仏説観普賢菩薩行法経  

 

  ここから法華経を離れて、より具体的に仏教の教え(戒律)を示しています。訪れた皆さんの参考になれば幸いです。     

   担当:行動心理学2年 塚越 有


参 照


見ずらいサイトで、
ごめんネ!(´ДÅ)ょゎょゎ

下記のホームページに全訳が掲載しています。




フリー百科事典
『ウィキペディア』
法華経


参考サイト

仙学研究舎

中国史

中国史地図





語句の説明
・グーグル辞書で調べる事が出来るようしてある。
・特殊な語句は分かる範囲で、説明する。
( ゚д゚)ノ ョロ!!



---編 集 録---

もう早いもので、9月のお彼岸ですね。そこで、久々に歌を詠んで見ました。
「日を浴びて 小道に咲くよ 彼岸花 君の笑顔をや 思い出すかな」

如何でしょうか、チョットもの淋しい歌に感じるかも知れませんね。えっ、訳が分からない!?。 それは、個人の感性の問題ですね。

今日は、皆さん
お元気でしょうか?。台風で那智大社が壊れて大変な被害でしたね。今年は、地震と良い、災難続きですね。 益々、就職難に成ったような気がする。

そろそろ、私たちも文化祭の準備をしないといけないのですが、テーマが決まりません。無難な所でシルクロードにしょうかと思います。

有;
「いよいよ、新から後漢ですな」
鈴音;
「王莽が玉璽を奪って新朝の皇帝に成ったものの、周代の治世を理想とした理想主義復古主義的な政策を行なった為に、 民衆の生活は困窮して国内は混乱。

更に、匈奴や高句麗に対して高圧的な態度を取った為 、これらから離反された。その為、遠征を多く繰り返して匈奴には30万人を、西南の句町国には20万人の兵を派遣した。 そして、兵士はの大半が餓死・病死した。

14年、山東省琅邪郡で県令に殺害された息子の仇の為に挙兵した呂母の反乱が起こり、 その四年後には樊宗が挙兵した反乱軍に加わり、一大勢力の 赤眉軍に成って行った。

また、荊州では王匡・王鳳・馬武・王常・成丹らが離郷聚を攻撃した後、緑林山に立て篭って新朝に抵抗した。その後、抵抗軍は7千から8に膨れて 緑林軍 と呼ばれ、21年には討伐軍の荊州牧を殲滅した。

しかし、翌年には病気が蔓延して緑林軍は半数を喪失する大打撃を受かて緑林山を離れる事に成った。王常、成丹、 張ゴウらは、藍口聚に入って下江軍と名乗り、 王匡、王鳳、馬武、朱鮪らは、南陽郡に入って新市軍と名乗った。

また、この年の22年には、劉エンが荊州で反抗軍の舂陵軍を挙兵し、 王匡の新市軍と陳 牧の平林軍と連合し、小長安聚の戦いで新 の甄阜軍に敗北た。

23年、敗北した連合軍に下江軍が加わり、水の戦いで甄阜・梁丘賜を討ち取った。そして、再び緑林軍を結成して劉玄を 更始帝として即位させた。そして、新は6月に討伐軍を送り、 昆陽の戦いに挑んだが、劉秀軍の活躍により敗れ去った。

その後、劉エンも宛城を陥落させると、劉兄弟の名声が高まる。それを恐れた更始帝は、口実を作って劉エン殺害した。昆陽や宛県の戦から 更始帝軍は大きく成り、洛陽と長安を陥落させて王莽を殺害した。また、更始帝の傘下に入らない 劉望軍を討伐した。

翌年には、都を洛陽から長安に移すと、劉賜を前大司馬に、 趙萌を丞相に任命し、劉秀を河北に派遣した。 25年、淮陽王に成った張ゴウは横暴に成り、王匡 、成丹らと共に河東郡を守備していた ケ禹軍を攻めて大敗し、 長安へ逃げ帰って来た。

また、更始帝に従っていた赤眉軍の諸侯たちも領地が定まらずにいた為、劉盆子 を皇帝に立てながら、樊崇と徐宣が関中に侵攻して来た。 これに対して、更始帝は趙萌・王匡・陳牧・成丹らに命じて、新豊で迎え撃たせた。

しかし、不満を抱いた張ゴウは廖湛、胡殷、申屠建、隗囂らと共にクーデターを図り、更始帝を長安から追いやった。 その後、陳牧・成丹・申屠建らは成敗されるが、張ゴウ・王匡は逃亡して赤眉軍に加わると、更始帝軍を破り、 謝禄に更始帝を殺害させた。

26年、延岑が劉嘉に反逆して南鄭を包囲すると 、劉嘉が武都郡へ敗走した為、延岑も追撃したが、李宝 と劉嘉の軍に敗北する。その後、空白に成った南鄭を蜀王の公孫述が占領した為、 李宝が攻撃を加えたが陥落出来ず、仕方なく武都郡に駐屯した。

一方では、長安の周辺で延岑と激しい戦いを繰り返す。長安の北西部のでは赤眉の廖湛軍と戦い、 廖湛を殺害した。その後、延岑・李宝・劉嘉の三人は同盟を結ぶと、9月に ホウ安軍と交戦した。

ホウ安軍は李宝軍を降伏させて延岑軍を撃ち破って帰国すると、李宝軍の叛旗が翻り、赤眉軍の本陣は壊滅状態に成った。 そして、その隙に劉秀のケ禹軍が長安を奪還し、劉嘉・李宝はその傘下に入ったが、李宝は非礼であるとして殺された。

27年、劉秀の馮異軍によって赤眉軍を降伏させ、延岑を追い出し漢中を平定した。 また、大司馬の呉漢が賊の青犢と劉永の 蘇茂軍を破った。29年には、耿エン・陳 俊は 張歩に蘇茂を殺害させて降伏させた。

更に、桃城(東平郡)を董憲と劉紆陣営に寝返った ホウ萌に攻撃され、 これを呉漢が破り、劉紆が戦死した。 33年、蜀討伐の命令に反旗を翻した隗 囂を打ち、 36年には公孫述を滅ぼして、光武帝(劉秀)が中国統一を達成した。

統一後、光武帝は首都を長安から洛陽に移して、再び漢王朝を開いた。」

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◆ 仏説観普賢菩薩行法経

ここからは仏説観普賢菩薩行法経です。
この場面は、先で述べた通り、仏が去った来世に於いて、21日間大乗仏教を修行した者の徳が書かれている。

それは、三十二相を具え普賢菩薩た白象に乗ってその者の前にやって来て姿を現す。すると、その者は前にも増して 大乗仏教の修行に励み、あらゆる者を平等に見る出来き、総ての苦しみから生きている者を救おうと心に決める。

それを知った普賢菩薩が真実の法を解き始める。そして、家来の菩薩たちはその者を褒め称える。

●翻 訳 二 

その花托(蓮華台)はハナモツヤクノキ(甄叔迦)の赤い花びら色の宝や、不思議なほど神聖な珠玉(妙梵摩尼)で 出来ていた。更に、雌しべはダイヤモンド(金剛宝)で出来ていたのである。

また更に、花托に座っている仏の姿や、雌しべで座禅を組んでいる多くの菩薩たちの姿を見る事が出来るであろう。 そして、人の悟りの深さに応じて救うべく姿と成った仏(化仏)たちは眉間から金色の光りを放ち、それを象が鼻から吸い込む。

吸い込んだ紅い蓮華色の光を今度は象の鼻から出して眼の中に入れると、再び眼から出して、今度は耳の中に入れた。再び耳から光を出して 頭の上を照らすと、今度は金色の蓮台が現れたのである。

象の頭上には三人の者が居た。一人は金の輪を腕にはめ、また一人は望みが何でも叶う珠玉(摩尼珠)を髪に隠し持ち、 また一人は金剛杵を手に握っていた。そして、杵を上げて象に突きつけると、象は歩き出した。

足は地を踏まずに空中を踏んで、どこでも自由に行けた。象は地面から七尺の高さの所を歩きながら、地面にハンで 押した様な模様(印文)の足跡を残す。その足跡に刻まれた模様には千のスポーク(輻)や、車輪の軸・外枠などの すべてが刻まれていた。

そして、車輪の様な葉の一枚、一枚の間からは一輪の立派な蓮華が咲いていた。更に、この蓮華の上には人を救う為に現れ出た象が1頭いた。 また、その象にも七つに分かれた蹄があって、大きな象に従って歩いている。

その象が足を上げ下げする度に新たな七千の象が現れた。そして、その七千の象たちも大きな象の家来になり、大きな象に付き従っている。 七千の象の鼻は紅い蓮の花と同じ色して背の上に変化仏を乗せて居たのである。 更に、その変化仏の眉間より光りが放たれていた。

その光りは金色に輝き、先で述べた様に、一旦は象の鼻の中に入り、再び象の鼻の中から出て象の眼の中に入る。 また再び、象の眼から出て象の耳に戻り、また再び、象の耳から出て象の頭上を照らす。

この様に徐々に上位の象の背に至り、最後に七宝を散りばめた黄金の鞍に姿を変えた。鞍の四隅には七宝で出来た柱があり、 数多くの種類の宝石を組み上げて台座を作った。その台座の中に七宝で出来た雄しべが一つ有った。

更に、その蓮の花の雌しべはあらゆる宝石を集めて作られていた。そして、蓮の花托はあらゆる望みが叶える竜王の珠玉 (大摩尼)で出来ていた。 そこに、一人の菩薩が足を組んで座禅をしていた。その者の名は普賢と言った。

肌の色は真珠(白玉)の様に、五十種類の色の光を浴びると五十種類の色の輝きを放した。 更に体の毛穴(毛孔)より黄金の光を放ち、その光の行き先には数え切れないほどの仏が姿を現した。

また、その仏たちには様々な姿で生まれた数多くの菩薩が従えていた。そして、象はゆっくりと歩みながら、貴重で偉大な 蓮の花の雨を降らしながら、修行している者の前にやって来る。

その象が口を開ける度に、それぞれの象の牙の上にある池に住んでいる玉女が鼓を叩いたり、琴を弾いたりしていた。 その音色はとても優れていて唯一、真理を悟れる道の大乗仏教を褒め称えていたのである。

仏道を修行している者がこの光景を見ると、この者は喜びに湧いて、普賢を敬いながら礼拝すると、前にもまして 奥の深い経典を声を上げて読んだのである。

そして、一人も残さずにあらゆる方角に居る数え切れないほど仏たちに拝礼し、更に多宝仏塔及び釈迦牟尼仏を拝礼した。 また更に、普賢菩薩やその配下の多くの偉大な菩薩たちに拝礼し終えて、この様な願いを仏たちに立て、必ずやり遂げる事を仏たちに誓った。

”もし、自分が過去の善い行いによって幸運がもたされるならば、きっと自分は普賢の姿を見る事が出来るだろう。叶う事なら、遍普尊者(普賢)よ。 自分にその姿、三十二相(色身)を見せて、それを教えて下さい”と

そして、この様に誓願を成し終えると、昼に三回、夜に三回(昼夜六時)、 あらゆる方向の仏(十方仏)に拝礼した後、自らの過去の罪を菩薩に告白して我欲を絶つ事の懺悔を実践した。

大乗仏教の経典を読み、大乗仏教の経典を声に出して読んで覚え、大乗仏教の意義を思い、大乗仏教の戒律を深く心に刻み、 大乗仏教の教えを守る者を敬って(恭敬)、供養する。

そして、あらゆる人を仏と化身と見なさなくても、様々な生き物(衆生)を父母を見る様な目で見るだろう。”と、決意した時に、 普賢菩薩が眉間にある偉大な人相の一つ、白毫より光明を放したのである。

この光りを放つ時、常に普賢菩薩は堂々として威厳(端厳)があり、中国の紫金山の様であった。更に姿や動作が整っていて、仏の特徴である三十二相が すべて身に付けていた。

体中の沢山の毛穴からまばゆいばかりの光を放ち、その大きい象を照らして金色に染めたのである。更に、大きい象が放った光によって姿を現した、すべての象や、 菩薩が救う為に変身した様々な姿の者まで金色に染めた。

更に、その金色の光りは東方の数えられない世界を照らしてあらゆる物を金色に染めた。東西南北の四隅や上下の天地まで、 有りとあらゆる物をすべて残らず照らし出したのである。

その時、東西南北の四方、及び東南、西南、西北、東北の四隅、並びに上下の二つを合わせた十方向には、それぞれ一人の菩薩が居て、すべての菩薩が 六つの牙を持ち、象の中の王と思われる白象に乗っていた。更に、その菩薩は普賢菩薩と同じ姿をしていて違いを見つける事が出来ないほどであった。

この様にあらゆる方向が限り無く広く、思いも付かない世の中を出現させた象で満たしたのも、普賢菩薩の神通力によるものである。 なぜならば、大乗仏教の経典の教えを守っている者に、すべての菩薩を一人も残す事無く見せたいと願ったからだ。

この時
大乗仏教の修行する者は沢山の菩薩を目にし、身も、心も、共に満足して喜びに満ち溢れた為、お礼の気持ちを明らかに述べた。

”あらゆる生き物のあらゆる苦しみを取り除いて、あらゆる恵みを分け与えられる者(大慈大悲者)よ。我れを哀れんで、我に真実の法を説いて下さい” と。

この言葉を修行者が語り聞かした時、多くの菩薩たちが口を揃えて各々が煩悩を清められる大乗仏教の教えを読み聞かせて、必ずや多くの偈頌を作って 修行者を褒め称えるであろう。この事が”普賢菩薩の境地”の始まりで、最初の心境に達した事になる。



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