南無妙法蓮華経
--------授 記 品 偏-------

 

  私たちが法華経をテーマに選んだのは、
  お釈迦様が私たち、人に何を伝へたかったのか、を知る事で人間本来の生き方が見えて、来る様な気がしたからです。
  もう一度、自分自身を見つめ直すキッカケが作られたら幸いです。  
  

   担当:国文学科3年 木村来菓(らいか)


参 照


見ずらいサイトで、
ごめんネ!(´ДÅ)ょゎょゎ

下記のホームページに全訳が掲載しています。


妙法蓮華経

フリー百科事典
『ウィキペディア』
法華経


参考サイト







語句の説明
・グーグル辞書で調べる事が出来るようしてある。
・特殊な語句は分かる範囲で、説明する。
( ゚д゚)ノ ョロ!!


・奉覲(ぶこん)
仰ぎ見る

・最後身
最後の肉体で、今生で因果の輪廻から離れて無余涅槃に入る事

・穢悪(ちあく)
汚らわしく悪い物

・魔
奪命、破壊、乱、障害の意味
・四魔
1.煩悩(ぼんのう)魔
人間のもつ執着や欲望
2.五蘊魔(ごうんま)
苦しみを生じさせる陰魔(おんま)
3.死魔
死そのものの
4.他化自在天魔(天魔波旬)
人々が正しい道に進むことを妨げること

・天眼(てんがん)
あらゆるものを見通す超自然的な知覚能力

・大雄猛(だいおうもう)
大いに勇敢な人


---編 集 録---

今日は、皆さん
紅葉の色も深まり、時折り木枯らし吹く季節に成りましたね!。私たちは小春日和の日を見つけては法華経の 訳のために、寺めぐりをして仏教について、調べている忙しい日々を過ごしています。

皆さんはどう過ごしているのでしょうか。?さて、また前回の話の続きを致しましょう。
摩耶:
「あなた達も、善を運ぶのを手伝ってね。」
と言いながら、私たちを台所へ案内しました。そこには私たちが今までに目に触れた事の無い物ばかり、 目に映って来ました。
私たち:
「先輩、これは何ですか?」
摩耶:
「かまどです」
私たち:
「この竹は?」
摩耶:
「火起こし用です」
私たち:
「電気釜で、ご飯を炊いた方が楽じゃないですか、摩耶先輩?」
摩耶:
「これも、修行の一つであり、楽をして業を深める事はしない。」
私たち:
「どんな修行になるのですか」
摩耶:
「どう言う米でも、同じ様に炊くこと」
私たち:
「簡単ではありませんか?米を磨いで、水を手の甲まで入れて、蒔きに火をつけて炊けば良いだけです」
摩耶:
「それで、上手くいけば誰も苦労しない。第一、米の種類がどの位あるのか分かっているのか?」
私たち:
「分かりません。でも米は米です。」
摩耶:
「あほ、産地や種類により、でん粉質や粘りが異なり、水加減や火加減がことなる為、同じ様に炊くことは難しいのだ」
私たち:
「仏教と、どんな関係があるのですか?」
摩耶:
「う〜ん。この事から空を見、因を見、縁を見、果を見る。また、空を感じ、因を感じ、縁を感じ、果を感じる。 また、空を思い、因を思い、縁を思い、果を思う。また、空を示し、因を示し、縁を示し、 果を示す。 また、空を説き、因を説き、縁を説き、果を説く」
私たち:
「仏教は奥が深いのですね」
摩耶:
「まあ、早い話が何をやるにしても、関心を持てと言う事かナ?」
----続く。

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◆授 記 品(じゅきほん)

ここからは、授記品(じゅきほん)です。
前回の薬艸諭品では仏がどの様に衆生を導き、その教えが人の心をどう染めて行くかが描かれていました。 仏の教えは一つであるが、人の心や智慧や住む場所が異なる為に、その姿は異なる。

授記品では信解を行なった摩訶迦葉に、お釈迦様が仏の記を授け、それを聞いていた他の弟子たちがお釈迦様に 自分たちも、記を授けてもらために、乞い願う場面が描かれている。

------続く

●翻 訳 一

この偈(詩)を読み終えた時に、世尊は諸の大衆にこの言葉を告げようとして、お述べになりました。

「我がこの弟子、摩訶迦葉は未来世において、必ずや、三百万億の諸仏世尊を仰ぎ見て、供養・恭敬・尊重・讃歎し、 沢山の人に、諸仏の無量の大法を普く伝えるだろう。そして、この世に生まれ来る最後身に仏と成り。

名を光明如来・応供・正遍知・明行足・善逝・世間解・無上士・調御丈夫・天人師・仏・世尊と言い。 国を光徳と名付け、その時を大荘厳と名付ける。

その仏の寿命は十二小劫(十二支因縁)であり、入滅後は二十小劫の正法の時代が続き、その後、 二十小劫の像法の時代を迎えるだろう。

この部分は仏教教団が解釈や戒律をめぐり、部派分裂や大乗思想運動を起こして、互いに対立した事を描いたとされる。その後、20部派に 分かれた教団を一つにまとめ用として法華経が生まれたと聞いている。正法は小乗仏教、像法は大乗仏教を表しているが密教は呪文や偶像崇拝に かたより過ぎて、邪教とされた。古代インド哲学は62劫から成り立っていたので、劫は時間より哲学の数の方が良い。

国界は厳粛に飾られていて、色々な汚らわしく悪い物・瓦礫(がれき)・荊棘(いばら)・便利(便所)などの不浄なものが無く、 更に、その土は明らかに平であり、高下(上がり下がり)・窪みや穴・高く積まれた土などがある事が無いのです。

また、地面は瑠璃で覆われていて、道には宝樹の木が並び、その片側を黄金の縄で仕切られており、 色々な宝華が満遍に散りばめられて、とても清浄いものでありました。

その国には千億と言う数え切れないほどの菩薩が居り、また、その教えを聞く、色々な声聞たちも、多数いましたが、 皆、心にを差す事など無かったのです。もし、 魔及び魔性の者が居たとしても、皆が仏法を守って暮らしていたのです。」

その時に世尊は再び、この意味を伝える為、偈(詩)で諭す様におしゃたのです。
「諸の比丘に告げる!我が仏眼をもって、この迦葉を見た時。この者は無数劫が過ぎた未来世において、必ずや仏になる事が出来るであろう。

そして、来世において、三百万億の諸仏世尊を供養し、仰ぎ見る。また、 仏の智慧をもって、清く梵行を修行して、 最上の二足尊(お釈迦様)を供養し終わり、この上ない智慧をすべて身に付けた後、最後身において仏に成ることを得るのです。

その土は清らかで汚れがなくて、地面は瑠璃で覆われ、様々な宝樹が生い茂り、道の片側に並んで生えている。また、 もう片方は金の縄で道を区切り、見る者を喜ばす。

常に、好む香りを立て、名のある花々を散りばめ、数々の不思議な様をもって荘厳するが、その地は明らかに平坦であり、 丘や深い穴が有った事など無い。

様々な菩薩たちは無駄に名を欲しがるな。!柔軟に心を調整しながら、大神通に達して数々の仏の大乗経典を賜わりなさい。 無漏の身を得た様々な声聞達の最後身は法王の子となる。また、これを疑う事なかれ!

そして、天眼を持ったからと言って、仏の寿命を数え知ることなかれ、本当に、その仏の寿命は十二小であり、正法が世に住するのは二十小劫であり、 また、像法が住するのは二十小劫である。まさに、光明世尊はこの様にあるのです。」

その時に、大目健連(だいもつけんれん)・須菩提(しゅぼだい)・摩訶迦旃延(まかかせんねん)ら、皆は一人残らず、驚愕して身を震わしながら、 一心に合掌して世尊をあおぎ見ながら、少しも、目をそらす事は無かった。

そして、共に声を合わせ、偈(詩)をもって分かる様に申し上げました。
「大いに勇敢なる世尊、諸の釈迦族の法王、我らを哀れみなされて、そして、仏のお言葉を賜り下さい。

もし、我が心の深き所を御承知なされて、記を授けて下されば、 甘露水を灑いで熱を取去り、清涼を得た様な気持ちに成るでしょう。

それは飢えたる国より来って、急に大王の膳の前に座らせられたとしても、心に恐れと疑いを抱き続けて、未だに食事を取れないでいるのです。 もし、再び王の教えを得たならば、その後になって、強いて食事する事が出来る様にです。我らも、また同じなのです。

常に、小乗を信じた罪ではないかと考えながらも、本当にどの様にして、仏のこの上ない智慧を得る道を知らないのです。 仏が声にして”汝ら、成仏せよ”と言うを聞いたとしても、我が心はなおも不安と恐れをなしていて、 未だ食事できないのと同じなのです。

もし、仏から記を授けられたら、快く安楽な気持ちになる事ができるでしょう。 常に人の世の平穏を望んでおられる大勇猛なる世尊、 叶う事なら、我らに記を授けて下さい。我らは空腹の状態でお教を待って、食事したいと願っている様なものです。」

その時に世尊は諸の大弟子が抱いている心の内を承知なされて、諸の比丘に告げたのです。
この者、須菩提(しゅぼだい)は来世において、 三百万・億・兆と言われる数の仏を仰ぎ見て、

供養(香・華・飲食物などを供えること)・恭敬(つつしみうやまうこと)・尊重(尊いものとして重んずること)・讃歎し(非常に感心してほめること)、 常に梵行を修行し、菩薩の道(六波羅蜜)を身に付け、最後身において仏に成る事が出来るだろう。

そして、その仏の名は名相如来・応供・正遍知・明行足・善逝・世間解・無上士・調御丈夫・天人師・仏・世尊と言い。劫(時)を有宝と名付け、国を宝生と名付けるだろう。

その土は明らかに平坦で地は頗黎(はり)から成り、宝樹でもって厳しくに飾られている。そして、諸の丘・穴・砂・小石・棘のある木・便所などの汚れなく、宝華が地に覆いう様に生えていて、 周囲を普す事無く清らかで汚れがない。

その土に住む人民、皆は宝石を高く積んだ土台に建てられた非常に美しい楼閣に住んでおり、その声聞の弟子は無量無辺の数ほどにのぼり、数字で書き表して知る事が出来ないほどである。 また、諸の菩薩たちも、千万億那由他と言う無数ほどおります。

仏の寿命は十二小劫(二億年)であり、その仏が入滅後に正法が二十小劫(三億四千万年)続き、また、それが過ぎ去った後において像法が二十小劫続く。

その仏は常に、虚空(物質が存在しない世界)の所に身をおいて、数え切れない菩薩や声聞の弟子たちの為に法を説き、皆を苦海から脱出させて涅槃へと渡らす。

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