南無妙法蓮華経
----------方 便 品 偏----------

 

  私達が仏教を取り上げた目的は、変な宗教集団に勧誘する事では有りません。!
  あくまでも、学問の延長線上の位置付けとして、考えています。
  だから、皆さんが理解し、今後の日常生活でお役に立てれば、幸いです。(^〇^)
  

   担当:教養学部国文学科3年 森村あや子

解 説


見ずらいサイトで、
ごめんネ!(´ДÅ)ょゎょゎ





語句の説明
・グーグル辞書で調べる事が出来るようしてある。
・特殊な語句は分かる範囲で、説明する。
( ゚д゚)ノ ョロ!!





■感 想

皆さん、飽きたでしょうか?
我慢、して下さいね!-----σ(´ x `;*)ンート・・・

まだ、法華経の入り口です。これを読み終えると良い事が有ると思います。法華経を読むだけで、疲れるのだから、書いた人は超×100でしょう。

ここで、チョコとうんちく---ワ――゚.+:。ヾ(o・ω・)ノ゚.+:。――イ
お釈迦様によってもたらされたことは
公衆衛生としてお風呂に入る事や洗濯や掃除などを行い、常に周りを清潔にし、整理整頓する事により、思わぬ事故を防ぐ事

また、心にストレスが溜まらない様に沐浴(旅行・散歩など)や体操(ヨーガなど)する事、また声を出して本を読むか、歌う事をすすめた

エッ!
そんな事、詰まらない。3000年前、インドはおろか世界には無かった習慣です。当時の人は自分の考えを表に出す事は愚かな行為とされていたのです。

その事を考えただけで、今の日本人は幸せですョ---q(・ェ・q)ルン♪(p・ェ・)pルン♪


●翻 訳 八

もしくは、子供がいたずらした時の様に、
小枝及び筆、あるいは指の爪で仏を描いたとしても、この様な諸の人達は徐々に徳を積み、慈悲の心を持ち、 皆、自ら佛道を成就して、諸の菩薩を教化し、数え切れない衆を苦から脱し、涅槃に渡らす。

もし、人が
塔廟・寶像及び書像において、花・香・幢幡(どうばん・旗)と天蓋(絹張りの笠)をもって、敬意を持って供養する。

もしくは人を頼んで
楽団を作り、鼓を打ち、ほら貝を吹き、笙・笛・琴・くうごう・琵琶・銅鑼(どら)・銅ばつ等を用いて演奏し、巧みな音をもって供養する。

あるいは歓喜の心で、 仏の徳を賛美して梵唄(ぼんばい)を歌う、又は一節を唱える。以上の人達は皆、自ら佛道を成就する。

もし、人に散乱な心あり、
その様な心で1輪の花で書像を供養し、ようやく数知れないほどの佛と出会う。あるいは礼拝する者、

またあるいは単に合掌する者、 一手で拝む者、または頭を下げる者、以上の様に像を供養する人達も、ようやく数知れないほどの佛と出会い、自ら、最高の道を成就する。

そして、広く無数の衆を得度し、焚き火して火が消えていく様に、無余涅槃に入る。

もし、人が散乱の心で塔廟の中に入って、一たび南無佛と唱えただけで皆すでに佛道を成就する。

諸の過去の佛が現在、
生まれ変わっているとしても、あるいは滅後において、もし、この法を聞く事あったとしたら、皆、佛道を成就する。

未来の諸の世尊の数は計り知れない。
この諸の如来達も、また方便して法をときます。すべての諸の如来は計り知れない方便をもって、諸の衆生を何度も何度も迷いから抜け出させて佛の無漏智に入いらせる。

もし、法を聞きたいと願う者は
一人として佛になれない人はいない。諸佛の本誓願は我が辿った佛道と同じ様に、すべての衆生に、得させようと願うものです。

未来の諸佛、
百千億と言う数えられない諸の法門を説いたとしても、それらの法はすべて、この一乗が基になって、成り立っているのです。

諸佛両足尊・法は実体が無く、佛の種は縁によって起きる事を示しているのです。ゆえに、一乗(因・縁)を説いたのです。

この法は諸法の中でも1位を占め、世間の日常に存在する事を導師は道場において、知らしめ、方便をもってこう説いた。

天・人の供養し崇めている所の現在の十方の佛、
その数は恒河沙(ガンジス河の砂)と同じくらいある。世間に出現したにも関らず、衆生を安穏ならしめる為、ゆえにこの法を説くのです。

第一の寂滅をしめして、方便力をもって、色々な道を示すが、その意義はすべての衆生の成仏する道を説くためのものです。

衆生の諸の行い・心の奥底に眠る思い・過去の習慣よる所業(悪い行い)・欲性精進力(持っている欲の種類や勢い) ・諸根(六根)が鈍いことを示して、色々な因縁(事柄)・比喩または言葉をもって、それぞれに応じて方便を説い下さいます。

今、我もまた、
同じ様に衆生を穏やかに暮らさせようと思い、色々な佛の教えをもって佛の修行を教え広める。我は智慧力をもって、衆生の欲の本質を知り、方便して諸法を説いて皆を歓喜させる。

舎利拂、まさに知るべし、
我は佛眼をもって、瞑想し心を静めて六道の衆生を見ると貧苦に喘で居る為、智慧に恵まれず、生死の険しい道に入り、それを受け継ぎ、断つことが出来ずに深く5欲に執着する様は、まるで、ヤクの尾を愛する様です。

何かを追い求め、
執着する貪愛の心を自ら持ち、盲冥であるため、この世の中が味気ないもの思い、知識を持たず、また道理が見えず、また見ようともしない。

その為、信じるものが無く、大勢の佛や佛の苦を断じる法を求めようとしない。

深く諸の邪見に入って、
苦で、苦を征する事を望む。この為、衆生を哀れみ、大悲心を起こし、我は初めて菩提樹の下に坐り、樹を観じ(瞑想)また、経行して三十七日間中に、次の様な事を考えった。

この様なたぐいの者を
如何にして、救い導びいて行ったら良いかを考えていた。その時、諸の梵王及び諸の天・帝釈天・護世四天及び大自在天、並びに他の諸の天衆、眷属百千萬が我に、謹み敬まいて合掌し礼拝して、法輪を広く教える事をお願いされた事にした。

我は彼のように悟り得た。
もし、単に佛乗を誉めれば、衆生は法を理解できず、苦しみに埋没する為、この法を信じる事が出来ずに、この法を放してしまい、三悪道に落ちる。

我がむしろ法を
説かない方が早く涅槃に入る事が出来る。ついでに過去の佛の説の方便力を考えて観るに我が今、得た道も三乗とした方が良いと考えた時、十方の佛の皆が姿を現し、梵天王が我を慰め諭すように声をかけて下さいました。

「釈迦文、宜しいかな?、
あなたは真理の法を教え導く導師の第一人者であり、この上ない法を得たのにも関らず、諸のすべての佛を受け入れ、そして、佛に従がい、方便として用いることをしても、

我らもまた、
皆最高に難解な第一位の法を得る事が出来たけれども、諸の衆生類(息をしているもの)の為に、分別して三乗(仮説)と説きます。

愚か者は愚かな法を願いって、
自ら佛に成らなければいけない事を信用しない為、方便をもって分別して諸の果(因縁の成り行き)を説きます。また、菩薩を教えんが為、三乗を説くと言いましょう。」
舎利佛、まさに知りなさい!
我は聖師子の清らかで、重々しい不思議な声を聞いて、喜んで「南無仏」と声を出して唱える。

共に「我は濁悪世に生まれたり、諸佛の諸説に従いって、修行する。」ことを祈願する。

我はこれらの事を念じ終わって、
波羅奈に向かって行った。諸の法は寂滅の相を持つ、故に”静寂かつ徐々に移ろい、やがて消え去る”特徴を有する為、言葉をもって述べる事ではない。

ただ方便力をもって、
五比丘の為に法を説いたのです。そして、この事を転法輪と名ずけまた、それぞれ別の名があり、五比丘を阿羅漢・転法輪を涅槃の音と言う。

久遠劫と言う、
無限に遠い過去より今まで涅槃の法をほめたたえ”永く、生死の恐怖を味う事がない”事を示しながら、我は常に涅槃の法を説いてきた。

舎利佛、まさに知りなさい!
我は我が弟子たちを見て、佛道を追い求める者が千萬憶と言う数限りないほどいて、すべての者がつつしみ敬う心を持ち、皆が佛の修行を成し遂げる事を確信した。

かつて、諸の佛を敬いながら従って、方便の所説の法を聞いて、如来(釈迦)がこの世に出現した訳は佛の悟りを説かんが為である。そして、今がその時である事を観じた。 舎利佛、まさに知りなさい!
濁った根を持った愚か者は著相驕慢の者である為、明らかにおごりたかぶり、他の者を馬鹿にし、勝手気ままにふるまうを成し、この法を信じない事は明らかである。

今、我は喜んで、恐れなく、諸の菩薩(法を求める人)の中において、正直に方便を捨てて、ただこの上ない佛道を説く事にする。菩薩である者はこの法を聞いて、皆すでに疑網を除いていた。 千2百の阿羅漢もまた、
今まさに、悉く佛に成るべきです。三世諸佛の説法の儀式の如く、我もまた同様に無分別に法を説いたとしたら、諸の佛が世に厳しくに出現したとしても、人々から遠ざけられ、人々から価値あるものとして認められる事が難しい。

仮に、佛の使者
として世に出現したとして、この法を説いたとしても、人々から認められる事が難しい。また、想像も付かないほど、長い年月を経てたとしても、この法を聞く機会が有る事が難しい、またまた、この法を聞く者を探す事も難しい。

例えば、
優曇華のすべてを皆が愛し、それを天・人界ではめったにない事だと楽しみにしている。そして、そ言う時に優曇華が一度び咲くように、法を聞いて歓喜し、これを誉めるか、一言を言ったならば、すべての三世の佛を供養する事と同じである。

この人は貴重であり、
その人の価値は優曇華と同じである。汝たち、疑う事なかれ、我は諸法の王である。我は普く、諸の大衆に告げる。ただ、一乗の道をもって諸の菩薩にお教を説いて導き佛に成らしめ、声聞(ただ聞いてるだけ)の弟子を無くす。

汝たち、舎利弗、声聞及び菩薩、まさに知るべし
この妙法は諸佛に成るには必要なものである。五濁の悪世にはただ、諸欲に容易く執着する。この様な衆生達は最後まで、佛道を求めず、

まさに来世の悪人は佛説の一乗を聞き、迷惑して不快になったり困ったりする為、信用して受ける事が出来ない。

法を破り悪道に堕ちる。
自分を謙遜し、心が清らかで佛道を求める者が有るならば、まさに、この様な人の為に広く、一乗の道を賛美するのです。

舎利弗、まさに知るべし
諸佛の法は萬億の方便をもって、時節の頃合を見て法を説くのです。それを学習しない者はこれを悟り理解する事が出来ない。汝たち、すでに諸佛及び世の師の随宜方便の事を知り、また諸の疑惑が無く、心に大歓喜を生じて、自ら佛に成る事を知りなさい。

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