南無妙法蓮華経
---常 不 軽 菩 薩 品 偏---

 

  女の子が書いたhpだから、
  信用できないと思うかもしれませんが、自分達に成りに努力し、確信を持ってhpを書いていますので、
  是非、私たちのhpに遊びに来てくださいね!。
   
  

   担当:社哲学科2年 牛島 由紀


参 照


見ずらいサイトで、
ごめんネ!(´ДÅ)ょゎょゎ

下記のホームページに全訳が掲載しています。




フリー百科事典
『ウィキペディア』
法華経


参考サイト



プラボットの異端児
短歌入門


儒教の歴史

東アジアの古代国家



語句の説明
・グーグル辞書で調べる事が出来るようしてある。
・特殊な語句は分かる範囲で、説明する。
( ゚д゚)ノ ョロ!!


・比丘(びく)
僧侶や出家信者の事

・比丘尼(びくに)
尼さんや女性の出家信者

・優婆塞(うばそく)
在家信者

・優婆夷(うばい)
女性の在家信者

・悪口(あっく)
十悪の一つで、人を悪く言う事である。原因は傲慢から来る嫉妬である。
また、十悪とは身口意が作る三業の事。

・虚空について
仏教ではすべての感情が消えて、あらゆるものを受け入れられる心の状態の事(無心)を虚空としている。

・神通力(じんつうりき)
あらゆる事を見通す力

・楽説弁力(らくせつべんりき)
自由に法を説いてあらゆる人を説得する力

・大善寂力(だいぜんじゃくりき)
善を持ってなにものにも動かされない力、平常心




---編 集 録---


・夏の駅
・頭を垂れる 熱き人
・一票の重さ 背にして歩く
<解釈>

この短歌は、いつもの様に大学へ行こうと駅に行った時、「○○を宜しく」と、握手を求められた時に 読んだものです。



今日は、皆さん
お元気でしょうか?。最近は、選挙演説で騒がしい日々が続いていますね。ところで、皆さんは、どの党に関心が ありますか?。

ちなみに、新聞やテレビでは○○が32%、○○が30%と出ていました。また、テレビタックルでは約70%が○○ だそうですが、この予測はあてにならないとジャーナリストが言っていた。この予測は電話調査で調べてものでは なく。友達に聞いて立てた予測だそうです。

つまり、当てにならないものでないと公職選挙法に触れるからだそうです。また、ブログなどで、特定の人を 書いてもダメだそうです。ですから、これ以上書く事が出来ません。では、前回の続きをどうぞ。

由紀;
「儒教はと言うのは孔子が考えたのでは?」
鈴音;
「厳密に言うと違うのです。春秋時代の頃に成ると、周王朝に変わりに覇者 が登場する様になり、その覇者が斉→宋→秦→晋→楚と変わり行く中で、楚がヒツの戦いで 晋を倒して、中原を支配すると諸侯同士の戦いは減少して行ったが、

今度は大夫(たいふ)・士(し)と呼ばれる中級・下級の貴族同士が諸国の実権を握ろうとして、戦いを繰り広げる 下克上の風潮を迎える様に成り、伝統的な身分体制の崩壊を招いた。

中でも、晋の六卿と呼ばれる六氏(知・魏・韓・趙・中行・士)や斉の五氏(国・高・鮑・崔・慶・陳氏)などは 互いに同盟を結んだり、戦ったり、主君を殺害したりした。

この様な社会状況下で、古き良き時代の周王朝の武王の頃に戻ろうとする動きがあった。 それが、の孔子が唱えた 論語であったのです。

孔子の母、顔徴在(がんちょうざい)は「儒」と呼ばれる呪術師の家系であった。当時の呪術師は 地位も低く、現在の葬儀屋と変わらない仕事内容であった言われている。

孔子は農作業を行いながら貧しい生活を送り、15才の時に学を志した。彼が学んだものは儒の一族による「裏の学問」と、 古の賢人達が残した君子の政治学だった。そして、狭義のシャーマニズムの限界を知って人と社会の関り(倫理)について学ぶ様に 成ったのです。

そして、孔子は役人を辞め、中国史上初の私塾を創設して多くの弟子を取り、やがて、弟子の中から 孔門の十哲と呼ばれる者が表われる 様に成る。

孔子は、孔門から月謝を取る事はなかったが、替わりに儀式や冠婚葬祭を周礼にのっとり行うことを請け負って生計を立てていた。 この事から、他人から「興行任侠」と呼ばれる事があったのです。

孔子を始とする儒家の思想は、周の王室を中心とする封建制の秩序の回復であった為、六芸(禮・樂・射・御・書・數) に秀でた人材を養成して、諸侯の家臣に採用させようとするものであった。

その為に、当初、諸侯は成上がってくる卿や大夫や士を牽制するのに儒家を利用するのだが、礼に厳し過ぎて仁や義を 重んじない諸侯の政治には批判的である一方、礼楽をやればやるほど、お金が掛かってしまう。

やがて、諸侯から疎まれるようになり、魯の大司寇にまで登りつめた孔子でも、国を追われて諸国を放浪するようになったのです。」
由紀;
「早い話が、中国におけるルネサンスですね」
鈴音;
「ルネサンスとは主に文化・芸術の復興の事なので少し違うげれど、ほぼ同じです。

さて、シャーマニズムのような原始儒教を整えて道徳思想までに昇華させた孔子(BC551年‐BC479年)の教えは、 その後、孟子や荀子に引き継がれるのですが、注目される事は無く、儒教が中国思想の根幹になるには、 だいぶ時間が掛かったようです。

では、話を春秋時代に戻しましょう。 下克上の風潮の中、秦・斉・楚・晋の諸侯たちは宋の向戌(しょうじゅつ)によって 弭兵(びへい)の会が行なわれた。

これによって、諸侯の君主から卿と呼ばれる貴族に政治が委ねられ、多くの名宰相(首相)と呼ばれる者が現れた。 また、法律も明文化される様になったのです。そして、時代は戦国を向かえて、 諸子百家(しょしひゃっか)と呼ばれる思想家が出て来るのです。」

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◆常 不 軽 菩 薩 品(じょうふきょうひん)

ここからは常不軽菩薩品(じょうふきょうひん)です。
この作品はお釈迦様が得大勢菩薩に法華経の教えを守って、六根清浄している者を悪口・罵詈・誹謗すると大きな罪を 犯す事になると教える場面から始まり、その理由を常不軽菩薩のたとえ話をして説明する場面を描いています。

そして、この常不軽菩薩には仏教徒のあるべき姿が描かれて、仏教を学ぶ者は誰でも知っている作品である。また、 この作品から宮沢賢治の「雨にも負けず」が生まれた事は有名な話である。

常不軽菩薩が普通の人と変わらない仏教徒に「あなたを敬います」と言うのは、人の中にある仏性を 認めている為とある解説にはあった。

常不軽菩薩がお経を読む事無く、人に「あなたを敬います」と言うだけで成仏した事をしましたのは 例え、どんなにお経を上手に読んでも意味が無く、下らない礼拝でも真剣にやる事に意味がある事を示している

●翻 訳 一

その時に、
仏は最も偉大な菩薩、得大勢菩薩(とくだいせいぼさつ)に述べられました。

”汝は、必ずや知るのである。もし、この法華経の教えを守っている男性の出家者・女性の出家者・ 男性の在家信者・女性の在家信者たちを、

陰で馬鹿にしたり(悪口)、大声で怒鳴ったり(罵詈)、大勢の人に嘘を言って彼らの邪魔をしたり(誹謗)、 したならば、大きな罪の報いを受けなければ成らないのは、以前に説明した通りである。

また、その者らが得ている功徳(善果になる善行)は、先ほど説明した様に眼・耳・鼻・舌・身・意の 汚れを落として、清らかにした事である。(六根清浄

得大勢(とくだいせい)よ。
昔に思いをはせて、数限りない時代を過ぎて、想像も付かない何百億年前の昔に、一人の仏が居たのである。
(乃往古昔。過無量無辺。不可思議。阿僧祇劫。有仏)

その仏は、名を威音王如来(いおんのうにょらい)・応供(おんぐ)・正遍知(しょうへんち)・明行足(みょうこうそく) ・善逝(ぜんぜい)・世間解(せけんげ)・無上士(むじょうし)・調御丈夫(じょうごじょうぶ)・天人師(てんにんし) ・仏(ぶつ)・世尊(せそん)と名乗っていました。

そして、その仏が居た時代を離衰(りすい)といい、また仏が居た国を大成(だいじょう)といった。

その威音王仏(いおんのうぶつ)は、彼の世の中において、天人・人間・阿修羅(あしゅら)の為に教えを 説いて下さったのである。

弟子(声聞)入りを求める者の為には、求めに応じて四諦 の法を説き、生・老・病・死の苦しみから救い出して、静かで安らいだ境地(涅槃)に至らしめた。

辟支仏(びくしぶつ)を求むる者の為には、それに応じて、十二因縁の法を説き、 それぞれの菩薩の為には、この上なく正しい完全な悟り(阿耨多羅三藐三菩提)に近付く様に、 それらに応じて六波羅蜜の法を説いて仏の智慧を極めさせるであろう。

得大勢(とくだいせい)よ。
この威音王仏(いおんのうぶつ)の寿命は四十万億・那由他(なゆたや)と言うガンジス川の砂の数と等しい年であった。

更に、仏は居ずに正しく仏法が行われ、その事が世間の人にも認めていた時期(正法)は、このインド世界(一閻浮提)を 微塵(みじん)した数に等しく。

また更に、教法と修行者がいても、悟りを開く者が居ないにも関らず、仏法が未だ世間の人には認められていた時期(像法)は閻浮提(えんぶだい)・東勝身洲(とうしょうしんしゅう) ・西牛貨(さいごけ)洲・北倶盧(ほつくる)洲の四大州を微塵(みじん)した数に等しかった。

そして、その仏は衆生に大きな利益(饒益)を授け終えた後、この世から去ったのである。

正しく仏法が伝えられた時代(正法)や、教典と修行者があっても成仏出来ない時代(像法)が過ぎ去り、 やがて仏法がこの世から消え去った後、この国土において再び仏が現れたのである。

また、その仏も威音王如来 ・応供・正ョ知・明行足・善逝・世間解・無上士・調御丈夫・天人師・仏・世尊と名乗ったのである。 この様にして徐々に増え、二万億もの仏が居る様になった。

そして、これらの仏たちは、皆が同じ一名を名乗ったのである。

最初の威音王如来が、すでにこの世から去って、正法の時代が終わりを告げた後の像法の時代において、増上慢の比丘が 大勢力を持つ様になったのである。その時に、一人の悟りを求める僧侶(菩薩比丘)が居り、名を常不軽(じょうふきょう)と言う。

得大勢よ。
どの様な理由(因縁)が有って、常不軽と名付けられたと思うか。?

この僧侶(比丘)は自分が眼にした(所見)ごく普通の人(凡有)、それが単なる比丘(びく)・比丘尼(びくに)・優婆塞(うばい) ・優婆夷(いばそく)であったとしても、それらの者たちにすべて礼拝し、褒め称えてこの様に言うのである。

『我れは深く汝らを敬う、決して汝らを粗末にしない。なぜならば、汝ら、すべての者が菩薩の道を修行して、 きっと仏に成るからだ』と。

しかし、この比丘は一度も経典を声に出して読む事無く、もっぱら礼拝をするだけであった。例えば、遠くに居る四衆を 見付けたとしても、再び同じ様に、わざわざ彼らに近づいては礼拝し、そして彼らに感心をしては誉めて、 この様に言うのであった。

『我れは、決して汝らを粗末にしない。汝らは、皆必ずや仏に成れるだろう。』と。

比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷の四衆の中には瞋恚(しんに)を生じさせ、心を汚す(不浄)者が居たのである。 そして、その者は汚い言葉(悪口)を使って、怒鳴った(罵詈)のである。

『この無知な坊主(比丘)め、どこからやって来ゃがった。自分から「私は、あなた達を粗末にしない」と言って、 そして「私たちの為に、きっと仏になるであろう」と予言(授記)するのだ。 我れらは、その様な嘘偽り(虚妄)の予言を信用すると思うのか?』と。

この様にして多くの年月が過ぎ去る中で、常に汚い言葉を浴びせられても(罵詈)、自分の意に背く者に対して 怒りや憎しみなどの感情(瞋恚)を抱く事は無く、 常にこの言葉を述べるのである。『あなたは、きっと仏に成るであろう』と。

この言葉を話した時、人々は時々、杖や木や瓦や石でこの者に殴りかかれば、この者は避け走って、遠い所から、 更に大きな声を出して言ったのである。『私は、決してあなた達を粗末に扱わない。あなた達、すべての者が必ず仏に成れるからだ』と。

常にこの様に語ったその事(以其)より、未熟であるのに仏の悟りを得たと威張る(増上慢)比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷から この者は常不軽と呼ばれたのである。

そして、この僧侶(比丘)が、無事に自らの命を終えようと、願って臨んでいる時に、ありとあらゆる物が存在しない空間(虚空、無の境地)の中において、 つぶさに威音王仏が以前に説いた法華経の二十千万億の偈(げ)を聞いたのである。(梵天勧請

 それらをすべて聞き終わって、その事を心に深く刻んだ(受持)。そして、先ほど述べた様に眼根清浄・耳根清浄  ・鼻根清浄・舌根清浄・身根清浄・意根清浄を得たのである。

この六根清浄を修得し終えると、更に寿命を増し、二百万億那由他歳となった。 そして、多くの人の為に、この法華経を説いたのである。

ところで(時に)、悟りを得たと勘違いして威張っている(増上慢)比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷の四種の者。 つまり、この人を馬鹿にして不軽と言うあだ名を付けた者たちは、

その人が偉大な神通力(じんつうりき)・楽説弁力(らくせつでんりき)・大善寂力(だいぜんじゃくりき)を 得たのを見、更にその説法を聞いて、皆が教えを信じて服従し(信伏)、つき従った(随従)。



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