詰まらない世の中を変えたいと望むなら、
私たちの様な女の子でも、変える事が出来るのです。それは人の役に立とうとする心ですが、
その心は慈悲喜捨(じひきしゃ)を思うことだそうです。
担当:人・福学科2年 直江美菜子
見ずらいサイトで、
ごめんネ!(´ДÅ)ょゎょゎ
下記のホームページに全訳が掲載しています。
語句の説明
・グーグル辞書で調べる事が出来るようしてある。
・特殊な語句は分かる範囲で、説明する。
( ゚д゚)ノ ョロ!!
・嫉(しつ)
嫉妬ねたみや嫉み
・方便随宜(ほうべんずいき)
聞き手の心や性質や能力に応じて、法を理解出来る様に用いる例え話。
・神通力(じんつうりょく)
魔法のようなものでなく、ものの特徴を捕らえる観察力のこと
”寒空の かじかむ手に 息吐きて 作る短歌は いと哀しき成り”
ケータイ短歌に応募しょうと思い、寒空の下、詠んだ短歌を送ったが採用されなかった後輩の為に
詠んだ歌。
今日は、皆さん
ここの所、急に寒くなりましたがお元気でしょうか?。私たちは相変わらず、元気です。
いよいよ、文化祭が近づいて来て、毎日忙しい思いをしています。
と言う訳で、早速、前回の話の続きをどうぞ!
美夏;
「まだ、イスラムの話は続くのですか?」
鈴音;
「はい、もう少し続きますよ。それに、ユダヤ教→キリスト教→イスラム教、これらは同じ神を拝みながら
、同じ聖書を用いているのです。違いは教典の意味の解釈の仕方くらいでしょうか?
聖書にはユダの歴史と神への賛美、新約ではキリストの奇跡、コーランには人の規範が書かれているそうです。
彼らの歴史を見る事で、何かが分かると思います。また、これら一神教の思想の根底には選民主義
があると言われています。
さて、イスラムの歴史ですがアラブ帝国
(正統カリフ〜ウマイヤ朝)からイスラム帝国(アッバース朝〜)に話を移しましょう。
ウマイヤ朝はアラブの部族対立や地方の反乱などが続く中、重税にあえぐ非アラブ人の不満を募らせ、
マワーリー・ムアーウィヤが
カリフである事を否定するアッバース革命が起こり、750年頃にウマイヤ朝は滅亡しました。
しかし、ただ一人生き残ったウマイヤ家の王族アブド・アッラフマーン1世はその難から逃れ、
アフリカ西北部のベルベル人に助けを借りて、
756年にムサラの戦いに勝利してコルドバに後ウマイヤ朝を再興する。
一方、アラブではアッパース朝イスラム帝国のもと、
シルクロードのペルシア湾ルート上にあるバグダードを首都として、国際貿易に力を入れる。また、アラブ人やイラン人に
関らず、平等な税負担を求められた。
更に、カリフも「神の使徒の代理人」から「神の代理人」なり、ウラマーの同意に基づいて
イスラム法を制定する事が出来る様になったのです。
アッバース朝は第5代カリフの時代に最盛期の頃、タラス河畔の戦いで唐軍を撃退して中央アジア、インドまで
勢力を広げてたのですが、9世紀になると地方が次第に自立し始め、10世紀には北アフリカで
ファーティマ朝が興り、
三人のカリフが登場する分裂時代を迎える様に成るのです。
そして、アッバース朝のバグダードでは奴隷身分出身の軍人がカリフにかわって実権を握り、弱体化し始め、
946年にはイランのシーア派王朝ブワイフ朝
がバグダードの支配権を握ってカリフ政権を形骸化するが、ジャズィーラ地方(現イラク北部)のハムダーン朝や、
アフガニスタンのガズナ朝に脅かされ、領土が侵食されていった。
やがて、11世紀半ばになるとイラクなどの支配はテュルク系のマムルークたちに牛耳られ、ブワイフ朝はほとんど形骸化され
東方からガズナ朝にかわって勢力を拡大したセルジューク朝に滅ぼされる。
そして、セルジューク朝はカリフからスルターン
の称号を与えられて世俗の支配権を譲られ、
カリフは名目的な支配者となった。また、この時代に東ローマに依頼された法王によって第一回の十字軍
の遠征が行なわれたのです。
終にはセルジューク朝も、1258年に世界最大のモンゴル帝国によって滅ぼされ、
イスラム帝国は完全に崩壊したのです。この後、アラブから帝国は生まれなかったのです。」
ここからは安 楽 行 品(あんらくぎょうほん)です。
この場面は安楽行の第三・第四の法が書かれている。
安楽行の第三の法とは他人と自分を比べる事で、嫉妬・怒り・増長慢などが生じ、他人に害を加える事になる。
よって、何より大切な事は忍耐の心である事を述べている。つまり、無我である。
安楽行の第四の法とは人に対して、平等な友情(慈)や同じ苦を味わっている仲間としての哀れみ(悲)を感じる事で
人が努力している姿を見て喜び努力する心(喜)や人の苦しみを抜き取ってやろうとする心(捨)生じる。
仏は煩悩の身より、この慈悲喜捨の心を起こさせる為に、五陰魔・煩悩魔・死魔など様々な苦を与える。
そして、慈悲喜捨の心が生じた時、仏と同じ最高の悟り(阿耨多羅三藐三菩提)が得られる事が書かれている。
すなわち、苦=菩提である事を述べている。
------続く
その時に、世尊は再び、この意味を伝えようと思い、分かり易い様に偈(げ;散文)をもって述べた。
「もし、この経を相手に分かり易く聞かせ様と望むならば、必ずや人を見比べて嫉妬
して恨みを持ったり、興奮して怒ったり、増長慢(七慢の一つ)になったり、
自分をだまして人にこびたり(諂誑;てんのう)、悪意をもって人を偽ろうと(邪偽;じゃい)する心を捨てて、
日々、自分を飾る事無く素直になり、自らの行いを正すのだ。
また、人を軽蔑したり、教えについて無意味に人と言い争う事(戯論;けろん)をしてはいけない。
更に、他人に疑を持たせたり、後悔させたり(疑悔;ぎけ)しようとして、「お前は仏に成れない」
と言ってはいけない。
この菩薩道(仏子法)を人に聞かせる時は常に心を穏やかにして、人から与えられる辛さ・苦しさ・悲しさ・怒りなどを、
じっと我慢して、それらのすべてを慈悲して、
自分がやれなければならない事を怠け様とする(懈怠;けたい)心を起こしてはいけない。
あらゆる場所にいた大菩薩が衆を哀れんで仏道を修行しょうと思った時には身を謹み、哀れみの心を起すのである。
この衆たちは我が大師であると。
そして、諸仏世尊は何者にも変えがたい父の想を起こして、驕り高ぶって相手をあなどって勝手気ままにふるまう(驕慢)
者たちの心を打ち破り、仏の教えを聞かせながら、心の妨げとなっているものを取り除くのである。
これが第三の法である。真理を知っている者(智者)は必ず守るのである。一心に安楽行を行なうならば、
数えられない衆に敬われるであろう。
また文殊師利よ。
菩薩・摩訶薩が後の末世において、仏の教えが忘れ去られ様とする時に、
法華経を聞いて、その教えを覚えようとする者は、
在家の者であれ、出家の者であれ、その者の心の中には人々を平等に友として思いやる心(大慈)が生じ、
また菩薩でない者の心の中には同じ苦を受ける仲間として、共に哀れむ心(大悲)が生じ、
必ず、この様な思いを懐くのである。
この様な者たちは、既に如来が語った便随宜の説法をほとんど失った者である。聞こうとも、
知ろうとも、気が付く事も、問う事も、信じる事も、理解しょうともしない者である。
その人がこの経について、問う事も、信じる事も、理解する事もしないのであれば、我れが
これ以上無い正しい悟り(阿耨多羅三藐三菩提)を得た時、
運命に従がって、いづれかの地に在っても、神通力、
智慧力を用い、この者を引き連れてこの教えの中に住まわせる。
文殊師利よ。
この菩薩・摩訶薩が、如来の滅後において、この第四の法を成就する者が現れて、その者が人にこの法を聞かせる時は
失敗する事が有り得ないのである。
常に比丘、比丘尼、優婆塞(うばそく)、
優婆夷(うばい)、国王、王子、大臣、人民、婆羅門(ばらもん)、居士(こじ)らに、
お供え物を与えられたり(供養)、礼儀をもって敬われたり(恭敬)、意見を重く受け止めたり(尊重)、
苦労を慰められ感謝される(讃歎)。
また、物と言うありとあらゆる空間(虚空)に住む事が出来る諸天が教えを聴こうとして、
常にこの者に従いながら身近にいる。
もし、集落や、町や、荒地や、林の中に居る時、人が居て、その人が難しい質問をしたいと思い、やって来たならば、
諸天が昼夜に関らず、常に法を求める為に、この人を護衛する。
しかも、良く聞く者を選び、この者を通して皆に喜びを与えようとしている。なぜならば、この経はすべての過去から未来、
現在に至る多くの覚者(仏)の神力で守られている所であるからだ。
文殊師利よ。
この尊い法華経と言えども、数えられぬほど沢山の国の中おいては、確かに、この経の名前でさえ、聞く事が出来ぬのに、
増して、この経を見つけ、心に刻もうとして(受持)、空で何度も、何度も、口ずさむ(読誦)事が出来るのであろうか。
文殊師利よ。
例えば、強力な転輪聖王(参:アショーカ王?)が威勢を以って、
多くの国を従がわせようと望んだ時、数多くの小国の王たちはその命に従がわないとしょう。
時に、転輪王は様々な軍隊を引き連れ、その小国に赴き、討伐するのである。そして、
王は兵隊たちの戦う姿を見て、手柄を立てた者を見つけては大いに喜び、その者の手柄(功)に応じた
ほうび(賞)を与えるのである。
時には田宅、集落、町を与え、或は衣服、位を示す物を与える。或は様々な珍宝、金、銀、瑠璃、蝦蛄、
碼碯、珊瑚、琥珀、象、馬、乗り物、奴隷、人民などを与えるのである。
唯一、髪を束ねたもとどり(髻)の中にある傷一つ無い玉(明珠)だけは与えない。
なぜかと言うと、一人の王の頭上には一つの珠しか無いのだ。もし、これを与えたならば、
王の色々な身内の者は、必ず、大いに驚き、怪しく思うであろう。
文殊師利よ。
如来も、また同じなのである。禅定、智慧の力をもって、法の国土(僧団;サンガ)を得て、
三界の王と成り得たのである。
それにも関らず(而るを)、諸の魔王は承知しながらも、大人しく降伏した訳では無かったのである。
如来の配下であり、知恵と徳を兼ね具えた(賢聖)多くの将軍たちはこれと共に戦い、その功を挙げた者には
心から喜んで四衆の中において、その者の為に諸経を説き、その者の心を悦ばす。
そして、ほうびとして、禅定(ぜんじょう;瞑想)、解脱(げだつ)、無漏根(煩悩の無い事)、
力などの諸法の財を与えたのである。
また更に、涅槃(ねはん)の城(戒律の事)を与え置き、「煩悩を滅し、悟りの世界に渡ったのだ」と言って、
その者の心を引導しては皆を喜ばせるが、しかし、皆を喜ばせる為に、この法華経を説く事は無い。
文殊師利よ。
転輪王に従がう多くの兵士たちの内で、大いに功を挙げる者を見ては大いに心を喜ばすが、彼の信じ難い珠を
永い間、もとどりの中に置き、みだりに人に与えず、今ここで、これを与える様に、如来も、またこれと同じ事をする。
我は三界の中において大法王であり、法をもってすべての生きとし生けるもの(衆生)を教え導き、よい方向に向かわせる為、
知恵と徳(賢聖)をもたらす軍である五陰魔(体から来る悩み)、
煩悩魔(犯罪から来る悩み)、死魔(修行者の死)と共に戦うのである。
そして、大きな功績を挙げながら三毒を滅し、三界(凡夫が輪廻する迷いの世界)を抜け出して、
魔網を破る者を見掛けたとしたら、
その時に、如来は大いに喜んで、良く衆生を一切智に至らしめられる。この法華経で、
世間のあらゆる所に怨みが蔓延して、人を信じる事が困難な為に、未だ説く事の無かった所を、
今、これを説くのである。
文殊師利よ。
この法華経は、多くの如来が唱える第一の説(解脱)である。数多くの説の中で最も、
細かくて奥深いものである。
世に生まれ来るのが最後の時(末後)に賜与するのは彼の強力の王が久しく護れる明珠を今、
これを与えるのと同じである。
文殊師利よ。
この法華経は、真実に覚め、これを得た者(諸仏如来)たちの秘密の蔵であり、
数多くのお経の中で一番上にあるものでる。
煩悩(長夜)から守る為に無闇に述べて解き明かす事は無かったのを初めて今日、汝らが為に
これを事細かに述べる。