南無妙法蓮華経
-----観 持 品 偏-----

 

  私たちは宗教を特別な目で見ていません。
  現代の様なストレス社会だからこそ、お釈迦様が説いた智慧が必要なので無いかと考えています。
  だから、hpを開いたのです。  
  

   担当:社会学科3年 夏生 美夏


参 照


見ずらいサイトで、
ごめんネ!(´ДÅ)ょゎょゎ

下記のホームページに全訳が掲載しています。




フリー百科事典
『ウィキペディア』
法華経


参考サイト







語句の説明
・グーグル辞書で調べる事が出来るようしてある。
・特殊な語句は分かる範囲で、説明する。
( ゚д゚)ノ ョロ!!


・正憶念(しょうおくねん)
仏が悟った正道を深く考え、心に刻む事。

・諂曲(てんごく)
諂は、へつらい、の意。曲は他人に気に入られようと自心を曲げること

・阿練若(あれんにや)
寺の総称、または山林の様な場所の事

・邪見(じゃけん)
正見の反対で自分勝手なものの見方をする事

・濁劫(じゃこう)
煩悩濁・見濁・衆生濁・命(みょう)濁・劫濁の5濁の最後で、劫濁では 時代の濁り、環境・社会に悪い現象が重なり、様々な災難が起きる。

・罵詈(ばり)
人を罵る事

・所嘱(しょぞく)
人から託されたもの

・顰蹙(ひんじゃく)
眉ををひそめる。

・擯出(ひんずい)
こばむこと

 


---編 集 録---

”珈琲の 氷に染いる 茜雲 恋する者の 身には悲しい”
茶店で後輩と待ち合わせした時、その後輩がアイス珈琲を飲み干して肘を付きながら、 もの悲しげに外の様子を伺っているのを見た時に、詠んだ歌。

今日は、皆さん。
最近、秋雨前線のせいか?。雨ばかり降って、朝夕はめっきり冷え込んできましたので、 寝冷えには気を付けて下さいネ。

さて、私たちは来月の文化祭に向けて、準備を開始していますので、何かと忙しい日々 を送っています。どうぞ、楽しみにして下さいネ。
では、前回の話の続きをどうぞ。

美夏;
「なるほど、ユダヤ教とキリスト教の成り立ちは分かりましたが、違いが分かりません。?」
鈴音:
「ユダヤ教の経緯だけしか話していません。
前回も話した様に、ローマ帝国よりユダヤ教は禁止されて、ユダヤ人はヨーロッパ諸国に奴隷として 連れて行かれた。

なぜならば、ローマ帝国は多神教と共に政教分離であった為に、神との契約である戒律を 厳守するユダヤ人には受け入れられないものであったのです。

ユダヤ教が一神教に成ったのはエジプトで、神官たちの勢力が増し、王家を脅かす様になり、アメンホテプ4世 がアメン神だけの一神教を唱えた事にユダヤ人が共感した事から始まったのです。

では、話を元に戻しましょう。
キリスト教の誕生ですが、ローマ帝国の支配下に置かれたパレスチナ地方(旧イスラエル)のユダヤ人たちは ローマ帝国の重税に課せられ、貧しいものはユダヤ教の厳格な戒律を守る事が出来なくなったのです。

たとえば、安息日は労働してはいけないとあり、その日は自分で料理せずに、ユダヤ教以外の人が 料理したものは食べる事になり、貧しいユダヤ教の人は食事する事や買い物にも行け無かったのです。

この様にユダヤ教は人権より、戒律を重要視させた為に貧しい人々は戒律を破り、いじめられる様になった。 そんな時代に、ナザレのイエスが現われ、戒律を破った貧しい人や罪人であるライ病の患者や売春婦たちに、 向かって、「あなたこそ、神の愛によって救われる」と説いたのです。

そして、ユダヤ教の怒れる神「ヤハウェ」を愛する神に変え、儀式や戒律よりも、人の平等性と慈悲(愛) を説いたのです。やがて、イエスはユダヤ教指導者から戒律破りの犯罪者として、またユダヤ教指導者の策略 の為にローマからは反逆者として追われる事になり、弟子ユダの密告により捕らえられ、ゴルゴダの丘で 処刑された。

その後、イエスの遺体を引き取り女性信者三人が洞窟の墓に行ったところ、遺体が消えていたのです。 それを機会に、弟子たちが集まり、イエスの教えを人々に説き始め、イエスは復活したのであり、 救世主(キリスト)であったと考える人々によってキリスト教が作られたのである。

キリスト教は誰でも洗礼を受けさえすれば、キリスト教徒になれる。また戒律を破ったから と言って体罰が与えられる事は無い。戒律は心の安らぎを得るための手段と解釈している。 そして、神と人との付き合い方を学ぶ教えだと聞いています。」

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◆観 持 品(かんじほん)

ここからは観持品(かんじほん)です。
この場面はお釈迦様が居なく成った世の中で、弟子としてやらなければならない事が 描かれている。

つまり、現在の様に人は自分勝手に生きて、成果主義と言う思想が流行し、自殺増える時代で、 坊主たちは商法を教えていて、ますます世の中は混迷を深くして行く。

そうした中で、本当のお釈迦様の弟子である者は色々な所に出向き、釈迦の言葉を伝える 事である。たとえ、人からバカにされても、殴られても、釈迦の言葉をひたすら伝える事が 大切な事である。

------終わり

●翻 訳 二

また、更にこの様な思いを懐いていた。
「今、仏は黙ったまま何も語らないでいる。我らはどうすれば良いのだろうか?」

その時、多くの菩薩たちは仏の気持ちに心から従がって、自分が立てた誓願(本願の事)を 叶えさせたいと望み、そして、仏の前でライオンが吼える様に、一挙に声をだして 誓いの言葉を述べたのです。

”世尊、我らは如来の滅度した後に、あらゆる世界をくまなく歩き回りながら、人にこの経を 書き写させたり、覚えさせたり、声を出して読ませたりして、その意味を理解させながら、 仏の法(八正道)に従がって修行させて、 正道を深く考えさせ、その事を絶えず忘れない様にさせましょう。

これら皆は仏のすばらしい力にほかなりません。ただ適う事なら、世尊よ。彼岸に行っても、永く我らを見守って 下さい。”

二人の比丘が言い終わると諸の菩薩たちが声を揃えて、偈(歌)を用いて述べたのです。
”ただ、我々の願がいは仏が心配なされ無い事だけです。仏が彼岸に渡られ後、恐怖がまん延する悪い 世の中において、我々が必ず多くの人に法を教えます。

様々な無智の人がいるとしても、例えば、汚い言葉で人を罵る者や刀などで人に危害を加えるものが いたとしても、我々はこれらを忍びます。

悪世に住む比丘(坊主)は悪知恵を持ち、意志を曲げてまだ人にこびへつらい、 未だ悟り得てないのに得たと思い込んで、おごりきった心で満たされている者か。

あるいは阿練若(あれんにゃ;寺の総称)に着物を納め、人里はなれた所に身を置き、自分では真の仏道 を修行したと思い込んで、人を馬鹿にしている者である。

これらの者たちは自分の報酬(利養)を心配する(貪著)あまり、金持ちや位の高い在家信者(白衣)の為に 法を教えて、世間から尊ばれている様は、まるで六神通力を得た阿羅漢の様である。

この人は悪心(怒り、嫉妬、嫉みの心)を懐き、常に世間の人々に対する体裁を思い、阿練若(あれんにゃ) の名を利用し、好んで我らの過ちを見つけ出してはこの様に言うのです。

「この色々な比丘らは報酬を求めるために、人と問答しながら六師外道 の教議を教え、更に自分たちが作った経典で世間の人の心を惑わしているのである。

また、世間の人の評判を得る為に、良く物事を判断して、仏の言葉を説くと言うのは、常に、大衆の中で 我らを悪者にしょうと思っている為、国王・大臣・バラモン・ 居士及びほかの比丘たちに向かって、我らの悪い所を 上げては、この者達は邪見の者であり、外道の論議をする者であると。」

我らは心から仏を尊敬していますので、何一つ避ける事無く、色々な悪事に耐え忍ぶでしょう。

もし、この者たちにバカにされて「お前達は皆、仏、その者である。」と言れたとしょう。 この様に人を蔑む言葉を言われたとしても、皆は必ず耐え忍び、その言葉を聞くでしょう。

なぜなら、人が自分勝手に振る舞い、誤った思想が流行して、社会の秩序が崩れて事件・事故が多くなり、人の寿命が短く成って行く 時代(濁劫)の悪世の中では、多くの様々な恐怖があるのです。

悪鬼がその者達の体に入り込んで、我らを罵しったり、我らの悪口を言いふらして、我らを傷つけようとも、 我等は仏を敬い、信じているので、常に忍辱(にんにく) の鎧を身にまとい、それを堪え忍びます。

そして、この仏の言葉(経)を説く為に、この困難な境遇に耐えながら我らは体や命に愛着する事無く、 ただ、ひたすらにこの上ない道(仏道)が忘れさられない事を惜しんでいるだけです。

我らは来世においても、仏から託された法を大切に守り続けます。世尊、御自身はすでに、ご承知なされている はずです。

不景気で悪ばかり起きて世の中の秩序が壊れ、人は夢を持てずに自分勝手に生きている世の中の悪徳坊主(悪 比丘)は衆生を苦から救う仏の手段(方便)として、相手の心や性質や能力に応じて、理解できるように説く、 随宜所説(ずいきしょせつ)の法を知らない。

その為、我々は悪口を言われながら怪しまれ、度々拒まれて塔や寺から遠ざけられるのです。 しかし、この様な数々の災難に遭いながらも、仏が我々に告げた言葉を思い出しては、我ら、 皆が今、この難に耐え忍ぶ事が出来るのです。

そして、いろんな集落や城壁のある町に出向き、法を求める者が居れば、その者の所に行き、 仏から託された法を説きましょう。

我等は、世尊の使いとして、人々にどのように扱われようとも、恐れを懐いて拒む事無く、 必ずや、丁寧に法を説くでありましょう。

我らの願いは、仏が安心して下される事だけです。我らは世尊の前にいて、色々な所から集まって来た 十方の仏たちに次の様に誓いの言葉を立てたのです。”
「仏、御自身だけが我らの心を承知なされている。」





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