南無妙法蓮華経
-----法 師 功 徳 品 偏-----

 

  私たちは、普通の女の子でも
  願い続ける事で夢が叶うと信じています。このhpも、その事を証明しょうとして、掲載した物です。   そう言う訳ですから、皆さんも協力して下さいネ!。
 
  

   担当:人文学科3年 木村 あい


参 照


見ずらいサイトで、
ごめんネ!(´ДÅ)ょゎょゎ

下記のホームページに全訳が掲載しています。




フリー百科事典
『ウィキペディア』
法華経


参考サイト



プラボットの異端児
短歌入門


儒教の歴史

東アジアの古代国家



語句の説明
・グーグル辞書で調べる事が出来るようしてある。
・特殊な語句は分かる範囲で、説明する。
( ゚д゚)ノ ョロ!!


・食瞰(じきだん)
食事を上から見る事

・羅刹(らせつ)
ヒンドゥー教に登場する鬼神ラークシャサの事あるが、元々はスリランカの水の神

・毘舎闍(びるしゃじゃ)
インド神話における鬼神ピシャーチャの事で、餓鬼の一種

・弥楼山(みるざん)
世界の中心にある山か、高山の事

・色像(しきぞう)
脳裏に焼け付けたもの姿形の事(イメージ)

・偈(げ)
仏典のなかで、仏の教えや仏・菩薩の徳をたたえるのに韻文の形式で述べたもの→伽陀(かだ)
また、偈は幾つかの句から成り立っている。

・資生の業(しせいのぎょう)
資→もと言う意味、資生→生きて行くもと、資生業→生業の素、つまり、職業

・諸法実相(しょほうじそう)
物事が起こる事は、一つの原因による物でない。

諸法→物事・あらゆる現象
実相→真実無相、真実は一つの姿ではない事、つまり因果関係で決まる事は無い

・意根(いこん)
五つの感覚をもとに情報をくみとって認識する心の働きのこと


---編 集 録---


手を取りて
君と見に行く隅田川
瞳に咲かん大輪の花
<解釈>

この短歌は隅田川の花火大会をテレビで見て読んだ一首です。何となく女性らしさを表した作品に 仕上げてみました。



今日は、皆さん
お元気ですか?。多分、皆さんのことですから元気だと思います。ところで、今月はノリピーの麻薬事件や、 台風や、地震などで、アクセス件数が大幅にダウンしました。

このままの状態が続くと300件/月となる予定です。お陰で、ノリピーの為に被害を被る事に成りそうです。 でも、本当の被害を被るのは、サンミュージック所属の小島よしお・鳥居みゆき・カンニング竹山などの タレントたちです。

彼らは、今後、ノリピーのお陰で麻薬を連想させるハイテーションのギャグは封印されるだろうとの見方が あるからである。「おもいっきりドン」での話は、この位にして前回の話しをどうぞ。

あい;
「鈴音さん、殷と周の文化的違いは何ですか」
鈴音;
「そうですね。はト辞を使って、戦争・雨の有無・祭祀から王個人の狩猟・疾病など 生活のすべてを決める神権国家であった。

殷は、もともと、モンゴル地方からやって来た遊牧民で夏王朝に仕えた事に始まると言われている。夏王朝が衰退した後、 様々な宗教改革を行なっている。

それまでは、部族は独立して、それぞれの自然神や先祖の霊を供養していたが、諸侯の其々の自然神や 先祖の霊をまとめて、部族共通の自然神・先祖神を作り、更に「帝」と言う最高神が作られた。

そして、終には自然神と殷の先祖神を同化して行き、先祖神が帝に変わって最高神になると、殷王が すべての事を独断で決められる様に成ったのです。また、この頃は様々な専門集団が出来て、優れた 工芸品が作られる様になった。

そして、殷が衰退すると殷周革命が起きて、トルキスタ系の遊牧民の周が盟主と成ったのです。周は、それまでの多神教から 天空の自然神のみの一神教として、その神の意志は占いでなく、天命 のみで知る事が出来るとしたのです。

つまり、血統と占いを基礎として正統性を保持して来た殷に対して、周は徳による天命を根拠に王位を 奪取した事になったのです。(受命思想)

そして、周は中国で初めて、様々な制度(封建制)や法令(礼)を作り、法治国家の礎を築いて行ったのです。 ちなみに、冠婚葬祭などの儀式や戸籍を作って税を取ったのも、この時代が始まりです。」
あい;
「なるほど」
鈴音;
「では、春秋時代に戻りましょう。春秋時代(BC;770〜BC;403年)の終わりに、 中国で最初の思想として、儒家思想(儒教)が誕生した所からですね。

儒教が誕生した訳は
知力や武力で国を治める覇者を批判して、殷周の様に をもって治める王道を求める徳治主義であった様です。

詳しく述べると、
殷以前のシャーマニズムを儒(呪術師の事)の母体と考え、そのシャーマニズムから祖先崇拝の要素を取り出して礼教化し、 仁愛(他人に何かをもたらす事)の理念をもって、当時、身分制秩序崩壊の社会混乱によって解体していた古代社会を道徳的・宗教的に再編 を試みたものだそうです。

儒教の教義は
五常(仁、義、礼、智、信)の徳を身に付けて、五倫(父子、君臣、夫婦、長幼、朋友)関係を 維持する事を教えるものですが、初めから孔子が五常を説いた訳ではありません。」

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◆法 師 功 徳 品(ほうしくどくほん)

ここからは法師功徳品(ほうしくどく)です。
今回で、法師功徳品は終わりです。この作品を読んで、どうだったでしょうか。?また、この作品は、後に 観音経の素となった作品だとも言われています。

この作品の内容はお釈迦様が弥勒菩薩から常精進(じょしょうじん)菩薩に変わって、法華経を信じる人の 功徳を説く場面が描かれています。

具体的には、眼・耳・鼻・舌・身の五根と意(心)の意根を清浄する事で、あらゆる現象が起きる理由(因縁)と その結果(果報)を知ることが出来る事 を述べています。更に、五根の働きと意根との関係が説明されている

ちなみに、
常精進菩薩→常に努力をする人の意味。法師→法華経の教えを大切に守る人の意味。

眼の功徳 先入観なく物事が正しく見える。
耳の功徳 微妙なところまではっきりと捉えられ真意が分かる。
鼻の功徳 さまざまな香りをかぎ分けることができる。
舌の功徳 食事がすべておいしく感じられる。また言葉が人を感動させる。
身の功徳 清らかな身のために、美しく健康になる。
意の功徳 清らかな心のために、多くの人が会うことを願うようになる

●翻 訳 三

その時に、
世尊(お釈迦様)は、再び、この意味を伝え様として、歌(偈;げ)を用いて分かる様に述べた。

”この人は舌根が清らかである為、食べ終わるまで悪味(苦味や渋味)を受ける事は無いのである。 その食事を上から覗いて見たとしても、すべてが非常に美味しい物(甘露)に見えるであろう。

奥が深くて清らかな不思議な声で、大衆に向かって教え(法)を聞かせる時、数々の物事の成り立ち(因縁)や たとえ話をして、三界を輪廻する者たち(衆生) の心を正しい道に導き、そして、法を聞いた者、皆が喜んで数々の最上の供養をするのである。

沢山の天上人や竜人(ナーガ)や夜叉(やしゃ) 及び阿修羅たち、皆が謹み敬う心を持ち、 一緒になって来き、法を聞くのである。

この教えを説く人が、もし、とても不思議な声(妙音=随喜方便)を使って、三千界を満たそうとするならば、 思い(意)のままにする事が出来るであろう。

大小の転輪王及び一族の千人の子らが、合掌しながら謹み敬って、常に教えを聞きにやって来るであろう。 また、多くの天神・竜神・夜叉・羅刹(らせつ)・毘舎闍(びしゃじゃ)たちも、心から喜びの声を上げて(歓喜の心)、 常に親しみを持って(楽)来て供養するだろう。

梵天王(ブラフマーの事) ・魔王(波旬の事) 自在(シヴァ派の事)・大自在 (シヴァ神)などの様な様々な天上界の神々が、常にその人の所に集まって来るだろう。

諸仏及び弟子たちは、その教えを説く声を聞き、常に無事である事を祈りながら身を守り、 ある時はその姿を現すのである。

また、次に常精進よ。
もし、良識ある青年や婦人(善男子・善女人)が、この仏の言葉(経)を聞いて忘れない様にと、ある時は読み、またある時は 声を上げて読み、またある時は人に説き、またある時は書写するならば、八百もの身の善行(功徳)を得るであろ。

善行によって清まり、汚れのない身は、まるで傷一つ無い瑠璃(ラビリンス)の様であり、生き物(衆生)が見てみたいと 願う様に成るであろう。

その身、汚れが無い為、三千大千世界の生き物(衆生)が生死する時期、力の優劣や形の綺麗・汚いがある事、 場所の良し悪しが生じる理由(生善処悪処)、それらすべてを、一つも残さず、その清い身の中に現れるだろう。

及び、鉄囲山・ 大鉄囲山・弥楼山(みるせん)・偉大な弥楼山など、数々の名山やそこに住む衆生のすべて、一つも残す事無く、 その清い身の中に現れるだろう。

下は阿鼻地獄から、上の有頂天までの間に所有する世界、及び衆生のすべて、一つも残す事無く、 その清い身の中に現れるだろう。

或いは声聞・辟支仏・菩薩・諸仏が説法したとしたら、それらすべてをその清い身の中において、 その姿を現すであろう。”

その時に
世尊は、再び、この意味を伝えようと思って、歌(偈;げ)をもって判る様に述べた。

”もし、法華経の教えを忘れなければ、その身は非常に清く、垢が無い事は、あの傷一つも無い 瑠璃の様であり、すべての衆生が会って見たいと願うであろう。

また、汚れが全く無い不思議な鏡が、この世のあらゆる物の色々な姿を映す様に、菩薩の汚れていない身だけが、 すべての世間が持ち続けている欲(所有)を見る事が出来る。ただ、自分ひとりだけがその事を、明らかに了承し、 他人をもってそれを見る事は出来ないであろう。

三千世界の中で、ただ群がって生える雑草の様な生き物たち(群萌) つまり、天上・人・阿修羅(あしゅら)、及び、地獄・餓畜生(ちきしょう)などの様々な風景や人々の姿(色像) を、すべてその身の中に現す事が出来るだろう。

様々な天上界の宮殿から有頂天に至るまで、鉄囲及び弥楼(みる)、非常に勝れた弥楼山、沢山の大海の水など、 すべてを身の中で現すことが出来るだろう。

諸仏(心を癒す物の例え)及び仏の教えを聴聞した事のある声聞や仏の弟子である菩薩らが、時には一人で、時には集団で、法を説いてる姿を、一つも残す事無く、 すべて現す事が出来るであろう。

未だ、完全に煩悩を断じて、有るがままに在ろうとする不思議な身(法性の妙身)を得ていないと言えども、 清らかで汚れのない普通の体をもって、すべてものをその体の中に現す事が出来るのである。(思い浮かべる事)

また、次に常精進よ。
もし、良識ある青年や婦人(善男子・善女人)たちが、如来(釈迦)がこの世から去った後に、この法華経を聞いて忘れ去らぬ様(受持)にと、 ある時は読み、またある時は声を出してそらんじ、またある時は人に説明し、またある時は別の紙にそれを書き写したとしたら

千二百もの意(心の働き)の功徳が得られるだろう。この清らかで汚れのない意根(先入観のない心)で、一つの歌・一つの句を聞いて、 数限り無い道理()を知り尽くすであろう。

この道理をすべて理解した後、良く一つの句・一つの歌を人に解き明かし、一月・四月・或いは一年が過ぎ、 世間で数多く説かれた教えは(所説の法)、その意味が正しいとされる所(義趣)に従がって説かれ、それらのすべてが真実でありのままの姿( 実相)であり、姿と現実が異なる事がないのである。(諸法実相

もし、世間に広まる書物・世を治めるあらゆる言葉・生きる為にする仕事(資生の業) 等を説いたとしても、そのすべてが正しい教え(正法)に当てはまるのである。

三千大千世界の六趣(六道)の生き物たちの 心の行い、心の動き、心の無意味な論争を重ねる所など、皆が一つも残す事なく、これらを知るであろう。

未だ、煩悩を離れた智慧(無漏智)を得ていないと言えども、その意根(意識)が清らかで汚れていない事は、 次に述べる通りである。

清らかである為、この人は物事を推し量って、良し、悪しを知り、その事を人に説こうとする思いを抱いたのである。 皆、これらは仏の教えであり、真実で無い物は無いのである。また、この事は過去の仏の経の中でも説かれていた。”

その時に、
世尊は、再び、この意味を伝え様として、歌(偈;げ)をもって、わかる様に述べた。

”この人の意(心の動き)は清らかであり、明らかに鋭利で有りながら、汚れに染まる事がないのである。 この不思議な意根をもって、 上・中・下の教えがある事を知って、そして、一偈(げ)を聞き、数限り無い意味を持った教え(無量義) をすべて理解する。

徐々に教えが示す通りに教えを説き、一月或いは四月、一年が過ぎる。すなわち、この世界の中に住む者や 外の世界に住む様々な衆生のすべての者、もしくは天・竜及び人・夜叉・鬼神などの者は、

その六趣の中に有って、多少の事に(若干種)思い込んで(所念)いる。よって、法華経を忘れない者の果報は 僅かな時間で、それらのすべてを一つも残さず、知り尽くすだろう。

あらゆる方向の数えられないほどの仏、百の福相を身に付けて衆生の為に教えを説くと、衆生はこれらを一つも、 残す事無く聞いて、良く心に刻み忘れ去る事が無いであろう(受持)。

数限り無い意味を持った教え(無量の義)を考えながら、教えを説く言葉も、また数限り無い言葉であった。 しかし、始から終りまで、それを忘れたり、間違ったりしないのであった。

法華経を深く心に刻んでいる為に、すべて残さず、この世に存在する有形・無形の物(諸法) の特徴(相)を知り、また、正しい道理(義)に従がって、それらがこの世に現れるまでの訳(次第)を理解し、文字や言葉(名字語言) を駆使して知る限り所を演説するであろう。

この人の説く内容は、すべて過去の仏(釈迦)の教えであり、この教えを説くのに様々な例えを挙げながら、話を進めるとしても、 大衆を前にして恐れを懐く事が無いのである。

法華経を忘れ去らぬ者は、その意根が汚れていない事は次の通りである。未だ、迷いを断っていないと言えども、 この様な特徴(相)があるのである。

この人はこの仏の言葉を忘れ去る事無く、希に見る境地に安住して、 すべての衆生から喜ばれ、尊敬と親しみを持たれるだろう。

そして、幾千万種の巧みな仏の言葉(善巧)を自ら語って、物事を良し悪しを判断させながら(分別)、説くであろう。 それは、法華経を心に刻んでいるからである。”




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