十功徳品/無量義経
--------十 功 徳 品 偏-------





この章で終わりです。
これまで、私たちの様な女子大生に付き合って下さり、ありがとうございます。 私達が翻訳した教えを読んで下さった人に、観音菩薩の加護が有ります様に!

担当:人文2年 小野 雪


参 照


見ずらいサイトで、
ごめんネ!(´ДÅ)ょゎょゎ

下記のホームページに全訳が掲載しています。




フリー百科事典
『ウィキペディア』
法華経


参考サイト

仙学研究舎

中国史

中国史地図





語句の説明
・グーグル辞書で調べる事が 出来るようしてある。
・特殊な語句は分かる範囲で、 説明する。
( ゜д゜)ノ ョロ!!


・功徳(くどく)
良い事を積み重ねる事で得られる人格や才能の事

・想(そう)
五蘊の中の想で、印象を指す。

・持経者(じきょうしゃ)
常に経典を受持(信受持続)して読誦を行う者。それに対して、戒律を厳重に守る持戒者がいる。

・宗仰
 国中の人々が敬慕する

・百劫(ひやくこう)
 小乗の菩薩が三大阿僧祇劫の行を終えて等覚の位に至り、この位において三十二相を感ずべき  福業を修する期間

・十福業事
1.布施- 分かち与えること。施しを行うこと。
2.戒- 五戒に始まる様々な戒律を守ること。
3.修習- サマタ(止)やヴィパッサナー(観)を実践すること。
4.止・観の二種の実践を基本的に修習と呼ぶ。しかし道徳に反しない世俗の知識を学ぶこともここに含まれる。
5.尊敬、恭敬- 目上の者や年長者を敬うこと。
6.作務- 看病することや、他人の用事や仕事を無償で手伝ってあげること。
7.回向、所得の施- 自分の成した善行為の功徳を他に振り向けること。
8.功徳の随喜、所得の随喜- 他人の善行為に共感し喜ぶこと。
9.聞法- 法を聞くこと。道徳に反しない世俗の知識を聞くこともここに含まれる
10.説法- 法を説くこと。
11.見直業- 正しい見解(正見)を持つこと。善悪の行いに報いがあるとすることなど

・無生法忍(むしょうぼうにん)
一切のものは不生不滅(空性)であると認める事。無生法忍は菩薩の階位の中の十住


---編 集 録---

今年も早いもので年の瀬を迎える事に成りました。清水寺の「今年の漢字」は『安』に決まりましたが、 「不安」の「安」だか、「安心」の「安」だか、分かりません。私たちにとっては、就職難の「難」にしたい気持ちです。

こんにちは、皆さん
お元気でしょうか?私たちは、相変わらず元気です。今は年賀状に追われる日々を迎えています。皆さんは、もう書きましたか? なんだか、一年が過ぎるのは私だけでしょうか?

では、中国史をどうぞ!唐から五代十国時代までです。

雪;
「なぜ、史上初の女帝が生まれたのですか?」
鈴音;
「649年、太宗が崩御すると、 長孫 無忌の計らいで 第9子の李治が第三代皇帝に即位し、翌年には王氏は皇后に立てられた。しかし子に恵まれず、 55年には王皇后を廃后し、武照を立后(武則天)させると、王皇后と蕭淑妃を毒殺した。

その後、武皇后によって垂簾政治が始まる。660年、新羅 の請願を容れ百済討伐の軍を起して百済を破り、3年後には白村江の戦いで倭国・百済遺民の連合軍を破り、 68年には高句麗を滅ぼして朝鮮半島を統一した。

76年、唐・新羅戦争で敗北すると、唐は朝鮮半島を新羅に奪われた。また、外戚の長孫氏が皇后である武氏の一派によって追放され、 唐の実権は武后に移り、高宗(李治)は毒殺された。

83年、中宗が即位すると、武則天 を排除しょうとしてクーデターを起こしたが、ハイ炎に邪魔されて廃位され、湖北に流された。 翌年、弟の睿宗が即位するが、 90年には武則天が自ら聖神皇帝と称し、睿宗を太子に格下げすると、武周朝を築いた。

705年、病気が重くなり、武則天は張柬之の助言により、中宗 に譲位して国名を唐に戻すと死去した。710年、韋皇后 は武三思らと結託して娘の安楽公主とともに中宗を毒殺し、末っ子の重茂を殤帝にした。

しかし、1っヶ月後には叔母の太平公主 と従兄の李隆基によって韋后母娘とその一族は殺害され、再び睿宗が即位した。 12年、玄宗に譲位し、太上皇帝を称した。翌年、玄宗は対立する太平公主を殺害して独裁体制を取る。

16年に太上皇帝が崩御するが、唐の絶頂期を迎える。40年、玄宗は息子の妃(楊貴妃) に溺れ、政権を宰相・李林甫に委ねた。しかし、李林甫が死去すると、55年に 安史の乱が勃発した。

その為、玄宗は安禄山の攻撃を受けて蜀(四川省)へと避難すると、 禄山が燕朝を開いた。そして、玄宗の三男:李享が自ら粛宗に即位して討伐軍を起こすと、 楊国忠が暗殺され、 楊貴妃も玄宗によって殺され、玄宗は上皇に成った。

57年、安禄山が自らの息子:安慶緒に殺されると、粛宗らは長安に帰還した。その後も、唐軍と安史軍の膠着状態が継続し、 更に李輔国は張皇后が対立した。 62年、玄宗・粛宗が共に崩御すると、李輔国は張皇后と李係を殺害して李豫を代宗に即位させた。

代宗は宦官の程元振を使って李輔国を殺害するが、 再び程元振に実権を握られ、これより宦官勢力が増大して行く事に成る。 翌年、吐蕃の侵攻により長安を一時的に奪われた。79年、崩御して長男が12代皇帝・徳宗に即いた。

楊炎の助言により節度使を抑制すると、節度使の反撃を受けて長安を追われた。84年、『罪己詔』を発して 節度使に対する不介入を約束した。 この為、唐の権力は衰退し始めた。

805年、徳宗が崩御して 順宗が即位すると、 官吏腐敗を一新・地方への財源建て直し・宦官からの兵権を取り返そうとするなどの永貞革新の政策を行ったが、 病気の為に長男に譲位した。

05年8月、憲宗が即位すると、 反抗した河南二鎮を打って地方の統制強化をした。更に、河朔三鎮 を帰還させて契丹の進行を食い止め、また反抗する藩鎮の討伐軍を宦官に委ねて、唐朝を復興させた。

しかし、太子の李寧が早死すると、憲宗はその悲しみから仏教や道教に耽溺する。やがて、大規模な供養したり、 丹薬を乱用し宦官を虐待した事で、20年に宦官・王守澄によって暗殺された。

その後、王守澄は憲宗の三男が穆宗に即位させると、宦官に依る派閥闘争 (牛李の党争)が激化した。 そして、長命のために道士が勧めた金丹による中毒により、穆宗は31歳で崩御した。

穆宗の長男・李湛が12才で敬宗に即位すると、郭太后が宰相に敬宗の補佐を命じた為、外戚政治に終止符が打たれた。 やがて、敬宗は朝政より距離を置き、ポロや角力、夜猟などの遊興にふけり、力士たちを臣下にして宦官たちを迫害し始める。 その為、宦官によって敬宗は暗殺された。

826年に敬宗が劉克明によって殺害されると、劉克明と対立する宦官の王守澄派により皇帝に擁立された。 そして、文宗は宰相や李訓らと図って宦官の討滅をやると、35年に 甘露の変が起こり、文宗が幽閉された。

40年、幽閉された文宗が病死すると、宦官の仇士良らによって、穆宗の五男・頴王が 武宗に即位する。 その後、武宗は李徳裕を宰相に登用し、宦官勢力の抑制や中央集権体制の立て直しに努めた。

また、道教に傾斜するあまり廃仏令(会昌の廃仏)を出し、46年には丹薬による中毒死する。 その後、宣宗が宦官の馬元贄によって即位した。宣宗は裴休らを採用し、李党を排除し、牛党を抑制して 牛李の党争を終わらした。

また、廃仏令を取止めるが、晩年には道教に耽溺し、59年には丹薬による中毒を起こして崩御した。 第20代皇帝・イ宗が即位すると、宦官に朝政を一任した。また、塩の値段を釣り上げた為、各地で農民の反乱が起きた。

73年、イ宗が崩御して、キ宗が即位する。キ宗も宦官に朝政を一任し、自らは享楽にふけった生活を送った。 78年には王仙芝の乱が起こり、翌年には黄巣らと合流して大規模な農民叛乱 (黄巣の乱)と成った。 80年には黄巣らが長安を陥落して大斉を建国すると、キ宗は蜀へと逃げた。

84年、沙陀族の李克用よって大斉が滅びると、 再びキ宗は長安に帰還した。その後、唐は衰退して、ある地方政権に落ちた。 85年、田令孜と河中節度使が対立して李克用軍が長安に進軍すると、再び宦官・田令孜と共に キ宗は宝鶏へと逃亡した。

その隙に、節度使の朱バイが襄王李ウンを皇帝に擁立したが、李克用軍に討伐され、88年にキ宗は帰還すると、崩御した。 宦官の楊復恭よって昭宗が第22代皇帝に即位すると、鳳翔節度使 李茂貞の反乱が勃発した。

900年、更に一部の宦官勢力がクーデターを起こした為、昭宗は退位に追い込まれ、皇太子 李裕が新皇帝に即位したが、 01年に反対勢力の宦官らによって蜂起し、昭宗 は皇帝に返り咲いた。

この頃、唐の各地では元節度使らが群雄割拠し、李克用と朱全忠が覇権を巡って争っていた。 904年、朱全忠は長安から洛陽に遷都を実施して昭宗を殺害する。

昭宗の九男を最後の唐皇帝・哀帝に即位させた。しかし、907年には朱全忠に禅譲すると、後梁の済陰王に封じられ、 翌年には一族を含め哀帝も殺された為、唐は滅亡した。

朱全忠が、後梁の皇帝を名乗ると、各地でも皇帝を名乗る者が現れる五代十国時代を迎えた。」
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◆十功徳品/無量義経

ここからは十功徳品/無量義経です。
この場面では、無量義経の十功徳の内の三から七までが書かれている。
この経の憶えようとする者は、煩悩を持っていても、多くの悩みが消える。 または、他人を涅槃に渡すことが出来る。欲会から離れる事が出来る。

すべてのものに自性が無い事を認める。

●翻 訳 2

良識ある者(善男子)よ。
三番目に、無量義経の不可思議の功徳力とは、もし、ある衆生(菩薩の別名)が居たとして、この者がこの教えの一度の説法、 或いは一つの賛美歌、或いは一つの短い文(句)を聞いたならば、

数えられない数(百千万億)の義(正しい事)を知り尽くし、煩悩がある身でも煩悩が無くなった状態と同じように成り、 生老病死に出入しても恐れる事が無くなる。

更に、多くの衆生が他者を憐れむ心を起こし、どのような事が起きても、琢磨しく生きていける想い(雄建想)を抱くであろう。 それは、どの様な重い荷物でも担いで運ぶ事が出来る勇敢な力持ち(力士)の様に、

また、この経を音読する者(持経者)も、同じである。これ以上無い悟り(菩提)と言う貴重な宝を背負ながらも、 責任を持って衆生を生死の道(四苦八苦)から抜け出させる事が出来る。 未だ、自らの力で悟りの境地に到らないとしても、すでに彼岸に渡ったのと同じである。

その事は、この様な船頭と同じである。船頭が重い病に掛かって手足が不自由に成り、船を漕ぐ事が出来無くなった。 しかし、岸にしっかりと止められた船は、丈夫で何処も壊れていなかった。

そして、船頭は常に述べた。「この船は沢山の者を向こう岸に渡せる。この船はもはや自分の物ではない。 この岸を離れて彼岸に行く者に与えよう。」

この経を音読する者も、同じなのである。
五道(地獄・餓鬼・畜生・人間・天上)に触れて108種類の重い病気(煩悩)を持つ身と成っても、常に平常心を装って 道理に暗いまま(無明)、生死の苦が絶えない此岸に安住する。

しかし、安住していても、決して変わる事の無い大乗経の無量義を述べれば、衆生(人)を彼岸に渡せる。なぜなら、 説いた様に修行する者は、苦しみが絶えない世界(生死)を渡って彼岸に至るからだ。

良識ある者よ。
この教えを功徳の第三の不思議と名付ける。

良識ある者よ。
四番目に、無量義経の不可思議の功徳力とは、もし、ある衆生(菩薩の別名)が居たとして、この者がこの教えの一度の説法、 或いは一つの賛美歌、或いは一つの短い文(句)を聞いたならば、

琢磨しく生きていける想いを抱き、未だ、自から彼岸(涅槃)に渡っていないにも関わらず、他人を涅槃に渡らす事が出来る。 そして、沢山の菩薩たちを支持して信者になる。

やがて、沢山の仏が救いにやって来て、常にこの人に向かって法を演説し、この人が聞き終わると、 すべての教えを覚える事が出来、迷うこと無く教えに従う。また、相手の能力に合わせてこの法を細かく説いた。

良識ある者よ。
この人をこの様に例えられる。ある国王と夫人との間に王子が生まれて、一日、二日、七日が過ぎ、 更に、一月、二月、、七月が過ぎ、更に、一年、二年が過ぎ、七歳に成った。

王子は領地を整え無くても政治に参加しなくとも、家臣たちから一族の長として尊敬され、 数多くの偉大な王の子たちと仲間に成った。

王と夫人は、息子を心配するあまり(愛心偏重)、常に励まして共に語り合った。 なぜなら、我が子は余りにも未熟で弱々しかったからである。

良識ある者よ。
この経を音読する者も、また同じなのである。諸仏の国王と、無量義の夫人が、 協力しあって、二人で菩薩と言う我が子を産んだのである。

もし、この菩薩が、この経を聞く機会を得て、それの経の一句だけでも、或いは一偈(仏への賛美)だけでも、 或いは、その経を一回だけでも、或いは二回、十回、百回、千回、万回、或いはガンジス河の砂と同じ数ほど、経を唱えたならば、

真理の姿を見極める事が出来なくても、 また、三千大千国土 を轟かす雷雲の様にお経を唱えて、偉大な法を説かなくても、

すでに、あらゆる四衆(比丘・比丘尼・優婆夷・優婆塞)・八部衆 から尊敬されている。そして、様々な大菩薩に使え、様々な仏たちと深く関わり、仏の秘密の法を忘れる事も、 間違う事もなく、多くの人に聞かせる事が出来るように成る。

更に、常に様々な仏たちから見守られ身と成り、仏教を学びはじめた事により、仏たちの深い愛情に包まれるだろう。

良識ある者よ。
これが、この経の功徳の第四の不思議な力と名付ける。

良識ある者よ。(善男子)
この経の五番目の不思議な功徳の力とは、お釈迦様がいた世、或いは去った後の世おいて、 良識をもってる男子、或るは女子が居たとする。

そして、彼らが非常に奥深くてこれ以上無い教えの大乗無量義経を手にし、お経を唱えたり、お経を書いたりして、 お経を覚えようとするならば、

この者たちが、更に煩悩に縛られていても、未だに四諦を知らない人持っている様々な欲望や執着心 (諸凡夫事)を遠ざけて離れる事が出来なくても、 大乗の菩薩に成る道を示して説く事が出来た。

菩薩が仏の三十二相を身に付ける修行の百劫について一日中説明し、その百劫を持って菩薩道に入るように促す。 そして、他の衆生(人)を喜ばせて信じさせると、皆を菩薩道(六波羅蜜)に入れる事が出来たのである。

良識ある者よ。(善男子)
この善男子や善女人を例えるなら、龍の子供が生まれて始めにやる事と同じである。それは、生まれて七日目に 雲を集めて雨を降らす事である。

良識ある者よ。
これが、この経の功徳の第五の不思議な力と名付ける。

良識ある者よ。
六番目のこの経の不思議の功徳力とは、仮に、仏が生きていた世、或いは仏が滅度した後の世において、 ある良識ある男子か、女子が居たとする。

そして、彼らが仏教の教えを心に刻む為に、この経典を声に出して読む者であるならば、 自らは煩悩を持って居たとしても、 衆生(人々)の為に、生死を悩ませる煩悩を遠ざけて、あらゆる苦を断つ法を聞かせる事が出来る。

衆生はこれを聞き終えると、聞いた法に従って修行し、八正道及び四果を得られるだろう。 それは、如来である仏が説いた教えと等しく、差は無いのである。

例えば、この王子と同じなのである。王子がまだ幼いと言っても、もし、王が各地を巡り歩いたり、病気に成った時には、 この稚い王子に国事や領地管理を委ねる。

そして、王から命令が出された時、王子は大臣や官僚たちにその内容を伝え、更に広く世間に行き渡わたらせて国民や領地を 整えるよう命令した。

その後、各々がその要件に従い、大王が治めている時と、何ら変わる事が無かった。即ち、経を持ってお経を唱える 良識ある男子(善男子)や女子(善女人)も、これと同じである。

またまた、この様である。仏が生きていた世に於いても、また仏が去った後の世に於いても、この善男子は、未だに最初の不動地 (空の悟りが得られた状態)に辿り着か無くても、

昔、仏によってこの様に説かれた教えを世間に広め、その教えを演説したらば、それを聞き終えた衆生(人々)が、 一心に修行すれば、煩悩を断ち切って除き、法(十二処)、果(悟りの境地)、道(智慧)を得る事が出来るだろう。

良識ある者(善男子)よ。
これをこの経の第六の功徳不思議の力と名付ける。

良識ある者(善男子)よ。
この経の七番目の不思議な功徳力とは、仮に良識ある男子か、女子(善男子、善女人)が居たとする。そして、 仏がいた世、或いは仏が去った後の世に、この経を聞いて、疑い無く信じて喜びが湧き上がる不思議な心を起こし、

教えを深く心に刻む(受持)為に、お経を唱え(読誦)、お経を書写し、教えを説明し、説明した通に修行し、 衆生救済の道(菩提心)を歩む事を決心する。

そして、無貪、無瞋、無癡などの善根に目覚め、 喜んで他人の苦しみを抜きたいと言う気持ち(大悲の意)を起こして、 色々と悩み苦しんでる人々(衆生)、すべてを涅槃に渡らせようするならば、

未だに六波羅蜜を修行しなくても、自然と六波羅蜜を実践し、身をもって すべてのもの不生不滅である事を認知(無生法忍)するであろう。その時、一瞬にして煩悩による生死の苦を消し去り、菩薩の第七地である 遠行地に昇る。

譬えるなら、王の怨敵を退治する勇敢な人の様である。その者が完全に王の怨敵を退治すると、王は大いに喜び、その者に褒美として 国の半分の領土を与えて領主にした。

この経を唱えて心に銘記する良識ある男子や女人(善男子・善女人)も、また、この勇者と同じなのである。 沢山の修行者の中で最も優れた勇士であり、自ら法宝の六波羅蜜を探し求める無くても、やがてそれに辿り着いて得る。

そして、自然と憎むべき敵の生死の苦が崩れ落ち、半ば仏国の宝である「すべての存在に自性は無い事(無生忍)」を 証すと、賞を与えられて心身が穏やかで満ち足りる様に成った。

良識ある者(善男子)よ。
これをこの経の第七の功徳不思議の力と名付ける。






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