私たちは是の様に考えています。
私たちの様な世間知らずの女の子でも、少しでも人の役に立ちたいと思い。
遊び半分で作ったと思われるサークルでも、初心を忘れず、サークル活動をあせらず、なまけず、あきらめずに夢を
持ってやり続ける事が人の役に立つ事であり、世の中を変える事であり、自分たちの幸せにもつながるものと。
---皆さん、ヨロシク
担当:経済部国際科3年 香多かおり
見ずらいサイトで、
ごめんネ!(´ДÅ)ょゎょゎ
下記のホームページに全訳が掲載しています。
語句の説明
・グーグル辞書で調べる事が出来るようしてある。
・特殊な語句は分かる範囲で、説明する。
( ゚д゚)ノ ョロ!!
・衆聖(しゅしょう)
聖は神のこと、神とは人々を支配する者
・三界
凡夫の生死往来する世界
欲界
淫欲と食欲の二欲を有する有情の住む所
色界
二欲から離れた有情の住所、身体を含むめ物質的の物を総じて、巧妙・多彩である為に色界という。
無色界
この世界は身体・物質の無い世界、精神世界
・憂患(うげん)
ひどく心配して悩むこと
・寂然(じゃくねん)
さびしくひっそりとしているさま
・閑居(げんこ)
世俗を離れて静かに暮らすこと
・難(なん)
人の本心(目的など)を邪魔するものを言う
・能く(よく)
能力に応じてと言う意味がある。可能な限り
・縁覚不退(えんがくふたい)
十二因縁の理を観じて、欲を断つ事を悟り、飛花落葉の縁により、この世の無常を悟り、すべてのものに
執着する事が無い事
・衆生(しゅうじょう)
ただ単に、息をしているものの意味、一般人
・信受(しんじゅ)
教えなどを聞く事
・日夜劫数(にちやこうすう)
劫数は時を積み重ねる事を意味する。朝晩に関らず、月日を重ねるの意味
・解脱(げだつ)
煩悩により集めて苦から離れる事
慧解脱(えげだつ)
正しい智慧を得ていること
倶解脱(くげだつ)
慧のさわりを離れるだけでなく「定」の障りをも脱していることである
・依止(えし)
力や徳がある所・人・物に依頼し、それに居住して離れないこと
今日は、皆さん
相変わらず、話しの続きです。
鈴音:
「はいそうです。」
私たち:
「ところで、人の心って何ですか?」
鈴音:
「そうですね、コンピュータのOS見たいなものと思います。」
私たち:
「どう言う事でしょうか?」
鈴音:
「難しいですかね?、コンピュータのOSと言うものは、イベントに応えて働くイベントドリブンです。イベントが発生しなければ、動きません。
つまりは、外部からの刺激よって動かされている存在で、仏教用語では縁起と言います。」
私たち:
「エッ、では私たちは何ですか?」
鈴音:
「驚かないで、聞いて下さいね!、身体は心を入れて置く、ただの箱で、心は身体から来る要求に、
応答しているに過ぎない、しかし、自己を感じ、自ら考えて行動していると思い込んでいるのです。」
私たち:
「私たちは、この寺に自分たちの意志で来ましたが?。」
鈴音:
「それは、パチンコの玉の様にあちこち打つかりながら、来たのでしょう。
それは悪い事でありません、すべての人がそうなのです。」
私たち:
「では、どうすれば良いのでしょうか?、鈴音さん」
鈴音:
「すべては縁起によるものである事を知り、彼の者を感じることが大切ですよ。!」
----続く。
ここから、譬喩品(ひゅうほん)をお送りします。
この場面ではお釈迦様が舎利弗に話し聞かした火宅について、用いた比喩を説いている場面が描かれている。
人は楽する事を好み、辛い事を避け、何も学ばないどころか、知ろうともしない。
そして、自分で集めて苦により、悩み続ける。その人を救う為には、貧欲を捨て、ものへの執着を捨て去る事であるが
愚かである為に、理解できない。その為、三乗を説く。
この話しは現代の私たちにも、身に詰まされる話しですね。
-----では、どうぞお楽しみくださいネ!q(・ェ・q)ルン♪(p・ェ・)pルン♪
舎利弗に告げた。
「我も、またこの長者と同じだ!大地を制する神々の中において崇められる者であり、世間の人々の父でもあり、
すべての衆生、これらは皆、我が子である。深くこの世の楽に心を奪われ、真実を見抜ことする心を持つ事が無い。
三界は安楽なる事が無く、なおも火宅のようである。集めた苦で充満しており、甚だ畏怖する所である。
常に生・老・病・死の憂患があり、これらの火は益々盛んになり、休む事がない。
如来はすでに、三界の火宅を離れて、淋しくひっそりと、世俗を離れ、静かに暮らし、林野に安住する。
今、この三界は皆、これらは私の有(悩みの種)であり、その中に住む衆生はすべてが我が子である。
(チビット、解説。三界は人がこの世に生まれて、身体を持ち、身体を愛しく思う事により、色々な物に執着する心の集まり我(自分)が誕生する。そして、我により
生じる果報の内、苦しみの本になるものを有と言い。我が執着する世界を三つに分類したものを三界と言うが、宗派により解釈が異なる。)
しかも、今この場所は色々な患いう難が沢山あり、ただ、我一人のみ、人に応じて治療することが出来る。
しかし、私が教え伝えようとしても、この教えを聞き入れない。
様々な欲に染まっている者達は欲を貪る事に深く執着している。この為に、方便して、三乗を説き、
様々な衆生に三界の苦を自覚させ、世間(変化してやまない迷いの世界)から脱出する道を開示し、演説する。
この諸子等が、もし、心を定めて、決めたとするならば、三明及六神通が備わり、
縁覚不退の菩薩に成り得るのです。
汝、舎利弗
我は衆生の為に、この喩えをもって、一佛乗を説くのです。汝達が、もし、出来る限り我が語った、この教えを疑わずに聞いたならば、
すべての者、皆は必ず、佛道(教義)を成就する事が出来る。
この乗(救いの法)は言葉に出して言い表せないほど優れたもので、心の汚れを清浄する事が出来る第一の法であり、
様々な世間において、この法より優れたものは無い。佛が悦んで、許された教えであり、すべての衆生が賞賛し、供養し、礼拝すべき教えです。
また、無量・億・千と言う数の様々な力・解脱・禅定・智慧・及び佛の他の法があり、これらの乗(救いの法)を得て、諸子等をもって、表して見せた。
昼夜関係なく時をかけながら、常に、遊ぶ事を得と同じ様に、諸の菩薩及び声聞衆たちと、この貴重な乗に乗せて、直ちに、道場に入らせる。
この因縁をもって、法を得る事ができず諦めて、十方に、他の救いの道を求めたとしても、佛の方便を除けば、他の救いの道は無い。
舎利弗に告ぐ、
汝ら、諸人は皆、我が子であり、我は汝らの父である。汝たちは時を重ねる度に、自分が集めた苦に焼かれてる。我はこれら、すべてを完全に抜き取り、三界から脱出させる。
我は、以前、汝らに、滅度する法を説いたにもかかわらず、ただ、生・死(果報及び死の恐怖)を取り除くのに力を尽くしただけです。したがって、実際には煩悩を滅していない。
今、自らやるべきことは唯一、佛の智慧である。もし、この衆の中に菩薩がいるならば、一心に諸佛の実法を聞きなさい。
諸佛世尊は方便をもって、お導き下さるとしても、その方便で教化された衆生、総ての者は菩薩であるが、
もし、衆の中に愚かな者がおり、この者は深く愛欲に執着しており、
この為、諸佛世損はこの者のために、苦諦を説いて下さった。
衆生は心より喜び、今まで一度も味わった事がない感動を得た。佛の説いた苦諦は真実であり、嘘では無いのです。
もし、衆生がいて、
その衆生が苦の根本を知らず、深く苦の因に執着して、それを少かな時間でさえ、捨てる事が出来ない者であるなら、
この者の為に、佛は方便して道を説いて下さるのです。
様々な苦の原因は貪欲が本であり、もし、この貪欲を滅すれば、
力・徳のある者に依頼し、居住する所から離れられる。様々な苦を滅し尽くす事を第三の諦と名ずける。
苦諦の道を修行し、諸の苦の束縛を離れる事、つまり解脱を得と名ずける。この人、どう言うわけか、解脱を得て、
ただ虚妄(偽り)を離れて、つまり解脱する事を為(う)と名ずける。
実際には、
それらの事は未だ、すべての解脱を得ていず、よって、佛は「未だ、この人は滅度していない」と説くのです。
未だ、この人が無上道を得ていない事より、我もまた、自分自身が滅度したと言えないのです。
我は法王であり、この法をもって自在である。衆生を安穏ならしめるため、この世に出現したのです。
(チビット、解説。無上道とは如来、すなわちお釈迦様が所得した道で、人を救う道には、これで良いと、定める事が出来ない
この世が無常であるからだそうです。要は、ひたすら、煩悩を断つ事に努力することです。)
汝、舎利弗
我がこの法印は世間を利益しょうと望むものであり、その為にだけ、この法印を説くのです。遊びに行った先で、みだりに、法印を宣伝する事をするな!。
もし、それを聞く人がいて、その人が喜んび、有りがたく、それを受け取ったなら、確実に、この事を知るのです。その人は阿鞁抜至(あびばっち:不退転の決意をした人)である。
もし、この経法を信じて、教えを乞いたいとする者、この人はかつて以前に、過去の佛を祭り上げて、恭敬して供養していた者であって、また現世において、この法を聞く事が出来た者である。
もし、人が良く、汝の説法を信じた事はすなわち、我を見、汝、並びに比丘僧、諸の菩薩を見て悟った為です。この法華経は深い智慧のある者の為に説くのです。