南無妙法蓮華経
----観世音菩薩普門品偏----

 

  私達のhpは、
  読者の皆さんの為に、何か生きる為のヒントをもたらす事を願って作成しました。
  もしも、何も得られないと思う人は、傲慢で、自分が生かされている事を知らない人です。
   
  

   担当:宗教心理学科3年 桜 麻由美


参 照


見ずらいサイトで、
ごめんネ!(´ДÅ)ょゎょゎ

下記のホームページに全訳が掲載しています。




フリー百科事典
『ウィキペディア』
法華経


参考サイト

仙学研究舎

文景帝国

中国史地図

中国通史



語句の説明
・グーグル辞書で調べる事が出来るようしてある。
・特殊な語句は分かる範囲で、説明する。
( ゚д゚)ノ ョロ!!


・唐捐(とうえん)
からっぽで何にもないという意味ですが、不唐捐は逆の意味で大変たくさんあると言う意味になる。

・供養(くよう)
サンスクリット語で「プージャー」と言い、 その語源はドラヴィダ人の言葉の「花」を表す「プー」と、「生ける」を表す「ジャー」から成り立ったもの、 つまり「花をお供えして礼拝をする」と言う意味なる。

プージャーをする目的は自分の過去の悪行(カルマ)を神に謝って神から新たに才能と智慧を授けてもらい、幸運に 恵まれる様にして貰いたい時に行うものであったが、仏教に取り入れられてからは他のものへの感謝を表すものとなった。

・功徳(くどく)
サンスクリット語のグナを漢訳したもので、グナとは属性徳性(品性)という意味があり、仏教では人格や智慧を高める行為と して取られている。また、この古代インドでは三グナ説 で世の中のあらゆる現象を捉える思想のサ−ンキア哲学が生まれた。 ・得度(とくど)
中国と日本では僧侶となるための出家の儀式を指すが、国の許可が必要である。インドでは、出家は誰でも出来たが サンガ(僧侶)に入る為には、比丘たちの全員一致の賛成を得る必要があった。

・梵王(ぼんのう)
梵天(ブラフマン)の別名

・自在天(じざいてん)
自在天=大自在天=シヴァ神。シヴァ神のルーツはインダス文明を築いたドラヴィダ人が畏れた悪霊で、後に獣神に成る。 後に、アーリア人の暴風神ルドラと一体になり、ヒンズー教のシヴァ神と成る。
シヴァ神の特徴は「宇宙の破壊神」と「恩愛の神」の二面性がある。また、シンボルを男根として崇めるリンガー崇拝で知られ、異名も千以上ある

・執金剛神(しゅこんごうしん)
帝釈天の化身とされているが、普段は産婆の神として祭られている。後に仁王に成る。

・施無畏者(せむいしゃ)
人から苦悩や恐怖を取り除き、安心を与えて恐れのない状態にする者と言う意味で、観音の異名です。 また、それ以外に仏の四無畏がある。

・仁者(じんしゃ)
情け深い人と訳すが、元々は孔子の論語から由来した言葉「仁者に敵なし」

・慈悲(さんえんじひ)
慈悲とは仏が説いた四無量心から派生した言葉です。 そして、更に慈悲を衆生縁の慈悲・法縁の慈悲・無縁の慈悲の三種類に分けたものを三縁慈悲と言う

・當(まさ)
まさに…べし→当然…すべきである;漢文の初歩

・遊ぶ
仏・菩薩が何かを行う様子を表す言葉;行うの尊敬語


---編 集 録---

久ぶるりに近所を散歩していたら、何処からとも無く鶯のさえずりを耳にし、鳴声を頼りに捜し求め、 満開に咲いた梅の花を見つける事が出来ました。昔から「梅に鶯」と言われていた事は本当ですね。

今日は、皆さん
お元気でしょうか?。私たちは元気ですが、最近、困った事が出来てしまいました。それは、ニュースで鳩山総理が ツイッターに夢中との報道があってから、ツイッターに没頭してしまい法華経の翻訳が進まず、支障を来たす事になった からです。

皆さんも、ツイッターには気付けて下さいね。では、前回の話の続きどうぞ!

麻由美;
「一体、文帝は何をしたかったのでしょうか?」
鈴音;
「文帝の政治姿勢は高祖以来の政策を継承したものであったが、秦代〜呂后の頃まで、匈奴の襲来、万里の長城などの 大規模な公共事業、内乱などが相継ぎ、農民の負担が益々増加し、国力が低下し始めて国家体制が維持出来なくなったのです。

そこで、文帝は民力の休養と農村の活性化を計る為に、匈奴と和平を結び、陵墓や高楼 などの大規模工事を縮少して減税を計り、更に法を改めて連座制や身体刑の廃止を行ったのです。 その為、後に「文景の治」と褒め称えられる様になったのです。

つまり、国民に安らぎを与える為の政治をしたと言う事でしょうか?。では、紀元前157年に戻りましょう。

文帝が崩御すると、五男の劉啓景帝に即位するが、 生母である竇姫は皇后の座に留まり、丞相を引き続いて申屠嘉に任命して、更に分権政治を進めた。

先ず初めに、竇広国を章武侯に封じ、竇長君の子の竇彭祖を南皮侯に封じた後、 周亜父を車騎将軍とした。また、皇太子の頃に咎められた張釈之を処刑しょうと思ったが、黄老学 者の王生の計らいで、一年あまり仕えさせた。

紀元前155年、
内史の晁錯が景帝と密談して諸侯王削減策を推し進め様とした為に、 丞相申屠嘉は晁錯を排除しょうとするが失敗する。

また、この年は薄太后が崩御して竇姫が皇太后になった。更に、申屠嘉も没した為、 丞相を陶青・副丞相を晁錯に任命した。

しかし、傲岸な晁錯は外戚の竇嬰を始として多数の敵を作り、中でも袁盎が 激しく晁錯を嫌っていた為に、晁錯から濡れ衣を着せられて平民に落とされた。

紀元前154年、
晁錯は、積極的に諸侯王削減策を進めた。まず、手始めに楚王の劉戊から東海郡、趙王の劉遂から常山郡、膠西王の劉卬から6県を削り、 更に、呉王の劉濞から領地を削ろうとしたのです。

しかし、呉王の劉濞は楚王劉戊・趙王劉遂・膠西王劉卬・済南王劉辟光・淄川王劉賢・膠東王劉雄渠らと共に、 呉楚七国の乱を起したのです。これに慌てた景帝は周亜夫に楚を 、酈寄に趙を、欒布に斉を討伐する事を命じて、大将軍竇嬰 を滎陽に駐屯させたのです。

そして、周亜夫の案により、交戦は粱王劉武に任せ、 漢軍は反乱軍の補給路を断つ事にしたのです。更に、袁盎の策により、反乱軍の名目を失わせる為に晁錯を腰斬の刑に処した。

その後、劉濞の亡弟・劉広(徳哀侯)の子である劉通(徳頃侯)とかつて呉で宰相を務めていた袁盎が劉濞を説得する為に呉に赴くも 失敗してしまう。

だが、劉濞の作戦ミスと周亜夫の活躍により、 呉軍が敗北すると反乱を共謀した諸侯たちは相継いで漢軍に降伏して、僅か三ヶ月で呉楚七国の乱は終わったのです。

呉楚七国の乱後、景帝は呉国以外の諸侯を許して再建させ、更に中央政府から派遣された官吏が諸国の政治を握り、諸侯王は 国政から分離された。また、呉楚七国の乱に勝利した周亜夫を太尉に、竇嬰を魏其侯に任じたのです。

紀元前153年、
栗姫の子の劉栄を皇太子に立て、王姫の子の劉徹を膠東王にする。 しかし、その後の於いて長公主・栗姫・竇太后が争うのです。

紀元前152年、
長公主の子の蟜を隆慮侯とし、広川王を趙王にする。

紀元前151年、
楚王劉礼が没し、中尉趙綰を封じて建陵侯とし、江都の丞相程嘉を建平侯とし、朧西の太守渾邪を平曲侯とし、 趙の丞相蘇嘉を江陵侯とした。

また、劉栄を廃嫡して臨江王に封じた為に栗姫が死亡した。この為に皇太后が梁王を後継者に推薦したが、 袁盎たちに反対され、梁王劉武は帰国した。

紀元前150年、
丞相を陶青から周亜夫にした。また、劉徹を皇太子して、皇后を薄姫から王姫にすると、 梁王は刺客を送り袁盎たちを暗殺した。

その後、韓安国の忠告により、陰謀を練った羊勝や公孫詭は自殺する。 更に皇太后や姉の長公主を通して景帝に許しを乞い、梁王は許された。六月に梁王は熱病にかかって死去する。

紀元前149年
周苛の孫の周平を縄侯に封じ、周昌の子の周左車を安陽侯とした。また、大きな地震が起きた。

紀元前148年
匈奴が燕国に侵入した為、李廣に中貴人を付けて匈奴を攻撃させた。
劉越を広川王に、劉寄を膠東王に封た。また、諸侯の御史中丞の職を廃した。

紀元前147年
景帝は漢に降った徐盧・于軍・陸彊らの匈奴の王に侯位を与えようし、また、竇太后の申し出により、王信を 列侯にしょうとするが周亜夫に阻止された為に、周亜夫は丞相を免じられて桃侯劉舎が丞相と成り、五日後に周亜夫は餓死した。

紀元前146年
徳陽宮を建てる。また、周勃の子周堅を封じて平曲侯とし、絳侯の後を継がせる。

紀元前145年
皇子舜を立てて常山王に封じた。

紀元前144年
梁王武が熱病を病んで六日で死んだ為に、竇太后は悲しみのあまり食事を取らなくなった。 そこで、長公主劉嫖と計って梁の孝王の子、明を立てて済川王に、定を山陽王とし、彭離を済東王とし、 不織を済陰王とした。

紀元前143年
丞相劉舎は責めを問われて免職となり、御史大夫衛綰を丞相とし、建陵侯に封じた。その後も、 幾度も匈奴に侵入されたり、奇病気が流行する。そして、紀元前141年に景帝が崩御した。」

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◆観世音菩薩普門品(かんぜおんぼさつふもんほん)

ここからは観世音菩薩普門品(かんぜおんぼさつふもんほん)です。
この場面では、観世音菩が苦悩する衆生を救う時、場所や時代や相手の状態などを考慮して、最も相応しい姿に変身して衆生を救う 事が描かれている。

その神通力を三十三応現身、或いは自在神力と言う。更に、観世音菩は救おうとする相手から見返りを求めない無縁の慈悲も備えている。 ちなみに、観世音菩の三十三応現身は三十三天(忉利天)、 及び無限を表したものだそうです。

また、華厳経によると、観世音菩は補陀落山(ふだらくせん)と言う浄土に 住んでいると記されている。日本では日光のふだはらさん(二荒山)が、それに当たるそうです。

この様な観音信仰が生まれたのは、紀元1世紀頃、デカン高原を中心とした中央インドの広い範囲を統治したアーンドラ朝 と思われる。この頃、王達はバラモン教を信仰しながらも、仏教やジャイナ教にも深く傾倒して行く中で、それらが結び付いて 観音菩薩を含む浄土信仰が生まれ、最後には阿弥陀如来を中心とする浄土教へと発展したと思われる?。

●翻 訳 二 

もし、この世に人として生を受けてた者(衆生)が居たとして、その者が観世音菩薩を 謹んで敬いながら礼拝したならば、福(利益)を唐突に損ねる事が無い。この理由から衆生のすべての者は観世音菩薩の名前を心に刻んで忘れてはならない。

無尽意(むじんに)よ。
もし、ある人が居て、その者がガンジス川の砂と等しい数、六十二億もの菩薩の名を心に刻んで忘れず、また命ある限り飲食・衣服・臥具(寝具類)・医薬 を供養したとしたら、

汝はどの様に思うであろうか?、この様な供養をする良識を持った男の人や、女の人たち(善男子・善女人)の功徳(他人を幸せにする能力)である。それは多いであろうか。? または少ないであろうか。?”

無尽意は次ぎの様に言葉を述べた。
”それは非常に多いものです。世尊よ。”

更に、仏はこの様に告げた。
”もし、また新たにある人が居たとしょう。その人が観世音菩薩の名を聞いて心に刻んで忘れ去る事無く、しかも僅かな時間だけ、 観世音菩薩を礼拝して供養したとしょう。

この二人の福徳、つまり六十二億の菩薩を供養した者と観世音菩薩を供養した者の福徳である。これらの福徳は 共に等しく、異なる事が無いのである。また、これらの福徳について百万億千劫と言う遠い未来であろうとも、 どちらが、どれだけ尊いかを決めてはならない。

無尽意よ。
観世音菩薩の名を聞いて心に刻んで忘れ去る事が無ければ、この様に思いも及ばないほどの数限り無い幸福や功徳(福徳)によって与えられる利益を 得られるのである。”

無尽意菩薩は仏に向かって明らかに述べた。
”世尊よ。
観世音菩薩は、どう言う訳があって、この様な娑婆世界でも、自由に楽しんで居られる(遊ぶ)のであろうか。 また、どの様な方法で衆生の為に教えを説くのであろうか。更に、方便の力とはどの様な事を言うのであろうか。”

仏は無尽意菩薩に告げた。
”良識ある者(善男子)よ。
もし、ある国に衆生が居たとしよう。その衆生の中で仏の姿(仏身)でないと、出家して悟りを求めない(得度)者であるならば、 観世音菩薩は、すぐに仏の姿に身を変えて、その者の為に法を説き、

また、辟支仏(縁覚)の姿でないと、出家して悟りを 求めない者には、すぐに辟支仏の姿に身を変えて、その者の為に法を説き、

また、声聞(小乗仏教徒)の姿でないと、出家して悟りを求めない者には、すぐに声聞の姿に身を変えて、 その者の為に法を説き、

また、梵王(ブラフマン)の姿でないと、出家して悟りを求めない者には、すぐに梵王の姿に身を変えて、 その者の為に法を説き、

また、帝釈(インドラ神)の姿でないと、出家して悟りを求めない者には、すぐに帝釈の姿に身を変えて、 その者の為に法を説き、

また、自在天(シヴァ神)の姿でないと、出家して悟りを求めない者には、すぐに自在天の姿に身を変えて、 その者の為に法を説き、

また、大自在天(シヴァ神の異名)の姿でないと、出家して悟りを求めない者には、すぐに大自在天の姿に身を変えて、 その者の為に法を説き、

また、天の大将軍(四天王)の姿でないと、 出家して悟りを求めない者には、すぐに天の大将軍の姿に身を変えて、その者の為に法を説き、

また、毘沙門の姿でないと、 出家して悟りを求めない者には、すぐに毘沙門の姿に身を変えて、その者の為に法を説き、

また、小国の王の姿でないと、出家して悟りを求めない者には、すぐに小国の姿に身を変えて、その者の為に法を説き、

また、徳のある富豪(長者)の姿でないと、出家して悟りを求めない者には、すぐに徳のある富豪の姿に身を変えて、 その者の為に法を説き、

また、居士の姿でないと、出家して悟りを求めない者には、すぐに居士の姿に身を変えて、 その者の為に法を説き、

また、上級の役人(宰官)の姿でないと、出家して悟りを求めない者には、すぐに上級の役人の姿に身を変えて身を現じて、 その者の為に法を説き、

また、バラモン階級の人間(婆羅門)の姿でないと、出家して悟りを求めない者には、すぐにバラモン階級の人間の姿に身 を変えて身を現じて、その者の為に法を説き、

また、比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷の姿でないと、出家して悟りを求めない者には、すぐに比丘(びく)・比丘尼(びくに) ・優婆塞(うばそく)・優婆夷(うばい)の姿 に身を変えて身を現じて、その者の為に法を説き、

また、長者(金持ち)・居士(僧侶と等しい知識のある在家信者)・宰官(上級の役人)・婆羅門(バラモン階級の人間)の婦女の姿でないと、出家して悟りを求めない者には、 すぐに婦女の姿に身を変えて身を現じて、その者の為に法を説き、

また、童男(男の子)・童女(女の子)の姿でないと、出家して悟りを求めない者には、すぐに童男・童女の姿に身を変えて、 その者の為に法を説き、

また、天・竜・夜叉(やしゃ)・乾闥婆(けんだつば)・阿修羅(あしゅら)・迦楼羅(かるら)・緊那羅(きんなら) ・摩睺羅伽(まごらか)・人・人間でない者たちの姿でないと、出家して悟りを求めない者には、すぐにこれらの者の姿に身を変えて、その者の為に法を説き、

また、執金剛神の姿でないと、出家して悟りを求めない者には、すぐに執金剛神(しゅこんごうしん) の姿に身を変えて、その者の為に法を説くのである。

無尽意よ。
この観世音菩薩はこの様な能力(功徳)を完全に身に付け、あらゆる者の姿に化身しながら、恐れを抱く事無く、様々な国に赴いては衆生を苦界より抜け出させて 悟りの世界に渡すのである。この事より、汝らは、必ず一心に観世音菩薩を供養しなければならないのである。

更に、この観世音菩薩・摩訶薩は、急な災難に遭遇して、恐れや不安な気持ち(怖畏急難)の中に身を置いたとしても、良く、これらを取除く智慧 を授けて自信を取り戻させる(無畏)。この事より、この娑婆世界のすべての者はこの菩薩を施無畏者と名付ける。”

無尽意菩薩は仏に向かって明らかに述べた。
”世尊よ。我れらは、今、この場にて観世音菩薩を供養する”と。

そして、無尽意菩薩は、価値にして百千両の金と等しく、様々な宝珠(丸い宝石)を集めて作られた瓔珞(らくよう)を 自分の首から外し、それを観世音菩薩に差し出すと、この様に述べたのである。

”仁者(情け深い人)よ。
今までの法施三施の一つ)に答えて、 この珍しい宝石で作られた瓔珞を受け取って下さい。”と

しかし、観世音菩薩は、決してこの瓔珞を受取ろうとはしなかったので、更に、無尽意は観世音菩薩に向かって 明らかに述べたのである。

”仁者よ。
我れらを哀れんで(大悲=無縁の慈悲)、この瓔珞を受取って下さい。”

その時、仏は観世音菩薩に告げられた。
”今、この無尽意菩薩、及び四衆・天人・竜神・夜叉・乾闥婆・阿修羅・迦楼羅・緊那羅・摩睺羅伽・人・人でない者たちを 哀れむのであるならば、必ずや、この瓔珞(らくよう;首飾り)を受取るのである。”

すると、直ぐに観世音菩薩はそれぞれの四衆及び天人・竜神の人でない者たちを哀れんで、その瓔珞を受け取り、二つに分けた。 そして、一つを釈迦牟尼仏に差し上げ、もう一つを多宝仏塔に差し上げたのである。

”無尽意よ。
観世音菩薩は、この様に自分の思いのままに身を変えられる不思議な力(自在神力)を備えている為に、 この様な娑婆世界であっても、気楽な気持ちで人々に法を教えられるのである。”




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