私たち、女の子のサークルは
以外と真面目に仏教を取り上げています。これは布教の為ではなく、
このhpを読んで、労働・人生・価値観などのイメージを変えてもらう為のものです。だから、気軽に読んで下さいね!
担当:現代哲学学科2年 花井 美喜
見ずらいサイトで、
ごめんネ!(´ДÅ)ょゎょゎ
下記のホームページに全訳が掲載しています。
語句の説明
・グーグル辞書で調べる事が出来るようしてある。
・特殊な語句は分かる範囲で、説明する。
( ゚д゚)ノ ョロ!!
・経(きょう)
仏が説いた言葉の事。
・深固幽遠(じんこゆうえん)
中の様子が知り尽くせないほど奥が深くて、堅固な事
・新発意(しんぱっち)
新たに悟りを求める心を起こすこと
・善男子、善女子
良家の青年や少女(学問や礼儀を身に付け普通の若者)
・随順(ずいじゅん)
人のいうことに従い逆らわないこと
・句逗(くとう)
文字や語句
・穿鑿(せんしゃく)
井戸を掘る
・決了(けつりょう)
真実をはっきりと了解して 不確かなことが少しもないこと。
”五月雨に傘を開いて雨宿り 花咲く恋に 胸は高鳴り”
ゴールデンウイークの頃、長谷観音の参拝行った帰り道、にわかに雲行きが怪しくなって、
雨が降り、困っている所に誰かが傘を差し掛けて来た時に詠んだ歌
今日は、皆さん
お元気でしょうか?、月日の流れるのは早いもので、もう五月ですね。
私たちはゴールデンウイークにインドでも、行こうかなと思ったのですが、
予算の都合で鎌倉に行って来ました。
さて、相変わらず、前回の話の続きをどうぞ!
仲本優奈;
「仏教で、なんで人を信じる事が大切なんですか?」
鈴音;
「人は常に、自分の立場でしか物事を見たり、聞いたり、考えたりしか出来ないのです。相手が正しい事を言ったとしても、
それが正しいのか?悪いのかは判断できずに、相手との関係だけで決めつけてしまい、苦しみを生じさせてしまう事からです。」
仲本優奈;
「でも、世の中には悪い人が沢山居ますが、それでもですか?」
鈴音;
「この世には悪人より善人の方が数は多いのです。
たとえば、騙されたとしても、必ず、救いの手が差し伸べられるからです。また、騙されるのは欲に執着しているからです。
では、歴史に戻りましょう。
紀元前550年イラン人が建国したアケメネス朝ペルシアによって、メディア王国が滅亡し、
紀元前539年にはユダ王国を滅ぼして、住民を強制移住させ奴隷化した新バビロニアも滅亡させたのである。
そして、紀元前525年にはエジプトを征服し、
全オリエントを統一したのである。
アケメネス朝ペルシアでは全オリエントを20州に分け、それぞれの州に知事と監察官を置き、交通網を整備して
駅伝制を整え、また、金・銀2種の欽定(きんてい)通貨を作り貨幣経済を活発し、まざまな民族に対しては
その宗教を尊重したのです。
やがて、 アケメネス朝の支配に対して、イオニア(ギリシャ)の植民市であるミレトスを中心として、
イオニアの反乱が勃発し、
アテネと戦う、ペルシア戦争が始まった。
終に、前480年頃、第3次ペルシア戦争の敗北より、カリアスの和約が結ばれ、イオニア地方の独立が承認されました。
そして、紀元前330年、ギリシアを統一したアレクサンダー大王の猛攻により、ペルシアは滅亡してしまいました。」
----続く。
ここからは法師品(ほうしひん)です。
この場面は偈(短文)で、菩薩など、仏教を人に教える者に対する注意事項が描かれている。多くの人は増長している
為に、真実を告げられると驚きのあまり、疑念を持ち、恐怖を持ってこれを排除しょうとする。
だから、教えを伝える時は、慈悲をもって、誰であろうと世間の評価は気にせず、相手が理解するまで諦めずに
因縁生起の事を教える。
そして、自らも、人を敬いながら、人を信じる心を持って、仏の言葉を読んだり、
書いたり、声に出して覚えたり、言葉の意味を考えたりする。
これをやり続ける事が仏になるための菩薩道である。
------終わり
この経(仏が説いた言葉)は方便の門を開きながら、真実の姿を示しているのである。
しかし、この法華経と言う蔵は中の物をすべて知り尽す事が出来ないほど、奥が深くて堅固な為に、
人が十分に理解する事が出来ないのである。
今、仏は菩薩を教え導きながら、人を信じて敬う様に仕向け、それを成就させる為に、
その意味を明らかに示すのである。
薬王よ、
もし、菩薩がある所に行って、人にこの法華経を聞かせたならば、人は驚きのあまり疑いを持ち、害するのでないかと
恐れおののくだろう。
この時の菩薩は新たに悟りを求めようとする新発意の菩薩である事を必ず知って置くのです。
もし、法華経の説法を聞いた人のうち、この経を聞いて驚いて疑いを持ち、怖畏するならば、この者は増上慢の者である事を必ずや、
知って置くのです。
怖畏について
不活畏(ふかつい)・悪名畏(あくみょうい)・大衆威徳畏(たいしゅういとくい)・命終畏(みょうしゅうい)・悪趣畏(あくしゅい)
の五怖畏は我見から生じて、諸の衰憂苦の根本になる。
増上慢について
増上慢とは七慢
{1.慢(まん)2.過慢(かまん)3.慢過慢(まんかまん)4.増上慢(ぞうじょうまん)
5.我慢(がまん)6.卑慢(ひまん)7.邪慢(じゃまん)}の一つである。
更に慢も、
六煩悩
{1.貪(とん)2.瞋(じん)3.痴(ち)4.慢(まん)5.疑(ぎ)6.悪見(あくけん)}の一つである。
これら慢は、自己愛や過去の執着より自信過剰なって、自らおごり、他に対して高ぶる為に他の者の邪魔をする
薬王よ、
もし、如来の入滅した後の世において、善男子や善女人と廻り合って四衆の為に、
この法華経を説かなければならないと思った時、どの様にして説くと思うか。
この善男子・善女人は、如来の室に入り、如来の衣を着、如来の座に座り、
そして、今の様にして、四衆の為に広く、この経を説くであろう。
如来の室とは
すべての衆生の心の中に潜んでいる大きな慈悲心、
これを言うのである。
如来の衣とは
穏やかに、相手を思いやるゆとりが有る為、どんな苦しみでも、徳を積む修行であると捉えて
耐えて忍べる(柔和忍辱)心、
これを言うのである。
如来の座とは
すべての法は空、これを言うのである。
(私たちが毎日、暮らしの中で目にする光景は、常に同じ様に見えるが、日々刻々と移り変わるものである。
その事は互いに依存し合っている事に由来すると言う事。つまり、売る人と買う人があるから商品の存在があり、
苦しみと哀れみがあるから智慧(教え)がある)
この中に安心して、住み着いた後に懈怠の心(怠ける心)を持つ事無く、
沢山の菩薩や四衆の為にこの法華経を教え広めるのである。
薬王よ、
我が他の国において、仏や菩薩の化身(けしん)である人を使わしてその者の為に、聴衆を集めさせ、法を聞かせる。
また、化身の比丘(びく)・比丘尼(びくに)・優婆塞(うばそく)・優婆夷(うばい)を使わして、その説法を聞かせる。
この沢山の人々は仏や菩薩の化身である。故に、法を聞いたらば、人を信じて、言葉を重く受け止め、
人の言った言葉に、素直に従がいながら、逆らう事がないのである。
もし、法を説く者が森林の様な静寂で人里から離れた空閑の場所に居たならば、
その時に、我は広く、この事を伝えて天・龍・鬼神(きじん)・乾闥婆(けんだつば)
・阿修羅(あしゅら)たちを使わして、その説法を聞かせるのである。
(人の心は依存性が強いため、どんな些細な事でも意味が分からないと不安になり、恐怖を懐き、苦しむ。
その為に、それを解消しょうとして、理由を探しながら色々な妄想を生じさせる。
その妄想の喩えが天・龍・鬼神である。)
我が異国(冥土)に住んでいたとしても、折にふれて説法者を通し、我が身を見られる様にするのである。
もし、この経の文字や語句などを忘れ去ったならば、我はすぐ帰り、
汝の為にこれを説いて、身に付けさせるのである。”
その時に、
世尊は再び、この意味を伝えようと思って、偈(歌)でもって、分かり易く述べてのです。
”沢山の懈怠(けたい)を捨てたいと望むならば、必ずこの経を聞くのです。
この経を聞くこと事態が難しく、更に、この経を信じて、重く心に受けとる者など、
なおさら、難しいのである。
人の渇を見て、水が必要であると思って、高原に井戸を掘る。
しかし、乾燥している土を見ては水が遠い所に去った事を知らされる。
ようやく、湿り気のある泥を見て、水に近づいていると決定できた事を知らされた様に、
薬王よ、汝は必ず次の事を知るのです。
懈怠を捨てたいと望む多くの人たちは、法華経を聞かなければ、
仏智から去ろとする事は甚だ遠いのである。
もし、この奥深い経、つまり仏弟子と成る為の法を不明な所が無いほど、十分に理解し、
この経が数ある経の中でも、王位をしめるものであると思いながら聞く。
聞き終わった後で、決心して仏の事を思うなら、この人たちは仏の智慧に近づくであろう事を必ず知るのだ。
もし、人がこの経を説いたならば如来の室に入り、如来の衣を着て、そして如来の座に座ったまま、
例え、沢山の人が居る場所であっても、恐れる事が無く、大勢の人の為に道理をわきまえて、教えを説くのである。
大慈悲を室とし、 心がおだやかで、迫害に対してもよく耐え忍ぶ心(柔和忍辱)を衣とし、万物の現象のもとなる多くの法
は空(因縁生起)であると言う理に腰掛けて、これに身を置きながら、人の為に法を説くのである。
もし、この経を説いている時、ある人が居て、その人が悪口を言って罵しったり、刀・杖・瓦・石をもって害を加えようとも、
仏を念んじて、忍ぶのである。
我は千万億の土に浄い堅固の身を現し、計り知れない億劫と言う時を掛けて、衆生の為に法を説くのである。
もし、我が滅度の後に、完全にこの経を説こうとする者には我が仏の化身である四衆の比丘・比丘尼及び
清信士・女(在家信者の男女)を遣わして、法師を供養させながら、沢山の衆生を引導して、
これらを集めて法を聴かすのである。
もし、人が悪を働いて、刀や杖及び瓦や石を用いて害を加えんと思ったならば、人を救う為に仏が変化
(へんげ)した人を使わして、この者を護衛する。
もし、説法の人がたった一人で、人里から離れた静かな場所に在って、しんとして寂しく人の声も聞こえない状態で
この経典を声を出して読んだならば、その時、我がこの者の為に、清浄な光明に包まれた身を現わす。
そして、もし、文章や語句を忘れ去ったならば、この者の為に説いて理解させるのである。
もし、人がこの徳を得て、更に四衆の為に説き、薄暗い洞窟の様な空処でこの経を声を出して読めば、
皆、我が身を見る事が出来るのである。
もし、人が人里は離れた荒野に居れば、我が天・龍王・夜叉・鬼神らを使わして、
その者の為に法を聞く聴衆とする。
この人が法を楽しませながら説き、物事を良く判断して、邪魔立てするものがいないのは多くの仏に見守られている
故に、良く大衆を喜ばせる事が出来るからである。
もし、法師に親しく近づけば、速かに菩薩の道を得て、この師に心から従がって、学んだならば、
ガンジス河の砂と等しい数の仏を見る事が出来るである。