場所の相違
3.教主の相違
4.随衆の相違
5.依り所の相違
6.説き方の相違
7.境位の相違
8.実践の相違
9.教えの相違
10.事物に対する解釈の相違

四無所畏(しむしよい)
仏・菩薩が畏(おそ)れを抱かずに仏法を説くことのできる四つの自信。
1.一切智無畏
2.漏尽無畏
3.説障道無畏
3.説尽苦道無畏
菩薩の四無畏は
1.能持無畏
2.知根無畏
3.答報無畏
4.決疑無畏をいう

 


---編 集 録---

”夏祭り なびける裾に 手をやりて 頬を染めんや コギャルの君”
団扇(うちわ)祭りの夜に、団扇を手にして、浴衣姿で露店を歩いている妹を見かけた時、 普段のコギャルの姿を、誰が想像できるかなと思って読んだ歌。

今日は皆さん
毎日毎日、暑い日を元気で過ごされていると思います。?私たちはと言うと、 早いもので夏休みを迎へ、また鈴音さんの所へ遊びに行こうと思っている所です。 では前回の続き

五十嵐帆美:
「本当に観音菩薩や阿弥陀如来を拝むと救われるのですか?」
鈴音:
「それは方便なのです」
帆美:
「方便って何ですか」
鈴音:
「人を良い方向へ歩ませる手段の事です。お釈迦様が出家する頃、インドではバラモン教(古代ヒンズー教) が盛んであった。 バラモン教の成り立ちはアーリア人が原住民族のドラヴィダ人を支配するために、 民間宗教の統一(総ての精霊は最高神の化身である)やカースト(身分制)を作り出し、 自らを最高位の司祭・僧侶階級であるバラモンと称したのが始まりと言われている。

そして、バラモンたちは祭事をしては、多くの貢物を他の階級から集めて、贅沢な暮らしを送る様になったのである。 これはちょうど、今の官僚主義の日本と同じようなものと思って下さい。それで、民衆の不満が沸き起こり、 仏教やジャイナ教が誕生したのです。

仏教とジャイナ教は姉妹宗教と言われるほど似ています。例えば、一切皆苦、輪廻転生、業、過去仏思想を はじめとして、苦の輪廻から解脱、欲を生じない涅槃(ねはん)、煩悩を封じる戒律などです、中でも五戒 は同じなのです。

これは、バラモン教の教典ヴェーダのウパニシャッド(奥義)哲学 を見直して、更に考えだされたものです。ここからインドは宗教的な儀式や思想から離れて哲学の道に歩んで行ったのです。

しかし、お釈迦様の時代は、まだ哲学的な考えが受け入れられない為、宗教的要素を取り入れて仏界を創造したのです。 そして、人に道徳心を植え付けて行き、物事を良く観察して、考える事を教えて行ったのです。

また、歴史的に見ても、メソポタミア→エジプト・ヒッタイト(トルコ)→インダス(イラン)→ギリシヤ・ローマ→ インド・中国と発展して行くのです。中でも、ギリシャーとインドは哲学が盛んになり、中国では道徳が 重んじられる様に成るのです。

仏教の特徴は全てのものは神などの意志により、存在するものでは無く、ものが持つ特徴とその特徴を許す環境の中で 存在しているに過ぎない。よって、すべての物の価値は等しいものであると言う事です。」

----続く。

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◆提 婆 達 多 品(だいばだった)

ここからは提婆達多(だいばだったほん)です。
提婆達多品は法華経の中でも、重要な作品の一つです。ここに書かれているのは悪人でも、女性でも 仏に成れる事が描かれている。

これは、すべての物質は不生不滅で、善悪などの区別が無いことから由来されたものです。仏教では ものは自然の条件次第で、目に見えたり、見えなかったりすると考えている。

------終わり

●翻 訳 一

その時に、
仏は多くの菩薩や天人及び四衆に述べられたのです。 ”我は計り知れない遠い昔から法華経を求めていても、飽きることは無かったのである。

永い間、常に国王として国を治めていた。ある日、我はこの上ない悟り(菩提)を求めようと 願いを起こしたのである。その心は決して、後戻りする事は無かった。(不退転)

六波羅蜜(ろくはらみつ)の修行を成就する為に布施の行をして、仏道を歩んでいるうち、 心に象・馬・七珍・国・城・妻子・奴婢(ぬび;召使いの男女)・僕従(召使いの子)・頭目(とうもく)・ 髄脳(ずいのう)・身肉・手足など物惜しみする事や、体や命をも、惜しむことは無くなった。”

”時に、世の人民の寿命は指で数え切れないほどに成ったが、法を求める為に、政を太子に委せて、王位を捨てたのである。 そして、太鼓を打ち鳴らし、四方に自らの思いを伝へて、法を求めたのである。

誰か良く我が為に、大乗を教えてくれる者はいないか?。我は必ずや、この身が終わるまで手足の如く、 身の回りの世話をするであろう。”

時に、仙人がおり。その仙人は王の所にやって来て、はっきり言ったのである。
”我は大乗(すべての衆生を救う法)を知っています。それは妙法蓮華経と言います。 もし、我に従がうなら、あなたの為に教えを伝えて、説いてあげましょう。”

王は仙人の言葉を聞いて、踊りたくなるほど喜んだのです。そして、 仙人に従がいながら、暮らしに必要な物を用意したのである。

例えば、果実を採ったり、水を汲んだり、薪を拾って米を炊いたり、最後は四つんばいに成って 仙人が座る牀座(しょうざ) に成りながらも、身心が疲れることは無かった。

時に仙人に仕えることが千年に及ぼうとも、法を教わる為に、自ら進んで雑用に励んだとしても、 物足りなさを感じる事が無かった。

その時に、世尊は再び、この意味を伝えようと思い、偈(歌)を説いて述べた。
”我、昔を振り返って見るに、大法(大乗)を求める為、 国王と成ったけれども、五欲の楽を貪る事は無かり。

鐘を打って、誰か大法を知っている者は居ないかを四方に告げる。 もし、誰か、我が為に解説する者あれば、我は身をもって、必ず汝の奴僕(ぬぼく:奴隷のこと)となるであろう。

時に、阿私(あしり)と言う仙人が有り、その仙人は大王の所に来て、述べた。
「我は不思議な法を知っている。その法は世間でも、中々、お目にかかれない法である。 もし、汝が良く修行するなら、我が必ず汝の為に法を説いてやる。」

時に、王者である仙人の言葉を聞き、心に大きな喜びを生じ、 そして、仙人に従がいながら、必要な物を用意したのである。

薪ぎ、木の実、草の実を採って来ては、宜しい時を見ながら、仙人を敬い、謹んでそれらを与えたのである。 心には妙法を求めたい気持ちがある為、体にも、心にも、疲れ果てて法を諦める気持ちは起きなかった。

それは五欲の楽を満足する為ではなく、多くの衆生の為に大法を求めるからである。 大国の王と成ったにも関らず、つとめて仏の教えを求めて、この法を得た後、遂に仏と成る事が出来たのである。 よって、今、汝が為に説くのである。”

そして、仏は多くの比丘に次の様に告げられた。
”その時の王とは我が身のことであり、仙人は今の 提婆達多である。 提婆達多(だいばだった)は善き友人(善知識)であった為、 我に六波羅蜜、慈悲喜捨(じひきしゃ)三十二相、八十種好、紫磨金色(しまこんじき:手のひらの色) 、十力、四無所畏、四摂法、 十八不共(ふぐ)、神通道力を身に付ける事が出来たのである。

そして、等正覚(とうせいがく)と言う心の心境を得て、 広く衆生を迷いの無い世界へ渡す事が出来たのである。これも皆、提婆達多の善き友人による所である。”

そして、また多くの四衆に告げたのである。
提婆達多がこの世を去り、数えられない時が過ぎった後、必ず仏に成る事が出来るのであろう。

名を天王如来(てんのうにょらい)、応供(おんぐ)、正偏知(しょへんち)、明行足(みょうこうそく)、 善逝(ぜんぜい)、世間解(せけんげ)、無上士(むじょうし)、調御丈夫(じょうごじょうぶ)、 天人師(てんにんし)、仏、世尊(せそん)と言う。

その世界を天道と言い。天王仏は二十中劫の間、この世で衆生の為に、妙法(法華経)を教えるのです。 そして、ガンジスの砂と等しい数の衆生が、学道を完成させて学ぶ必要のない阿羅漢果になり、また数えられない衆生が 一人よがりの縁覚の心を起こす。

さらに、ガンジスの砂と等しい数の衆生は最高の悟を開く為に修行しょうとする心を起し、 一切のものが不生不滅である事を認めて、真実を悟りきって心の安らぎが迎えられる 無生忍(むしょうにん)を得て、 どんな事があっても、心が後戻りしなかったのである。



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