南無妙法蓮華経
-----分 別 功 徳 品 偏-----

 

  私たち、女の子がこの法華経を
  hpに掲載した訳は自らの不運を嘆いて世間を恨む事無く、前向きに物事を考えて自分の運勢を自らの手で切り開いて
  欲しいと思ったからです。仏教とは死んだ人の為に拝むものではありませんよ。
 
  

   担当:人文学科3年 村上 静菜


参 照


見ずらいサイトで、
ごめんネ!(´ДÅ)ょゎょゎ

下記のホームページに全訳が掲載しています。




フリー百科事典
『ウィキペディア』
法華経


参考サイト

かとちえの短歌教室

ダムの決壊

哲学の歴史(ヤフー)



語句の説明
・グーグル辞書で調べる事が出来るようしてある。
・特殊な語句は分かる範囲で、説明する。
( ゚д゚)ノ ョロ!!


・功徳(くどく)
善行(善根)や福における優れた性質、また善や福(才能)を積んで得られたものと言う意味のサンスクリット語グナ から由来したもので涅槃を得る為の行為→布施供養・智慧

・善男子、善女人
仏教を信じる良家の青年と夫人の事である。また善男子は菩薩を言う時もある、善は煩悩の対義語。

・供養
サンスクリット語プージャナー(尊敬する)から由来し、仏・菩薩・諸天などに香・華・燈明・飲食などの供物を 捧げて敬意を表し、これら諸仏の事を忘れない様にする事。(総持の一つ)

*二種供養
1)利供養
線香、ローソク、お花、飲物等の財物を供える事
2)法供養
教説に従って修行し、人々を益する行為
*三種供養
1)利供養
2)敬供養
お仏壇にお参りしたり、墓そうじ墓参り、盆提灯を飾って先祖を偲ぶ心を養ったりする事
3)行供養
仏法を受持、修行する事(六波羅蜜)
四事供養
*五供養
塗香・華・焼香・飲食・灯明
六種供養
十種供養

・布施(ふせ)
自分の徳を分け与える事(三施無財七施

・回向(えこう)
自分の修めた善行の結果が他に向って回(めぐ)らされて所期の期待を満足する事を言う。
(1)菩提回向 仏道を人生の目標をもって、いろいろな行を励んで行く事
(2)衆生回向
自分自身の徳を人にも与えて、人と共に進んで行こうする行為(布施の事)
(3)実際回向
目の前で起きている物事に捕らわれる事無く、逆にそれらの事を利用して深い道理の 方向に向かわせる事

・禁戒(きんかい)
出家者がしてはいけない事(五戒・十戒など)

また、その逆に出家者がしなければならない勧戒もある

・禅定(ぜんてい)
観瞑想とも言い、座ったり、歩いたりしながらものの変化を見つめる事。 これとは逆に、座ったままで一つの現象をみつめるものが止瞑想と言う

また、禅定には一禅〜四禅・空無辺処・識無辺処・無所有処・非想非非想処の八段階 がある。

・三心(さんしん)
往生する為に持たなければならない心
1)至誠心(しじょうしん)
偽り無く浄土を願う心
2)深心(じんしん)
深く浄土を願う心
3)廻向発願心(えこうほつがんしん)
自分の功徳を他の者に分け与えて、共に浄土をめざす心

・義(ぎ)
儒教における五常(仁義礼智信)の一つ


---編 集 録---

・咲き誇る桜木よりも綺麗だと
言われて見たい十九の春に

・哀れある桜の花や憎らしい
実結ばぬのに恋を咲かさん
<解釈>

この短歌は複雑な女心を詠ったものです。それはある日のコンパこと、初々しい後輩を伴なって 参加したところ、大人しく、うつむいている子だけが、もてた様子を詠んだもの



今日は、皆さん
花見は如何だったでしょうか?。私たちと言えば、それなりに楽しかったですよ。それよりも、四月 と言えば、新入生の争奪戦が始まる季節です。その対策を考えるのに頭が痛い、今日この頃です。 では、前回の話の続きをどうぞ!

かな;
「なぜ、ギリシャ哲学と言っても信仰には 敵わなかったのでしょうか?」
鈴音;
「そうですね。ギリシャ哲学も一旦はキリスト教に飲み込まれるのですが、 再び見直されて来ます。それはキリスト教も同じです。

イスラム教から人を神に祭り上げた偶像崇拝や三位一体や処女懐胎 に関して異議が唱えられた。その結果、キリスト教も幾つかの宗派に分裂しました。
かな;
「なるほど、仏教は?」
鈴音;
「仏教も同じです。戒律をめぐって対立が起きて、やがて分裂した後、出家と在家との間に溝が出来て大乗 思想運動が起きる。その後、インドは戦乱の時を向かえて、精神的安定を目指す仏教からより実践的な仏教 として密教が誕生し、終に ヒンズー教に吸収されたのです。

では、哲学史に戻りましょう。スコラ哲学時代の普遍論争 (11〜12世紀)からですね。この時代は普遍論争と共に聖地エルサレムをイスラム教徒から奪還する 十字軍の遠征が勃発した時でもあります。

そして、13世紀に普遍論争を終わらす為に、実在論者 トマス・アクィナスによって、キリスト教思想とアリストテレス哲学を統合した哲学体系が試みられて、 「普遍は個々の事物の中に存在し、その事より個々が存在する。」と主張されたのです。

この事より、スコラ哲学は全盛期を迎えて神学を成立ながら、自然哲学、物理学、認識論、科学哲学などに影響を 与えたのですが、

その反面として権威主義的な文献学・教義学として硬直的な傾向を強め、キリスト教の正統性を証明する だけの学問(認識論)に落ち入り、また十字軍遠征は失敗に終わったのです。

そして、14〜15世紀に掛けてスコラ哲学は衰退期を迎えた。 ウィリアム・オッカムにより、 それまで、有りとあらゆるものが神学・形而上学で説明されたものを、人間の論理的思考だけを それから切り離し、科学的な分析の対象としたのです。

この事より、長期にわたって展開されていた普遍論争に一定の決着をもたらした。やがて、 イタリヤからルネサンスと共に、 人文主義がはじまり、 哲学はスコラ哲学から西ヨーロッパの中心のイタリア哲学となり、

人文主義者ロレンツォ・バラたちにより教会の教会の教義と伝統の基盤をなしてきたラテン語訳聖書や その他の文書の批判や吟味がされはじめ、1518年、ドイツのルター により宗教革命が起きたのです。

そして、封建貴族やカトリックの聖職者たちがうしなった権力と富は、中産階級と専制君主の手にうつされ、新しい個人主義と民族主義が が生まれた。

そうした中、哲学も影響を受け、スコラ哲学が教える信仰によって神から真理を獲得ではなく、人間本来の能力により 真理を探求していこうとする近代哲学が デカルトによって、切り開かれようとしたのです。

デカルトはすべてのものを疑う方法的懐疑を使いながら、 自然界は「ひろがり」の世界で疑わしいもの、それに対して「思惟(=自分)」は疑う余地の無いものとした。

つまり、これまでの哲学では内面(精神)と外面(物質)を一緒に考えていたが、それを別々に取り扱ったのである。 そして、「我思う、ゆえに我あり」と言うように人間とは精神と肉体から成り立ち、自由意志をもつものである と定義したのです。」
--まだまだ続く 次ページへ

◆分 別 功 徳 品(ふんべつくどくほん)

ここからは分別功徳品(ふんべつくどくほん)です。
この場面では、お釈迦様が弥勒菩薩に仏の寿命が永遠不滅である事を少しの間でも、信じて理解しょうと したならば、五波羅蜜の修行して得られた功徳より、何百倍・何千倍もの功徳がある事を説いている。

更に、偈の中で一念信解によって起こる四信五品を説いている。
四信五品の解釈は宗派によって異なるが、天台宗ではお釈迦さまが生きていたころの弟子が行なう修行と お釈迦様が滅度してから弟子が行なう修行と解釈している

●翻 訳 二

その時に、
仏は弥勒菩薩・摩訶薩に告げられた。

”阿逸多(弥勒)よ。その様な衆生がいて、仏の寿命が遥かに遠い(長遠=永遠)と言う事を聞く事によって 一瞬(一念)でも、仏を信じて教えを理解しようとする心を起したならば、自分が得られる 功徳に限りある事は無いのである。

もし、良家の青年や夫人がいて、その者たちが最高の悟り(阿耨多羅三藐三菩提)を求める様として、 ついに八十万億・那由他劫と言う時の間、五波羅蜜(ごはらみつ)を修行する。

五波羅蜜とは般若波羅蜜(はんにゃはらみつ)を除く、 檀波羅蜜(だんはらみつ)・尸羅波羅蜜(しらはらみつ) 羼提波羅蜜(せんだいはらみつ)・毘梨耶波羅蜜(びりやはらみつ) ・禅那波羅蜜(ぜんなはらみつ)である。

この功徳をもって前の功徳を比べたとしても、百分の一、千分の一、百千万億分の一にも及ばない。または数の単位を用いて 知る事も出来ないのである。

もし、菩薩(善男子)がこの様な功徳を身に付け、最高な悟り(阿耨多羅三藐三菩提)を得てから”この世から去る” と言ったとしても、普通の人の死ではないのである。”

その時に
世尊は、再び、この意味を伝えようと望み、歌(偈;げ)でもって、分かり易い様に述べた。

”もし、人が仏慧を求めて、八十万億或いは那由他と言う日数(劫数)の間、五波羅蜜の修行に励むならば、 この沢山の日々(劫)を過ごす中において、仏及び縁覚 (えんがく)の弟子 並びに数多くの菩薩たちに自分の大切な物を分け与えながらも、(布施) 多くの者たちを心から敬うであろう。(供養

格別な珍しい飲食物と上等の服と寝具と、栴檀(せんだん)の木をもって寺院(精舎)を建てて庭園と林 をもって美しく飾り立てるのである。

この様な布施が色々とあり、それらすべての物は皆、勝れている。この数多くの物は長い時を掛けて、多くの人々を 仏道に向かわせて沢山な恵みをもたらす事と成るのである。(回向

もしもまた。この者が禁止する事や注意する事(禁戒)を守り続けるならば、 身は清まり(清浄)、欲に惑わされて大切な事を忘れ去る事が無く、この上ない道を歩んで来た多くの仏が褒め称えた教えを求めるであろう。

もしもまた。この者が侮辱や苦しみに耐え忍び心を動かさない修行(忍辱)をして、怒りを沈めて穏やかな境地(調柔)に達したならば、 例え、沢山の悪がやって来て害を加えたとしても、その心をくつ返えして動かす事(傾動)は出来ないであろう。

また、この世のあらゆる法を修得したと言う増上慢の者が この者を軽蔑して悩まされたとしても、この者はこの様な事に良く耐え忍ぶだろう。

もしもまた、この者が修行者としての勤め(五波羅蜜)を精進する。更に、仏道を志した気持ち(志念)を、常に強く持ち(堅固)、 限り無い億劫と言う日々において、一心に善を修め、悪を断ずる修行を怠る心(懈怠)を起す事は無かったのである。

また、数えられないほどの日々(無数劫)を、空き地に身を置いて過ごす。ある時は禅を組み、またある時は 道場の周りをゆっくり歩きながら心身を整える(経行)。そして、寝ている時以外は常に心を統一する。

この因縁(心と環境)を備える事より、良く、多くの 禅定(八解脱)を生じた。そして、八十億万劫と言う日々をこの空き地で何事も心配する事が無く穏かに暮らす事 より、心を乱す事が無くなったのである。

この一心の幸福を持つ事が出来た事により、この上ない道を願い求めて、あらゆる認識の元である はすべてが「空」であり、その本質は「無」 であると言う一切智を得た。

この事から、それぞれの禅定の境界を見極めようとして、この者は百千万億劫と言う日数の中において、沢山の功徳を 積み上げたのである。その事は前に述べた通りである。

もし、良識ある男女がいて、我が「永遠なる寿命」を説いたのを聞いて、少しでもその事を信じたならば、 その福はあの者(小乗仏教)より勝れている。

もし、人がすべての後悔や疑念を一つも残さずに消え去ったならば、しばらくの間でも心の奥底から信じる事が出来る。 そして、その福はこの様なものである。

それは、数知れない日々(無量劫)、仏道の修行に励む多くの菩薩が我が寿命について我が説いた教えを 聞いて、これを素直に信じて受け止めるのと同じである。

また、この様な多くの人たち等はこの経典を大事に受け取り(頂受)、自分が未来において、自分の寿命が 長寿である事を示して衆生を悟りの世界に渡とするだろう。

それは、ちょうど釈迦族の中の王として生まれた世尊が今日、道場においてライオンが吠える様な大声(獅子吼)で、 法を説かれる時に恐れた様子が無いのと同じ様に、

我れらもまた、未来世においてすべての者から尊敬されながら、道場に座り、寿命の事について法を説く時、 またこの様でありたいと願う為である。

もし、自らの罪を認めて深く浄土を願う心(深心) を持つ者が居たとするならば、その者は粗末な身なりをしながらも心は清らかであり、沢山の教えを聞きながらも 良く教えを記憶し(総持)、 道理(義)に従がって仏の語った言葉を理解するだろう。

よって、今まで述べて来た様な者達はここにおいて疑いを持っては成らない。
また、阿逸多(あいった;弥勒)よ。

もし、仏の寿命が永遠だとを聞いて、その言葉の意味を理解する者が居たとしたらば、 この者が身に付ける功徳の大きさを量る事は出来ず、良く、如来のこの上ない 慧(えい)を起すだろう。

どの様に言えば良いのだろうか。
数多くこの経を聞く者、もしくは人を使わしてもこれを聞く者。もしくは自らがこれを持ち帰る者。 もしくは人を使わしてこれを持ち帰る者。もしくは自らがこれを書き写す者。

もしくは人を使ってでもこれを書き写させる者。もしくは花・香・珠玉を連ねた首飾りや腕輪・仏堂に飾る旗 ・絹の笠・香油・香油燈をもって経巻に供養する者を。

この様な人たちの功徳は人が思い付かないほど果てし無く(無量無辺)、良く一切種智(すべてのものの存在は縁によって もたらさられたにも関らず、固有の特質が生じる訳を知り尽す智恵)を得るであろう。

阿逸多(弥勒)よ。
もし、良識ある青年や婦人が、我が寿命は永遠であると言う話を聞き、深く浄土を願う心(深心)をもって、 教えを信じた後、理解したならば(信解)、

この者たちは仏が常に耆闍崛山(ぎしゃくつせん) に座りながら、大菩薩や多くの声聞たちに周囲を幾重にも囲まれて説法している姿を見る事が出来るだろう。

また、この娑婆世界のその地は瑠璃で出来ていて、しかも何処も等しく平らであり、更に閻浮樹の森を流れる川の底から取り出された 砂金(閻浮檀金)で縄をない、その縄で八街道(八正道)の境を区切っている。

また、宝樹を縦に並べた様に沢山の高い建物が建てられ、その建物の外を眺める為に造られた所、 すべてが宝などで飾られている。そして、その中には先ほど述べた様な菩薩たちが一人も残らず、 安置されるのを見るだろう。

もし、良くこの様な事を心で感じる事が出来る者が居たならば、この者は今まさに知るのである。 これを深く仏教を信じて理解しょうとする姿(一念信解)と名付けよ。

また更に、如来がこの世を去った後の世間において、もしもこの経を聞いて腹を立てて謗る事無く 心から喜んで感謝(随喜)の心を起こしたならば、今まさに知るのである。 すでに深く仏教を信じて理解を得た姿(初随喜)と名付けよ。

どの様に言えば良いのであろうか。これを声に出して読みながら、覚えようとする者を。 この人はすなわち如来を頭の上に頂き、 常に如来の存在に気付きながら、如来の力を借りられるのである。



前項へ次項へ